2つの聖なる場所 聖カタリナ修道院とハトホル神殿
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旧約聖書で述べられている「シナイ山」がシナイ半島南にある山に特定されたのは、それなりの背景がある。・・・とは言いながらも実際の経緯を知らないので、少し手がかりとなるような点を考えてみた。
2つの聖なる場所聖カタリナ修道院標高2285メートルのシナイ山はシナイ半島最高峰のカテリーナ山(2642メートル)の次に高い山だ。そのシナイ山の7合目(1585メートル)あたりにギリシア正教会の聖カテリナ(エカテリナ)修道院がある。車で走れる道路はこの聖カテリナ修道院でおしまいで、シナイ山の頂上に登る残りの高さ700メートルは足で(部分的にはラクダでも可)行かなければならない。
ギリシア正教会・・・というのは意外だが、今日この修道院はギリシアのアトス山(アトス自治修道士共和国)から派遣されたギリシア正教の修道士たちの修行の場となっていて、外部の観光客はバシリカ聖堂以外は見学出来ないそうだ。何だかこの聖カタリナ修道院とアトス自治修道士共和国との関係も、とても興味をそそられるのだが・・・、ここは先へ進もう
詳細は以下の西村氏の解説を見てみるとよい。
聖カテリナ修道院の歴史は古い。モーセの時代・・・とまではいかないが、それこそ原始キリスト教の時代になる。
1884年、西暦381年から384年頃にエゲリアという名の女性によって書かれた記録の断片がイタリアのアレッツォにある修道院の図書館で発見された。彼女は、当時のエルサレムやシナイ半島にある聖地を回り、復活祭やイエスの誕生祭などの様子を詳細にイタリアの修道女に手紙の形で報告していたのだ。
実際に聖カテリナ修道院にあるマリーン・チャペルは、西暦4世紀頃にはすでに建てられ、修道僧が居住していたと考えられている。“マリーン・チャペル”という名前からも推察される通り、聖母マリアを崇拝するチャペルだ。西暦9世紀頃にアレクサンドリアのEutychiosという人物が、マリーン・チャペルを建設したのは、コンスタンティヌス1世の母ヘレナであるという説を書いてあるのだが、これは当時流布したありきたりの「ヘレナ伝説」の一つであると考えられる(日本語ウィキペディアにはこのあたりの時代関係がごっちゃになって記述されている)。
コンスタンティヌス1世の母ヘレナについては下記↓をご参照ください
西暦527年から565年の間に、外敵から修道院を守るため東ローマ帝国第2代皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527年〜565年)の命によって縦85メートル、横76メートル、そして高さ15メートルの壁がつくられた。ただし、修道僧たちは実際この修道院で暮らしていたわけではなく、周辺に小さな集落をもうけて生活し、危険などが差し迫った場合にのみ、修道院の中に避難したと考えられている。
この教会の近くにはモーセが見たとされる“燃えるしば”や、モーセが妻チッポラと運命的な出会いを果たした井戸があるという。
「カタリナ」の名は、ローマに行きキリスト教への迫害をやめるよう皇帝に訴え、殉教死したアレクサンドリアのカタリナ(287年〜305年、聖大致命女エカテリナ)の伝説に由来する。彼女にまつわる伝説はいろいろ存在するが、処刑された彼女の遺体は、その後天使によってシナイ山まで運ばれたという。
この修道院が聖カテリナ修道院と呼ばれるようになったのはそれからなのだが、西欧諸国では西暦14世紀頃、東欧地域では19世紀になってからだろう。
・・・
ハトホル神殿エジプトに初期王朝時代(紀元前3100年頃〜紀元前2686年頃)より、シナイ半島のワジ・マガレ(Wadi Maghareh)やセラビト・エル・カーディム(Serabit el-Khadim)といった地域は、トルコ石の産地として有名であり、現地のMonitu人はシナイ半島を「トルコ石の土地」と呼んでいた。(前回の記事より抜粋:http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30230523.html)
女神ハトホル
前述の聖カテリナ修道院から北西へ50キロほど行ったところ、そしてワジ・マガレから北へ10キロ行ったSerabit el-Chadimという場所にハトホル神殿はある。
女神ハトホルがトルコ石の貴婦人と呼ばれるのも、彼女のこの辺りの鉱山で働く労働者の守護神であったためでもある。
