腎臓はもちろん、眼も歯もだめになりそう。医療のおかげで長生きしている透析患者が『大往生したけりゃ医療とかかわるな』を読む
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桂文珍の新作落語「老婆の休日」は、病院に治療に来たのか、おしゃべりをしに来たのか、分からない老人たちを笑い飛ばした傑作です。眠れぬ夜に何度も慰められ、笑わされてきたのに、どんどん笑えない立場になっているようで、怖くなってきます。つまりですね、私自身が連日病院通いをするような「老婆」になりそうだ……いまはそういう気分なのです。
きっかけは眼鏡屋さんの出来事でした。先々週、一年前に作ったメガネが早くも見えにくくなってきたので、レンズ交換を頼みに行ったところ「左目だけ度数がかなり進んでいる。もしかすると血圧が高いせいかもしれないので、もう少し様子を見たら」と言われました。免許更新の時期が近づいているのに大丈夫かしらん、と思ったものの、「今は作らないほうがいい。もし度数が改善すると、また合わなくなることもあるから」というところに商売人には珍しい誠実さを感じて、そのまま交換せずに帰ってきました。
一昨日の21日、免許更新の際に愕然としました。視力検査を問題の左目からするではありませんか! 0.7レベルのСマーク?の上下左右どこが開いているのか、よく見えません。右目だってかなりあやふや、一か八かを言う始末でした。「かなり進んでいるようですから対策を考えてください。大変なことになったら取り返しが付きませんから」と担当者に言われたものの、無事故無違反の優良運転者のせいでしょうか、お情けで通してもらったような気がします。むろん、運転は両目でするのですから、まだ事故を起こさない自信はありますが、眼鏡屋さんと運転免許センターの両者から視力低下を指摘されると、不安は消せません。
仕方なく透析医院の主治医から薦められた眼科医院に電話してみました。3月初旬まで予約で満杯とのこと。仙台では評判のいい眼科ですので、白内障などに悩んでいる老人たちで混雑しているのでしょう。私も「白内障が始まっている」と別の眼科に言われてから5年。いずれは手術をしなければならないのかもしれません。
こうなると毎週月水金の透析に、どの程度の頻度になるか分からないものの眼科や歯科通いを加えると、年がら年中病院通いをするような気分になります。退職し、晴れて年金生活を満喫できる?立場になったというのに、自らの入院やら人さまの葬式やらに振り回され、ろくすっぽ遊ばないうちに「老婆の休日」状態になるとは、何たる運命の悲喜劇でしょうか。それがつらい、つまらないというのなら、人生の幕引きを考えればいいものなのに、「まだ生き足りない」と思う自分がいますから、このまま「老婆」に突き進むしかないのかもしれません。
面白い本を読みました。『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ』(中村仁一著・幻冬舎出版)です。著者は京大医学部卒。病院院長などを経て、現在老人ホーム付属診療所所長というお医者さんです。長年、老人ホームで、最後まで点滴注射も酸素吸入もいっさいしない「自然死」を数百例もみた体験から、「『死』という自然の営みは本来、穏やかで安らかだったはずです。それを、医療が濃厚に関与することで、より悲惨に、より非人間的なものに変貌させてしまった」と書いています。
以下、面白いと思ったくだりを引用すると……。
「がんでさえも、何の手出しもしなければ全く痛まず、穏やかに死んでいきます」
「繁殖を終えた年寄りには『がん死』が一番のお勧めです。ただし『手遅れの幸せ』を満喫するためには、『がん検診』や『人間ドック』などは受けてはいけません」
「病院通いの年寄りが多いのは、私たちの同業者が『健やかに老いなければならない』と脅し続けてきたせいもあります」
「本来、年寄りは、どこか具合の悪いのが正常なのです。不具合のほとんどが老化がらみですから、医者にかかって薬を飲んだところで、すっかりよくなるわけはありません。昔の年寄りのように、年をとればこんなものと諦めるのが必要なのです」
どうです? 面白いでしょう? 「医療が“穏やかな死”を邪魔している」「『できるだけの手を尽くす』は『できる限り苦しめる』」ことと同じ、「がんは完全放置すれば痛まない」し、「『健康』には振り回されず、『死』には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がける」というのですから、厚生労働省が大喜びしそうな本です。
単刀直入に言えば、年取ったら病院などに行かず、食事が摂れなくなったら点滴など受けず、自然に死ぬようにした方がよほど楽だよ、という主張です。
先月亡くなった義兄を見て、それを痛感しました。7カ月間寝たきり、点滴と人工呼吸器によって生き永らえていた彼は、亡くなる前日、猛烈に苦しそうな呼吸をした挙句に亡くなりました。私だったら絶対にいやな逝き方でした。中村さんの主張どおり、下手に医療に委ねたのがいけない、自然死だったらもっと楽に死ねたのかもしれません。
……とまあ、『自然死のすすめ』にぞっこんほれ込んだにもかかわらず、現実の自分は透析で生かされ、眼科や歯科に通い、つまりは医療を死ぬまでむしゃぶりつくそうというのですから、お話になりませんかねえ。
中村さんは、自分がそうなった場合にそなえて、家族、周囲に対し次のような「事前指示」を書いています。
「意識不明や正常な判断力が失われた場合、左記(ここでは下記)を希望する」
一、できる限り救急車は呼ばないこと
一、脳の実質に損傷ありと予測される場合は、開頭手術は辞退すること
一、原因のいかんを問わず一度心臓が停止すれば蘇生術は施さないこと
一、人工透析はしないこと
一、経口摂取が不能になれば寿命が尽きたと考え、経管栄養、中心静脈栄養、抹消静脈輸液は行わないこと
一、不幸にも人工呼吸器が装着された場合、改善の見込みがなければその次点で取り外して差し支えないこと
4番目の「人工透析はしないこと」に、私はドキリとしました。透析を受けなければ、せいぜい1週間後にはおそらく「自然死」のように穏やかに死ねるのだろうと感じて。年老いて突然透析を受ける羽目に陥ったのなら、それを拒否したくなる心情は分かります。しかし、そんなむごい判断を家族ができるかどうか……。
その点、私のように18年も透析のおかげで生きてきた患者は楽ではないでしょうか。「もう十分生かされたのだから、(意識不明や正常な判断力が失われた場合)無理に透析を続けなくてもいいのかもしれない」と、家族も医師たちも判断してくれそうじゃありませんか。
自然死がもっともできそうなのは、老いた透析患者かもしれない……何となく健康な人々がかわいそうに思えてくる『「自然死」のすすめ』だったのです。
以下余談
透析を管につながれたスパゲティ症候群と同じように感じる方もいるかもしれません。確かに週3回、1回当たり4―6時間は2本の管につながれますが、透析が終われば、後は何をするのも自由の健常者状態です。たとえ、「繁殖を終えた年寄り」といえども、透析を受けることが苦痛ではない程度に健康であれば、透析は過剰医療の範疇には含まれない、と私は思います。
きょうの仙台は雪のち雨。午後3時すぎになって、泉ケ岳をなんとか遠望できました。 |

