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たった1回の見聞だけでさも知ったようなことを書くのは気が引けますが、昨年末のイタリア透析ツアーでは驚きの連続でした。世界遺産の観光名所に圧倒されたことは言わずもがな。現代の習慣から風俗まで見るもの聞くもの、すべてが日本とは違うように感じられました。キョロキョロしすぎて無警戒になるツアー客を数多く見ているせいでしょう、添乗員や現地の日本人ガイドらにさんざん脅かされました。「日本人は“歩く銀行”と言われていますからね」と。ロマ(昔のジプシーを今の新聞ではロマと言い替えています)の子どもたちに出会うと、仇敵を見るような目でやり過ごすガイドまでいました。これって、人種差別でしょう。イタリアは差別感情のない国民性と聞いていましたが、例外もあるのかな?
普通の日本人が“歩く銀行”というなら、年老いた透析患者とその付き添いのツアー客などはもっともおいしいカモに違いありません。体力は半人前、シャント(透析をするために動脈と静脈をつなぎ合わせたところ)を傷つけられでもしたら一大事ですから抵抗はできない、さらにイタリア語はもちろん英語ですら満足に話せないのですから、「どうぞ盗ってください」といわんばかりの“歩く財布”といったところでしょうか。ローマのコロッセオでツアー仲間と別れ、愚妻と2人歩き出そうとしたとき、添乗員に「地下鉄には乗らない方がいいですよ」と言われたものです。
コロッセオからフォロ・ロマーノ、トレビの泉と巡り歩き、バチカンにたどり着いたころにはさすがに疲れました。ホテルへの帰りはタクシーを拾えばいいものを、にわかにケチケチ精神がわき起こって、注意された地下鉄に乗ることにしました。欧米人らしき観光客に切符の買い方を教えてもらい、ホームに着いてビックリ。入ってきた電車が落書きだらけです。何年にもわたって書き足されたようで、ものすごく汚い。こんな車両に我慢できる乗客まで何となく怖そうに見える。いろんな人種がいて、その中にスリや泥棒がいても不思議ではない雰囲気と、こちらまで差別感情を抱く始末。ホテル近くの駅まで緊張のしっぱなしでした。イタリアの人々は落書きに寛容なのでしょうか、それとも落書きと修復のいたちごっこは、それこそ神代の昔から続いていると諦めているのでしょうか。
フィレンツェの大聖堂の壁に日本の短大生や大学生、高校野球部監督らが落書きしたニュースがここしばらく続きました。「けしからん」「日本人として恥ずかしく思う」などという日本側の批判は当然としても、イタリア側の反応が面白いですねえ。「落書きは許されないことだが、日本人が深い謝罪の意思を示したことに驚いた。敬服する」と大聖堂の修繕責任者が共同通信記者に語っています(共同通信・「47NEWS」)。
この反応に日本人としては驚きますね。大聖堂への落書きはもともと英語やイタリア語によるものがはるかに多いそうです。「欧米では『文化財への落書きは当たり前のように見られている』だけに『(謝罪を通じて示された)日本人の良識』に尊敬の念を抱いた」と記事は続きます。欧米人の落書き犯は当然のことをしたとうそぶき、謝罪や反省をしないんでしょうか。挙げ句の果てに、野球部監督が解任されたと伝えられると、イタリア紙レプブリカは「男性は職も失いかねない。(日本では)間違いを犯した人間に対し哀れみはない」と伝えたというのですから(別の共同配信記事)。まるで「日本は警察国家だ」みたいな書きっぷりです。落書きに拒否反応を示す日本と、それを茶化すイタリア。彼我の違いに何度も驚きます。
さて、私は…といえば、ハイライトツアーの悲しさ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア)大聖堂を外から眺め、中をたった数分歩いただけで、次の観光スポットへと連れて行かれてしまいました。落書きされているクーポラまで登っていません。登っていたら落書きしたか? とてもじゃないが、出来ないと思います。たとえ英語やイタリア語の先例が五万とあるにせよ、たとえガイドか誰かが「書くと幸せになれますよ」とそそのかしたとしても、あの神々しいまでに美しい建造物を眺めたら、わが名を書き残すようなあほなまねはできなくなるはずです。
フィレンツェを訪れる若い日本人は、辻仁成らの小説「冷静と情熱のあいだ」やその映画版(01年)に引かれたのかもしれません。わたしはどちらも知りませんが、インターネットの映画案内であらすじを読んで苦笑してしまいました。−主人公はフィレンツェの工房で技術を学んだ美術絵画修復士。今は外国人の男と何不自由のない生活を送っているかつての恋人との再会や、自分が修復中の絵が何者かに切り裂かれるという事件に深く傷つき、日本に帰る。ところが昔の恋人への思いは募るばかり。女もまた…。2人には10年前、何気なく約束したことがあった、フィレンツェの大聖堂のクーポラで会おうという…。そこで永遠の愛を誓い合うのであった−
「永遠の愛」などはなっから信じていない私のような皮肉屋は、あらすじを書き写していているだけで恥ずかしくなるようなストーリーです。この小説や映画に感動した方なら、まさか「花の聖母マリア」に落書きしようとは思わないでしょう。曲がりなりにも修復士の苦悩を知ったでしょうから。「永遠の愛」を信じたとしても、へたくそな字で書かれた2人の名前をハートマークで包むというのでは恋愛小説の体をなさないとご存じでしょうから。
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