





高仙寺が合戦でその大伽藍が失われてしまいましたが、唯一大日堂が残り、この地方での最大の規模を要する大日堂になっています。柱間が五間(実尺16.55m)四方に及ぶ宝形造りの堂です。見るからに、こんな山中にと思わせるほどに立派なつくりです。天井の格子造りも整然とした造りで威儀を正したくなります。室町時代中期の創建と推測されていますが、残念ながら江戸時代の改修で原形を失い、昭和55年の大改修で原形に復したものだそうです。そんなことからか市の記念物に留まってしまっているのでしょう。
「大日堂沿革」
本尊は、密教至上の金剛界、胎蔵界大日如来である。
伝えられる縁起によれば、往古人皇第三十三代推古天皇の御代小泉天白山中に顕現の光明赫奕たる御尊像に小堂を建て安置し奉るに、利生四方にひびき参詣人日々群集すと云う。その後人皇第五十代桓武天皇の御代、坂上田村麿征夷大将軍として東夷平定の為、延暦十五年(797)此の地を通過され、其節御参詣これあり。東夷平定無災願望成就を祈願し、御帰陣の際此の地に立願の伽藍方十二間四面、朱門、十二坊、仁王門を建立成就し大同元年(806)入仏供養す。以来此地を通過する東山道の安全祈願所として栄え、長治二年(1105)柿葺を瓦葺としたが、天文十一年(1542)萱葺きに改めた。
天文十七年(1548)甲斐の武田信玄と坂城葛尾城主村上義清の上田原合戦の兵火により、本堂のみを残し、別当高仙寺をはじめ朱門十二坊仁王門等ことごとく焼失した。修理の年回は記録及棟札の示すところによれば元和七年(1621)、天和二年(1682)、寛保二年(1742)、享和二年(1802)、嘉永二年(1848)、明治七年(1874)、明治二十二年(1889)、大正十年(1921)、昭和二十五年(1950)、昭和五十五年(1980)には屋根組解体し銅板にて柿葺様式に復原した。
堂の前庭に立つ明治二十六年銘の大日堂碑は文学博士重野安繹先生の選文であり、文中に大和の太子堂 宇治の鳳凰堂 平泉の金色堂にも伯仲するものと書かれている。寛保二年(1742)の棟札を見ると、浦野組 小泉組が平等の立場において屋根葺替修理を行っている。尚古くは佐久 更級 埴科の広い範囲の人々の助力があったことが記録に見えるが、これは創建に信濃の国司の指令があったことを物語るものと思う。
御祭日 毎年四月二十日 大般若会法要が行われる
御開帳 本開帳 六十年毎、中開帳 中間三十年毎 (大法要、二十五菩薩来迎練供養が古来より行なわれている)
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