『ホルスの家』という意の女神ハトホルは、古代エジプトでは牛の姿、もしくは頭上の牛の角に日輪をのせた姿で描かれていた。彼女の歴史は非常に古く、遅くともエジプト古王国の第一王朝時代のナルメルのパレットやアビドゥスのUmm el Qaabにあるジェル(第1王朝時代の王)の遺跡から発見された象牙の遺物から牛の姿で描かれている女神ハトホルがみられている。
ナルメルのパレットのバート(ハトホル)
彼女は元々天の女神として崇められていたローカルの神『バート女神』であると考えられる。名前の由来は、魂を象徴する鳥バーの女性形だ。ナルメルのパレットに描かれているのはまだバート女神であったころで、ハトホルとの違いは角の向きが外側にまいているか、内側にまいているかの違いによる。
このバートは、第11王朝時代からハトホルとの融合が進み、新王朝時代から末期にかけてはほとんど碑文には登場しなくなるが、グレコ・ローマン時代には、またこのバート崇拝が復活する。
ハトホルはすべての女性や愛の女神としてだけでなく、死を司る女神であった。ギリシア神話のヘルメスのように死者を導くという役目があり、魂が例え逸れてしまってもハトホルが迎えに来てくれるというのだ。こうした役割はオシリス再生のイシスにも似ていて、新王朝時代になるとイシスとハトホルはヒエログリフの碑銘によってのみにしが見分けることが出来なくなる。
6月22日の夏至にはハトホル祭が開かれた。古王国時代、この祭りはナイル川増水と関連して行われたが、背景にある神話は豹の顔をした女神セクメトのそれと似ている。つまり・・・人類の絶滅だ。
新王国時代の王墓壁面には「人間の絶滅」と呼ばれる文書が記されているが、これによると太陽神ラーは、天空においてだけでなく、地上の人間達からも攻撃され、やむなく、その都度懲罰を加えていく模様が読み取れる。ラーは人間を絶滅させるため、ハトホルの姿となったラーの目を、人間抹殺のため地上に降臨させる。ハトホルは人間を殺し続けたが、これ以上続けると、地上に生存者がいなくなると判断したラーは、女神の睡眠中に、急遽血液に似た黄土色(赤)の色素をまぜたビールをつくり、地上に注ぐ。案の上、血に飢えたハトホルが人間の血と間違えそれを飲み干したため、酔っ払って殺戮どころではなくなった。
・・・それで・・・
何がハトホル祭だというと、
飲んだくれるだけの話だ。。。
・・・
実際にどういう祭りだったかというと
まず、ハトホルの像が祭りの場に到着すると、決まった歌を歌い、セレモニーマスターが挨拶代わりに赤く染まったビールを一杯飲み干す。この祭りではビールだけでなく赤ワインやリキュールとスピリッツの混ぜ物も重要な役割を果たす。その後、セトのワインと呼ばれるものが、ハトホルの気持ちを癒すために捧げられるらしいのだが・・・
ドイツ語版ウィキペディアによれば、ハトホル祭にて歌われた歌は、秩序だったリフレインとストローフィに基づいていて(音楽用語はわかりません)、内容は、ハトホルの帰還、彼女の司るもの、そして彼女による加護といったテーマごとに分けられていたそうだ。つまり、オーケストラを連想させるような、かなり洗練されていた音楽だということになる。
楽器は2つのグループに分けられ、第1グループはリズム楽器を中心としてSistrumやMenat、そして太鼓にも似た膜鳴楽器を使用し、第二グループはハープ、リュート、キタラー(アポローンが持つ弦楽器)などの弦楽器で構成されていた。当時の様子は、デンデラのハトホル神殿に見ることが出来る。
Sistrum
Menat
そして、デンデラのハトホル神殿のリリーフにある
ハトホル祭でタンバリンを鳴らす7人の女たち
ふむ???
・・・いや別に関連があるとか述べるつもりはないが、7人のタンバリンを鳴らす女を見ると思いだす。
モーセが海を割って、エジプトの地を出た時、
姉のミリアムはタンバリンをもって踊るのだが・・・
ついついハトホル祭りの時の癖が・・・という感じなのだろうか?
ところで、アロンがモーセの不在中にシナイ山麓でつくったのが、
ハトホルをシンボルとした黄金の子牛だ。
こうしたことから考えると、モーセが登山したシナイ山というのは、やはりシナイ半島のどこか・・・女神ハトホルに所縁のある地に違いないとも思われるのだが・・・。
ちなみにモーセの姉ミリアムはアラム語だが、実際はマリアを指す。 聖カテリナ修道院とハトホル神殿という、シナイ山を特定する上で、面白いアプローチかもしれないが、今一つ釈然としない点がある。
それは・・・
ヤハウェーとの関連が見られないということだ。
むむ。。。
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