私の家族は創価学会

退転した二世の悩み。いつしか家族と本心を分かり合えない仲になってしまいました。

友人葬に初めて参列した。

会社の同僚のご家族が逝去された葬儀だった。
会場は一般的なセレモニーホールだった。
会社関係者には参列は辞退するということで伝わっていたが、
大切なご家族を失った同僚に、少しでも弔意を伝えたいと
思い、参列した。
友人葬とは知らなかった。

受付で「創価学会関係」という表示があった。
参列者は100名程度。
導師の人は礼服姿だった。

勤行が始まった。
参列者のうち、勤行で手を合わせて唱えている人は半分弱。
それ以外の人は手を合わせていない。
親族の席に座っている人も、半分くらいは手を合わせていない。

私が知っている通常の葬儀(浄土真宗など)では、お坊さんが
お経を唱える間、一緒に唱える人は少ないものの、
ほとんどの参列者が手を合わせている場合が多い。

手を合わせていない人たちは、学会に反発して手を合わせて
いないように思えた。
一つの葬儀会場のなかで、「学会の人」「それ以外の人」が
水と油のように二分されているようで、とても異様な雰囲気で
痛々しく感じられた。
故人を偲ぶべき場で、故人を偲ぶことよりも宗教対立の方が
際立っているように思えたからだ。

勤行が終わり、導師の人があいさつした。
故人がいかに広宣流布に貢献したか、が強調されていたが、
具体的な話はなく、誰にでも当てはまる使い古したせりふの
ように感じられた。

「○○名誉地区部長」という称号が学会から故人に与えられた。
戒名の代わりに与えられる称号らしい。
参列者に向けたあいさつではなく、参列した学会員に向けた
あいさつという感じだった。

同僚は、自分が学会員であることを会社で公表していない。
たぶん、知られたくないのだろう。

世間には学会を嫌う人はとても多い。
学会員の人たちもそれをよく知っているから、自分が学会員
であることを公表すると、自分がどう思われるか不安になり、
公表することをためらう。
一方、既に、学会員であることを公言している人は、外部の人に
学会がどれくらい嫌われているのか、ということに、鈍感になる。
集団になるとさらに鈍感になる。もう少し嫌われていることを
自覚して気を使ってほしい。

家族という集団、親族という集団、葬儀参列者という集団、
そのほか、どういう集団であっても、一つの集団の中で、
宗教が分断されているために対立している状態というのは、
どうにも手のつけようがなく、とても残念な状態だと思う。
新興宗教は、そういう残念な状態を作るという意味において、
罪深い存在だと思う。

友人葬に初めて参列して、後味の悪い気持ちになった。

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季節はずれですが、
財務のことがどうしても気になるので、
少し考えを整理してみます。

