

道の駅「雷電くるみの里」の一角に、こじんまりした「雷電資料館」が付設されています。雷電についてはこの街のあちらこちらにその縁りのものがあり、郷土の誇りとして大切にされているようです。小さいながらの展示館ですが、小ぎれいに整備され、要領よく雷電の生涯が紹介されています。
生い立ちのところでは、少年だったある夏の午後、母が庭で据風呂に入っていたところに急に雷鳴と共に激しい夕立が来たので、雷電(幼名太郎吉)少年は母を風呂桶ごと抱えて、家の土間に運び込んだとか、細く険しい碓氷峠の山道を荷を積んだ馬をひいてきたところ、加賀百万石の殿様の行列に出会ってしまい、狭い道を避けることもできず困ったところを、荷を積んだ馬の足を持って目よりも高くさし上げ、無事行列をお通しし、殿様からお褒めにあずかったといった逸話が紹介されています。まさに怪力の少年だったとか。
千曲川の長瀬村の庄屋上原源五右衛門が開いていた「石尊の辻」に寄宿して学と技を磨いていたとき、江戸相撲の浦風林右衛門一行の巡業に出会い、見込まれて江戸相撲に入りきっかけになったのだそうです。寛政7年には大関に昇進し、16年27場所の長きにわたり大関(その頃の最高位)の栄位を保持し、古今最高の勝率を上げているのです。
「天下無類の力士なり 」
明和四年(1767)、信濃の国は浅間山のふもとの里、大石から天下無類・怪力無双というにふさわしい力士、雷電為右衛門が誕生しました。寛政二年(1790)11月、いきなり西方関脇に付け出され、8勝2預かりの成績を収めました。当時の相撲界を代表する谷風・小野川をも上回る成績で、幕内最高成績をあげてのデビューでした。初出場で関脇に付け出されたのも驚くべきことですが、その上8勝負けなしの成績は信じ難いことです。
翌寛政三年、十一代将軍家斉候の上覧相撲が江戸城内吹上苑において催された際、結び前の取り組みが雷電対陣幕でしたが、この時は意外にも雷電が陣幕に「のどづめ」で負けています。この結果を知った何者かにより落首がなされました。「陣幕に張りつめられし御上覧 今年や負けても来年(雷電)は勝つ」と、狂歌にまで詠まれましたが、その後、陣幕には二度と負けませんでした。
松江藩のお抱え力士であった雷電は、松江藩上屋敷の近くに居を構えていました。上屋敷の一角には土俵が築かれ、殿様の前で稽古に励んでいたことでしょう。
雷電は、赤坂から麹町そして四谷傳馬町へと居を移していますが、いずれの地も上屋敷からの距離はわずかでした。江戸での暮らし以外に、京・大阪相撲や地方巡業・国元松江への往復等で多忙を極め、当時世間で力士達は「一年を二十日で暮らす良い男」と言われていましたが、そのような訳にはいきませんでした。
(「石尊之辻」⇒http://blogs.yahoo.co.jp/akira_o2ka/58280395.html '09.7.29)
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