上田原古戦場跡には、ここで戦死した武田、村上双方の重臣級の武将の墓碑が散在しています。観音寺には、それらの死者が葬られ供養されています。
畑の真ん中にぽつんと存在する信玄方板垣信方の墓碑
やはり目立たないところにあるのは、村上方の屋代源吾の墓碑です。屋代は信濃鉄道に駅名として残っています。
観音寺の近くにひときは立派な墓碑があります。信玄方の雨宮刑部の墓碑。かたわらに「上田原合戦のあらまし」という長い説明碑が立っています。
「天文17年(1548)2月甲斐の武田晴信(後の信玄)は、大軍を率いて、小県郡に攻め込んだ。地元葛尾城主村上義清はこれを迎え討ち、同月十四日この地で激しい合戦が行われた。この戦いで武田軍は破れ、重臣板垣信方・甘利虎泰・才間河内守等討死、晴信も傷を負ったが、村上軍も雨宮刑部・屋代源吾・小島権兵衛等が討死し、決定的な勝利を得ることができなかった。ここから南方に望む倉升山一帯には、物見山・合図山・兵糧山・御陣ヶ入・御陣ヶ原・鉦ヶ窪・味方原等武田軍の布陣を示す地名があり、転じて北西には村上軍が陣をすえたと伝えられる天白山があり、下って物見塚・産川崖上には三兵・村上の旗を立てたと言う旗塚の跡等あり、共に今も小字名として残されている。」
石久摩神社の裏手の畑地の畦道のようなところに一まとめにされて「戦死者の墓」という表示で古めかしい五輪塔があります。名も明示されない農民武士でしょうか。今もってものの哀れを感じさせます。
(説明文は画像上でクリックすると拡大表示されます。)
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