今は知りませんが、以前、学会では、財務に関して

「財務」したお金は、広宣流布のお役に立つだけでなく、
出した以上の功徳となって自分に帰ってくる。

と指導されていました。
この指導内容が真実かどうかは別として、
こういう指導がされていたのは事実です。

これが真実であると仮定した場合、いくら財務
すべきか、ということを考えてみました。

A:学会初心者、B:バリバリ君(古い?)、C:常識派学会員

A「財務ってどれくらいすればいいの?
  ちなみにボクは今40歳で妻と小学生の子供が二人の4人家族なんだ。
  我が家の蓄えは、老後資金400万円、学資金が100万円ある。
  それと、いざというときの蓄えが100万円。
  合計600万円の蓄えがあるんだ。
  毎月の支払いは、住宅ローンと自動車ローンがあるけど、
  何とか赤字にならない程度にやりくりしているような
  状態なんだけど......」
B「簡単だよ。全財産だよ。」
A「えっ!全財産?
  そんなことしたら、将来の蓄えがなくなるじゃないか」
B「なに言ってるんだ。
  財務したお金はそれ以上の功徳となって帰ってくるって、
  幹部の方がおっしゃっていただろ!
  だから、全部出しても、大丈夫。
  100%安心していいよ。
  学会の教えは絶対だよ!」
A「と、いうことは、、、例えば、だよ、
  毎年財務する人が全部で100万人いるとして、
  全員が、全財産、財務するとして、
  その人たち全員、老後資金や住宅購入資金、学資金、あと
  急に病気になったり、両親が要介護になったりとかで
  お金に困ったりすることはないってこと?」
B「当然さ。老後も学費も医療費も住宅購入費も心配ないよ。
  むしろ、多くの学会員は、まだ、財務が自分のためにも
  なるっていう幹部の教えに半信半疑だから、
  出し惜しみしているんだ。
  これは、信心が足りないってことだよ。
  そんなことだから、功徳も中途半端でお金に困ったりするんだよ。」
A[そっ、そうか、わわ、わかったよ。
  ぜ全部戻ってくるんだね!
  でも、、、、出した以上に戻っててくるんだったら、
  全財産どころか、借金してでも、財務すべきってことかな?」
B「そうだね!借金して財務する、というのは、
  いいアイディアだね!そこまで思いつかなかったよ!
  出した以上の功徳があるんだから、
  自分が借りられる最大の金額を借りて全部財務すれば、
  最大の功徳が得られるってことだよ!
  信心を極めると、そういう結論になるね!」
C「ちょ、ちょっと待ってよ。
  財務したら功徳となって戻ってくるっていうのは正しいけど、
  全財産どころか借金してまで財務して、明日からの生活費も
  ないなんて、いくらなんでもやりすぎだよ。
  いいかい、「功徳」ってのは、結果的に得られるのであって、
  あてににするものではないよ。
  だから、家族の生活や老後の資金は、自己責任で蓄えて
  おくべきだと思うよ」
A「えっ、あてにならなの?
  じゃあ、功徳がなかったとしても、文句言えないってこと?」
C「いや、功徳は必ずある。だけど、いつ、どんな形で現れるかは
  保障されたものではないよ。
  だいたい、出した以上に帰ってくるならたくさんするほうが得、
  なんて損得勘定で考えるべきではないと思うよ、財務はあくまで
  広宣流布のためにするんだから」
A「え?じゃあ、老後資金や住宅購入資金なんかを出してはだめ
  ってこと?
  でもね、僕たちの世代って年金受給額も少ないし、受給年齢の
  引き上げによる空白期間もあるから、老後資金が十分に蓄え
  られている人なんて、少ないんじゃないかな。
  そんな中、みんな、何とかやりくりして財務してるてことだよね。
  でも、功徳をあてにしてはいけないんだったら、
  はっきりそういうべきではないのかな。
  幹部の指導を素直に受け止めると、
  そういう理解にはならないと思うけど。」
C「そうかもしれないけど、
  「財務すれば、やった以上の功徳が自分に戻ってくるから、
   たくさん財務しなさい。
   あ、でも、功徳をあてにしてはいけないよ」
  なんて言われたって、たくさん財務しようという気にならないだろ?
  信心を極めると、お金なんてなくてもいい、という境涯に
  なれる、ってことも功徳の一つの形だと思うよ」
B「Aクン、そんな将来のことを心配してお金溜め込んでいたら
  財務なんてできないよ。
  つべこべ言わず、全財産だせばいいんだよ。
  そうすれば、仏様に守られて、功徳があるんだから、
  金の心配なんてしなくていいんだよ。」
  大丈夫、功徳は必ずあるんだから」
A「でも....もし、財務しすぎてお金に困ったら、
  財務したお金を返してもらうことはできるの?」
C「それはできないよ。どんな理由があっても、一度財務した
  お金を返してもらうことはできないんだ」
B「そんな心配しているってこと自体、信心が足りないってことだよ」
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要するに、私の意見は、
「たくさんすれば功徳があると言うのなら、
 毎年、財務で全財産差し出さない理由はない。」
ということです。

学会の人たちは、そのあたりを、うやむやにしていると思います。

学会員個人の意見ではなく、創価学会の公式スタンスを聞いてみたい。

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 小学生の頃、学会の教えは、
「願いとしてかなわざるはなし」
と教わった。いやあ日蓮も大きく出たものだ。
そんなことがあり得るのだろうか。小学生の頃
からおかしいと思っていたが、やっぱりこれは、
明らかに嘘である。

