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上田市の千曲川畔に広がる広大な平地で、武田信玄の侵攻を受け、東信濃の勇将・村上義清がその勢いを折るほどの大戦乱が転回されました。上田原の戦いです。壮絶な戦乱となり、信玄も幾多の重臣を失い、双方で6千人もの戦死者を出したという悲しい歴史上の証言の地です。
この地にある石久摩神社境内に、戦死者を悼む「上田原古戦場碑」が建立されています。境内には、上田原の戦いに関する説明文がそこここにあり、地元民の歴史に寄せる心情が伺えます。年表では、風林火山を再度思い起こし、当時の状況を改めて整理が付く思いです。この近辺には亡くなった武将たちの墓石が散在しています。
「上田原合戦のあらまし」
天文十七年(1548)二月武田信玄は、大軍をひきいて、小県郡に攻め込んだ。葛尾城主村上義清は、これをむかえ討ち、十四日上田原で大いに戦った。両軍に死傷が多く、とくに武田軍は、勇将板垣信方、甘利虎泰が戦死し、信玄も負傷したが、村上軍でも、雨宮刑部、屋代源吾、小島権兵衛らの勇将を失い、たがいに大打撃をうけた。
上田原区民は、史上重要な合戦を世に伝えるため、総意を集めて、その忠心地ともみるべき石久摩神社境内に記念碑を建立することとした。
昭和四十四年(1969)十二月
「上田原合戦前後」
天文十二年九月 武田晴信(信玄)佐久郡を侵略
同 十五年五月 武田晴信、佐久郡内山城を攻めとる
同 十六年八月 佐久郡浅間山小田井原で武田軍 関東管領上杉憲政の軍を 破る
同 年八月 武田晴信、佐久郡志賀城を攻めとる
同 十七年二月一日 武田晴信、甲斐を出陣
同 年二月十四日 村上義清と武田晴信、上田原で激戦
武田晴信、敗戦の憂きめに遭う
武田軍の将、板垣信方、甘利虎泰ら討死
村上軍の将、屋代源吾、小島権兵衛、雨宮刑部ら討死
同 年三月五日 武田晴信、諏訪郡上原城へ退く
同 年四月 村上義清、佐久郡に侵入し諸城を攻めとる
同 年七月 武田晴信、筑摩郡塩尻峠で小笠原長時(信濃国守)の軍を破る
同 年八月より 九月までに武田晴信、佐久郡の諸城をとり返す
同 十九年九月 武田晴信、村上義清の前線基地である砥石城を攻めたが大打 撃を受け撤退する
同 二十年五月 武田軍の先鋒真田幸隆砥石城を攻略
同二十二年四月 葛尾城落ち村上義清、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼る
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双方で6千人の戦死者ですか・・・。
川中島の合戦はよく知ってますが、この合戦は存じませんでした。
2009/7/9(木) 午後 9:26
信濃の村上氏は、この後上杉謙信に援軍を求めたので、川中島合戦の一端として紹介されることもありますので、上田原合戦がその影に隠れていることもありますね。
2009/7/11(土) 午前 11:51