風という名の永遠の恋・四回目
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④
ドアを開けると、朝の光がベージュのうすいカーテンを通して、病室をぼんやりと浮かび上がらせている。
いつものように峰は、ベッドの脇を通るとき、少女を見る。 白衣のポケットからつっ込んだ手を抜くと、少女の顔の前に差し出す。触れようとしてまたあきらめる。
黒々と長い睫毛はまだ閉じている。
顔色は蒼白いが、それは許容範囲の蒼白さだ。目が覚めたらもう少し頬に赤みが増すだろう。 そう、何でもいい、新しく生まれた一日の美しさを語るのだ。 晴れならば巣箱にめずらしい鳥が来ているみたいだとか、雨ならば庭の赤い薔薇のつぼみが咲きそうだとか。 他愛ないことを話しかけるのだ。 口下手な峰の話でさえ、彼女は簡単に感動するし、興奮しておしゃべりを始めるし、そうすると血が透き通った皮膚を通して昇ってくるのが、はっきりと感じられる。 そしていつもどおり、午後の集いには小鳥のような声で歌いだす。 蝶々夫人のある晴れた日だとか、トゥーランドットの中の 誰も寝てはならぬとか、皆が良く知るオペラのアリアをだ。 少女の歌声を、だれもが無言で聴く。だれも言葉を発しない。 なぜなら、その歌声は人の一生の祈りのようで、あまりにも儚いので、聞き逃したら二度と見られぬ夢と同じなのだと知っているのだ。 だからそこに集う患者たちもその家族も、そして医者や看護士さえも、こそりとも音を立てない。 まるで天の頂点を通過する、太陽のすべり落ちる音、もしくはわずかな時間のこすれる音に、じっと聞き耳を立てるように。 峰はほんの少し立ち止まり、ベッド横のキャビネットに目をやる。 時計やら、マグカップやら詩集、赤い首輪をつけた犬の置物やらを確かめて安心する。 何ら変わらぬいつもと同じ風景。それがここではもっとも大切なことなのだ。 そしていつもと同じように峰は窓ぎわに向かう。 いっきにカーテンを開け、おまけに窓も全開にする。 部屋の中に強烈な朝日と、さわやかな風が流れ込む。 一瞬にして、夜と朝が入れ替わる。
「ううん、眩しいわ。先生」
少女は腕で顔をおおいながら、顔をしかめた。細い手くびに点滴の跡が紫斑として残っている。
「おはよう。今日も快晴だ」
峰がそう言うと、少女が困ったような、半分うれしそうな表情で聞いた。 「ねえ先生、前から聞こうと思ってたの。先生はどうして、看護士さんよりも早くここへ来るの。
検温の時間には30分も早いわ。」
「どうしてかな……」 峰はいつの頃か、毎朝、彼女の部屋の窓を開けるのが、習慣になっていた。
君は目の離せない患者で、医者として気にかけているのさ。そんな言い訳は通らない。 ここの患者に目の離せる患者など一人もいないのだから。 「あらためて聞かれるとね……なんと答えていいか、わからないな……」 峰は苦笑いすると、不満そうに見つめる少女から目をそらした。
峰は初めて彼女にあった日を思い出していた。 その経験は峰にとっては前代未聞であった。
一目惚れ。そうとしか考えようがなかった。
その後、呆れるほど彼女が浮んできた。一時でも頭の中から消し去ることなど不可能だった。 恋に落ちた?
まったくなんて陳腐な言葉か。峰は笑い飛ばそうとしたが、もはや理性ではどうしようもなくなっていた。 まさに顕微鏡に拡大される血液以外で、峰を悩ませたのは彼女が始めてだった。 この29年間、峰の頭の中に人間の顔が浮んだことはなかった。
彼の頭を占めるものは人間の体内の組織だった。
たまに検査室をおとずれる同僚たちは、時おりあらわれては消える、幽霊のようなものであり
ましてや患者とはコミニュケーションもなく、一日の大半を大学病院の検査室で過ごしていた。
そんな峰に、人生の転換機がきたのは半年前だった。
検査室からホスピス病院へ移ることになったのだ。親友のたっての頼みだった。 そこはこじんまりとした個人経営の病院だった。
少し変わった信念の彼の友人は、父親が死んで、その病院をつぐことになったのだ。 もともとは、ふつうの病院で彼の代から、ターミナルケアを主とする病院に変えたのだった。 そして初出勤の日、峰は病院の中庭から流れる、美しい歌声を耳にした。
つづく |

少女は、病室に囚われた歌姫だったのですね。外の世界への憧れが腑に落ちました。
(中段で 榊(さかき)氏が登場していますが、もしかして誤記?)
2010/5/16(日) 午後 9:38 [ cygnus_odile ]
シグさん。処女作を書き直してますが、面白くするのは、けっこう難しい^^;
大ごとになるので、構成は変えられないしなあ。
でも、この作品が一番イマジネーションが高いと思います。
2010/5/17(月) 午後 11:25