御書には次のようにある。
「たとえ大地をさして外れることがあっても、
虚空(おおぞら)をつないで結びつける人があっ
ても、また、潮の満ち干きがなくなったとしても、
太陽が西から昇ることがあったとしても、『法華
経の行者』の祈りがかなわないことは、絶対にない
のです」(御書1351ページ)

 「願いとしてかなわざるはなし」を少し言い換え
ると、「かなわない願いはない」すなわち、「願いは
何でもかなう」ということである。願いが何でもかなう
とは、「いつまでに、何が、どうなる」という文の
中の「いつ」「何」「どう」の中に、何を当てはめ
てもよい、ということを意味する。しかし、そんな
ことは絶対にあり得ない。

 これは、だれにでも分かるきわめて単純な論理で
ある。

 百歩譲って、次の文言を追加するとしよう。「た
だし、願いをかなえるためには相応の信心・努力が必
要である。また、いくら努力しても、すぐにかなえる
ことも無理である。物理法則に反する願いはかなえら
れない。それから。また、法華経の教えに反する願
いもダメである。あと、いくら頑張っても、かなわな
い場合は、あなたの信心が足りないか、願いが大き
すぎるか、どれかである」。これくらい付け加えれ
ば、少しは信憑性が出てくるかもしれない。

 もしも、このような、「条件」を必要とするなら、
その「条件」が明らかでなければ、「願いとしてかな
わざるはなし」という言葉には実質的な意味がない
のと同じである。

 しからば、その「条件」とは何か。いったい、ど
こにどのように、その条件が示されているのか。
「願いとしてかなわざるはなし」ということを教える
のであれば、その条件を同時に伝えなければ、イン
チキである。


 ところが、「信心」とは信じることなので、この
ようなインチキにも疑問を持たず、ただただ丸飲み
して信じるのみである。こういうことに、疑問を持
たない人を、私はとても不思議に思う。私には、絶
対に無理だ。正直、バカじゃなかろうかと思う。

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財務のこと

20年ほど前の話ですが
創価学会では「財務」は非常に重要な活動であり
「財務」したお金は、巡りめぐって出した以上の功徳
となって自分に帰ってくる、だから、安心して「財務」
に励め、という指導がなされていました。

私の両親も随分熱心に「財務」に励んでいたようでした。
実際にいくら「財務」したのかは知りませんが、
会話の中に、今年は三ケタ万円を目指すとかいうことを
言っていたこともありましたので、累計すると、それなり
の金額になっているのだと思います。

自営業の父は、サラリーマンと比べて年金受給額が少ない
ことはわかりきったことなので、普通に考えると、老後に
備えてお金をためておかなければならないのは当然です。
実際のところ、両親が老後に備えてどのくらいお金を貯めて
いるのか知りませんが、財務に励んだ結果、老後を自活する
のに必要な貯蓄が蓄えられているのかどうか、心配です。

学会の論理に従うと、「財務」したお金はそれ以上になって
自分に帰ってくるので、老後に備えてお金を貯めておく必要
などないということなのでしょう。

そのとおりになるとよいのですが、
仮に、両親の老後の資金が不足したとすると、長男である私が
その面倒をみることになる可能性は高いと思います。
もしもそうなった場合、老後資金など貯めずに「財務」して
おいて大丈夫、という理不尽な論理を証明する片棒を、私が
担ぐことになってしまいます。
もちろん、両親の老後の面倒を見ることは当然のことですし、
できる限りのことをやるべきと思います。

しかし、「財務」の正当性を証明する片棒を担ぐことは、
私には絶対にできません。
「財務」なんてしたから、老後資金がなくなってしまったんだ
から、「財務」したことが間違っていたということを認めろ、
と詰め寄り、両親が認めたとすれば、私はそれ以上のことを
追求するつもりはありません。
しかし、曲がりなりにも、両親が何十年も心のよりどころにし
てきた信仰です。それを老い先短くなった親に対して、これまでの
人生を否定するようなことを認めさせるなど、まともな人間のやる
ことではないと思います。
親子の間で信じる教えが異なってしまうと、こういう悲劇が
生まれてしまうのでしょう。

今、そんな葛藤を感じています。

あらためて、つくづく、創価学会を恨めしく思います。

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 昨日、二人の学会員の人が、うちを訪ねてきた。
私の実家から「カード」なるものが回ってきたので
あいさつに来た、とのこと。

