コートジボワールは孤児になった。
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1993年12月7日、コートジボワール共和国初代大統領
フェリックス・ウフエ・ボワニ(白いスーツの老人)が逝去した。
1990年に新設された首相に就任していたアラサヌ・ドラマヌ・ワタラが、
その年の5月から大統領代理として働いていた。
しかし、最終的にはコートジボワール共和国憲法の規定に則り、
国民議会議長であったアンリ・コナン・ベディエが2代目大統領に就任した。
ワタラ氏は首相辞任後に国を去り、IMF(国際通貨基金)の理事に就任した。
ベディエ政権下でも経済はよくならず、
ベディエ政権下で編み出された政策、それがイボワリテという政策であった。
簡単に紹介すると、大統領選挙に立候補するのに、
両親ともコートジボワール人でないといけないなどという、
社会不安を煽る内容の政策であった。
コートジボワールには1700万人ぐらいの人々が暮らしているが、
そのうち500万人ぐらいがマリやブルキナファソから来た人々で、
主にカカオ農園、お手伝いさん、タクシー運転手、警備員として
働いている。
このイボワリテは最終的に、ワタラ氏の大統領への立候補を困難にするものであった。
というのは、このころに出てきたのは、ワタラ氏がブルキナファソ人で、
過去に国際会議などにブルキナファソ(当時はオートボルタ)の代表として、
出席していたなどといわれた。
ワタラ氏の本拠地であるコング(コートジボワール北部)はブルキナファソに近く、
おそらく親族もブルキナファソにもいるだろう。
ただ、コートジボワールとブルキナファソの国境線は、フランス領西アフリカの
自治共和国の境界線が、最終的に独立国家の国境線になったが、
民族間の交流というのは途絶えてはいない。
それにコートジボワールがフランスから独立したのは1960年で、
少なくとも2010年の大統領選挙に立候補者の両親に、立候補者本人も
独立時まではフランス人であった。
それにもかかわらず、憲法でその規定を決めるというのは、
甚だナンセンスとは思いつつも、実際にその改正は認められた。
そうして、1999年にワタラ氏がコートジボワールに帰国して、
翌年の大統領選挙に立候補の準備をしようとして、
社会的な不安が高まったところで1999年12月に事件がおきた。
1960年以来、西アフリカの優等生であったコートジボワールで、
軍事クーデターが起きた。
首謀者はロベール・ゲイ将軍だった。
ゲイ将軍は、当初民政移管を早くして、自分は権力に固執しないと表明していた。
ところが、当の本人が大統領選挙に出馬し、主要な候補者の立候補者を排除した。
その中で当選したのが、ローラン・バボ大統領だ。
これで政権が安定するかと思いきや、2002年9月に内戦が勃発した。
反乱軍はアビジャンの占拠に失敗したが、ヤムスクロ以北の国土の占領に成功した。
コートジボワールの内戦は、2002年から約10年続いたものの、
政府軍と反乱軍の戦闘は継続されず、フランス軍と国連コートジボワール活動(ONUCI)の
停戦監視をうけて、国土は分断された。
2004年11月に私がアビジャンに住み始めて1ヵ月後に、コートジボワール政府軍が
反乱軍の最大拠点ブアケ市(コートジボワール中部)にあるフランス軍基地を
爆撃し、フランス軍が報復としてアビジャン空港にあったコートジボワール軍の
軍用機を破壊した。
これに怒った市民がアビジャン市内で反仏デモをしたが、何箇所かではフランス軍が
市民に発砲して犠牲者が出ている。
2005年の大統領選挙は、選挙人登録ができずに延期された。
そして、ついに2010年10月と11月に、大統領選挙が実施され、
決選投票に残ったバボ大統領とワタラ氏の間で決戦投票が行われた。
ワタラ氏が55%の投票をもって勝利したと、独立選挙管理委員会が発表したが、
コートジボワールの憲法院(日本の最高裁判所にあたる)が、一部地域の得票を無効にして、
バボ大統領が勝利したと発表した。
そのままバボ大統領は就任式を行った。
ワタラ大統領はアビジャン市内にあるゴルフホテルでの篭城を強いられた。
つまりコートジボワールに2人の大統領が誕生した。
市民生活は大きな影響を受けた。
欧米諸国や国連からの経済制裁は市民生活に大きな影響をうけた。
それよりもバボ派のワタラ派への攻撃があり、国内避難民を生んだ。
そして、2011年3月31日に密かに武装していたワタラ派のコートジボワール共和国軍が、
アビジャンに進軍し、4月2日にアビジャン市内のほとんどを制圧した。
最終的に、4月11日にバボ大統領とシモーヌ夫人を逮捕して、
大統領が2人いるという異常な状況が終わった。
そして、ワタラ大統領は5月に正式に大統領に就任した。
バボ大統領と夫人は逮捕後、コートジボワール北部のオジェネとブアケで
拘留されていた。
バボ大統領は11月30日にオランダの国際刑事裁判所に送られた。
2012年になり、ワタラ大統領がフランス訪問と、
アフリカ連合の本部のあるエチオピアを訪問した。
さらに先日、ワタラ大統領が西アフリカ経済共同体(ECOWAS)の議長に就任した。
1975年にECOWASが設立されて以来初めての出来事であった。
コートジボワールも内戦終結から1年がたち、アビジャン市内の高速道路計画、
アビジャン市内の第三架橋、マイクロソフトの西アフリカ地域オフィスがオープンするなど、
着実に元々持っていた地域でのプレザンスを回復させつつある。
タイトルの「コートジボワールは孤児になった。」は、ワタラ大統領が首相在任中に、
国父であるウフエ・ボワニ大統領が逝去したことを国営放送で告げた際に、
言った言葉である。
この孤児になったコートジボワールが、実に15年から20年も不安定な状況なったとは、
誰が予測しえたのだろうか・・・。 |