 1年半前に今の住所に引っ越したが、遅ればせながら、
学会に情報が回ってきたようだ。

 今まで、あちこちを転々としてきたが、そのたびに
頼みもしないのに母親が「カード」なるものを転居先の
学会組織に送り、それを受けた学会の人が訪ねてきた。

 このブログに思いを書き綴ってきた過程で、自分の
気持ちを整理できたので、学会のこともすっかり遠い存在
になっていたのに、久々にいやな思いがよみがえってきた。

 悪い人ではなさそうだったが、一方的でバリバリ君で
私とは永遠に分かり合えなさそうなタイプだった。

 はじめは丁重にお引取り願いたい意思表示をしたが、
しつこいので、だんだん腹が立ってきた。

 忘却のかなたに追いやっていた学会のいやな思い出が
よみがえってきた。

 回ってきたカードを破棄していただきたい、ということと、
自分が、いまでも「学会員」であるなら、退会手続きを
したい旨を伝えた。

もう、二度とこないでほしい。

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昭和40年代に、折伏教典(池田大作監修)という本があった。
創価学会が「折伏大行進」により「大躍進」するための指南書
として活用された本である。

折伏教典には、
・キリスト教は二重人格
・釈迦の法はもう過去のもので何の利益もない
・釈尊出世の本懐である法華経でさえも末法の今日に
 はまったく力はない
・日蓮正宗以外は ぜんぶ邪宗教であり害毒を流すもの
・政界においては、すでに公明党を結成して、王仏冥合
 を実現しつつあるが、同様に、経済、教育、文化等々
 あらゆる分野にわたって、(中略)第三文明の建設
 が、着々と実現されつつあるのである。
などということが書かれていた。

改めて創価学会の人に聞きたい。
○今でも「キリスト教は二重人格」と思っているのですか?
 今でも創価学会の公式見解として、キリスト教は二重人格という認識ですか?
 そうでないなら、いつから、なぜ、その考えが変わったのですか?
 考えが変わったなら、考えが変わったことを、いつ、どのように
 公表したのですか?
 キリスト教の人を侮辱したことに対して謝罪しましたか?
○今でも、「法華経は全く力がない」と思っていますか?
 そうでないなら、いつから、なぜ、その考えが変わったのですか?
○今でも、創価学会以外の宗教は、全部邪宗教と思っているのですか?
 そうでないなら、いつから、なぜ、その考えが変わったのですか?
 考えが変わったなら、考えが変わったことを、いつ、どのように
 公表したのですか?
○公明党は、今でも王仏冥合を目指しているのですか?
 そうでないなら、いつから、なぜ、その考えが変わったのですか?
 日蓮が命懸けで目指した「王仏冥合」の理念ですが、社会から政教一致を
 批判されたからといって、取り下げていいんですか?
 今は批判をかわすために取り下げたふりをしているだけなのですか?
 それとも、本当に取り下げたんですか?

創価学会の思想は、時代とともに変わってきました。
今では、「折伏大行進」の時代のような過激さはすっかり息を潜めました。
しかし、考えが変わったことを、きちんと整理して公表していないように
思います。少なくとも、私は上記の問いに対する答えを知りません。
都合が悪くなると、「なかったこと」にする。
創価学会の悪い癖です。

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私にも、かつて、創価学会に「身を預けた」ことがあった。

私が言う、「身を預ける」とは、疑いの姿勢を排除して
相手の思想に同調する”モード”になること。
「身を預ける」と、とても気持ちがいい。

同じように「身を預けた」人たちと共感できる。

喜びも悲しみも共有できる。

謙虚な姿勢になれる。

「よりどころ」もあるし仲間もたくさんいるので安心できる。

選挙で一緒に戦うこともできる。

つらくとも、一緒に戦う仲間がいれば、
それを乗り越えた喜びも分かち合える。

そうして過ごして行く人生は、とても幸せな人生だ。
だから私は、そうした人生を否定しない。
「よりどころ」に身を預け続けていれば、幸せなのだ。


 しかし、その「よりどころ」に矛盾を感じたとき、
人はどんな反応をするのだろうか?

1.矛盾を感じる気持ち自体が間違いであると断じ、
 その気持ちを封じ込める。
2.矛盾を感じた自分の気持ちをトコトン追求し、
 その気持ちがなんなのかを確かめる。

創価学会では、上記「1.」の姿勢のみが推奨される。
「2.」の姿勢を持った人の意見を聞くふりをしても、
なんやかんや言っても、とにかく根っこの部分では
「1.」の姿勢を求める。つまり、思考停止を推奨する。

創価学会には同じように「身を預けた」多くの仲間がいる。
もしも、自分の感性で創価学会の何かに疑問に感じたことを
追求するとすれば、それらの「身を預けた」同志の意に反する
姿勢である。そういう姿勢に捕らわれることを、創価学会では
「退転する」というらしい。そうやって批判を封じ込める。

かくいう私だって、サラリーマンとして、大組織の中で、
自分の考え方と立場の異なる人との間で考え方がぶつかり合う
こともある。そういうとき、多様な価値観や、様々な立場に立って
考え、自分の考え方を変える場面もたくさんある。

でも、どうしても妥協できない(=気持ちの整理ができない)
こともある。

このブログで書いてきたことは、私が妥協できなかったこと
ばかりだ。

私が、いわゆる創価学会の「バリバリ君」タイプの人と接する
とき、「この人は、完全に学会に身を預けているな。」と直感
的にわかる。そして、そういう人の多くに対し、組織に身を預ける
代わりに「自分の感性を封じ込めているな」とも感じる。

そういう”モード”の人と話をしても、はっきり言って、
全くかみ合わない。そういう人は、創価学会の主張だけがよりどころ
であり、自分自身の感性を主体に物事を考えることができないからだ。

だから、私のように、自分の感性で物事を考える人とかみ合わないのだ。

今後、学会の人と、かみ合わない時には、「私は、あなたと話がかみ合
わない理由を、このように思っている」ことを端的にわかってもらう
ために、この文章を読んでもらうように勧めようと思う。

口ではうまく説明できないから。

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創価学会批判の心理

 創価学会や池田大作氏に対する否定的な主張は、裏付けのあ
る信憑性の高いものから、下劣な誹謗中傷のレベルのものまで、
実に幅広くたくさんあります。インターネットで少し探すだけ
でゴマンと出てきます。
 創価学会は、なぜこれほどまでに批判されるのでしょうか。
学会側の人に言わせれば、学会が正義を広めようとするため、
それを疎ましく思う悪いヤカラからから批判される、というこ
とになるでしょう。

 しかし、私はそうは思いません。

 学会がこれほどまでに批判される根本的な理由は、その思想
が排他的なためだと思います。

 日蓮は、浄土宗(法然)を激しく非難し、国中の災難の原因
は、念仏という邪宗がはびこったからだ、と説きました。
そして、民衆が正法である法華経に帰依しなければ災難は収ま
らないと説きました。日蓮が浄土宗を非難したのは、当時、浄
土宗が広まっていたためであり、日蓮の主張の文脈から類推す
ると、仮に他の宗派や宗教が広まっていれば、その宗派や宗教
を非難していたと考えられます。

 つまり、日蓮の主張は、法華経に帰依する以外は全て「謗法」
すなわち邪宗であり、国を滅ぼす、というものです。

 2代目会長戸田城聖氏が旗を振り創価学会を大きく飛躍させ
た「折伏大行進」では、「折伏教典」なる書物を武器に活動が
展開されました。折伏教典では「日蓮正宗以外は全部【邪宗教】
であり害毒を流すもの」と説かれています。内容は稚拙ですが、
あらゆる宗教をボロカスに批判して見下しており、そういう意
味では、日蓮の思想が内包する「排他性」を明確に受け継いで
いると言ってよいでしょう。

 私も幼かった頃は、「正しい教えは一つ」「真実は一つ」と
いった指導をされ、おかげで、創価学会の呪縛が解けるまで、
多様な価値観を許容できない視野の狭い考え方にとらわれてし
まいました。これは非常に迷惑でした。

 宗教は、善し悪しは別として、多くの人の心のよりどころで
す。それをボロカスに批判され、見下されたとき、中には、創
価学会に入信する人もいるでしょうが、多くの人は当然、怒り
がこみあげてきます。

 そうした排他性が、創価学会が非難される根本的な原因だと
私は思っています。

 その排他性は、あらゆる宗教に向けられますが、特に、日蓮
系の宗派間の対立に強く表れる傾向にあります。
 日蓮系の各宗派間の対立は、昔の左翼の内ゲバと同じ理屈で
す。元々同じ価値観を持つ仲間が、仲間割れしたときの対立が
最も過激になる。

 フランスで創価学会がカルトと認定された理由の一つにも
「排他性」が挙げられています。

 基本思想が排他的であり、争いのタネを内包していながら、
世界平和を唱えるなどというのは、欺瞞だと思います。自己矛
盾です。これは創価学会に限らず、日蓮系の宗派全てに言える
と思います。日蓮の教えに純粋に従うほど、排他的になります。
 逆に言えば、日蓮系の宗派の中で、排他的でない宗派がある
とすれば、その宗派は、日蓮の教えに忠実でない、と言えます。
 仮に、日蓮の教えを信奉しながら、他の宗教や宗派に寛容で
あるとすれば、その人が、自己矛盾に気が付いていないだけで
す。日蓮は、命を懸けて邪宗を非難し、法華経の教えを広めよ
うとしたのですから。

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批判への正しい対処法

 大きな組織になれば、多かれ少なかれ批判やお叱りを
受ける機会は必ずある。それらは個人的な意見であった
り、対立する団体からの批判であったり、マスコミ報道
であったりと、さまざまなパターンがある。
 そうした批判を受けた場合、一般論として、どのよう
に対処するべきであろうか。
1.無視する。
2.事実確認結果を公表することなく、批判する相手を
  批判し返す。
3.事実確認して、確認結果を公表する。
  場合によっては名誉毀損で訴えたり、
  また、場合によっては謝罪の表明をしたり。
  あくまで、事実確認の結果に基づいて判断する。

正しい対処は、3.だと思う。

 通常、企業がマスコミに批判された場合、普通の企業
であれば、「当社のスタンス」というコメントを公表す
る。上記の3.の対応である。ごく普通の対応だ。
 例えば、インターネットの検索サイトで
「報道 当社のスタンス」
と入力してみると、そういう対応の実例がいっぱい出て
くる。批判に対して、当社で確認した事実はこうです、
あるいは、当社はこう考えています、ということを、公
表し、第三者に確認できる情報を提供する。
 一番大事なのは、客観的に確認できる事実を公表する
ことである。

 ところで、創価学会はありとあらゆる場面で批判され
ているが、どんな対処をしているだろうか?

 私は、創価学会が、上記1.と2.の対応をしたこと
をみたことは、いっぱいあるが、3.の対応をしたこと
は見たことがない。しかも、批判するときは、一方的で
ケチョンケチョンだ。

 そもそも、創価学会を批判すること自体が、悪魔の所
業であり、そんな批判に対して、わざわざ事実確認を行
い、確認結果を公表するといった誠実な対応が必要であ
るわけがない、といわんばかりだ。

 だから、私は創価学会はキライだ。

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お詫び

過日、本ブログに掲載した「離れても、批判しても、
バチは当たっていません。今のところ。」の記事に
不適切な記載がありましたので、削除しました。
ririさん、すみません。

創価学会への批判は数え切れないくらいありますが、
事実確認の困難なものもたくさんあります。
「事実確認が困難」というグレーゾーンの部分で
議論をしても、かみ合わずに結論がでないばかりか
感情の入り交じった誹謗に至り、お互いに不毛です。
そもそも、この手の議論は、互いに何を見せられても
自分の考えを変える気はないのですから。

いろいろな方からご意見をいただくのは、ありがたいと
思いますが、このブログで議論する意図はありません。

私自身が、つい感情的になり、不毛な議論に突入しかけて
しまいましたが、少し冷静になり、反省しました。

このブログでの私の発言は、自分の生き方に自分自身で
責任を持つ、と言う意味で責任を持っているつもりです。
しかし、読者の方に対して、内容を保証する意図は
ありません。
平たくいうと、単なる「ぼやき」ということです。
ぼやきながら、もやもやした自分の気持ちを整理しようと
しているのです。

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