政府紙幣を考えるブログ

政府紙幣をメインにはじめたのですが、歴史を追ってマネーの迷宮に迷い込んでしまった。

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幻のシリアゾウを追え! Part1

 
ここのところ「検証: 聖書アラビア起源説!」シリーズを続けてきたのだが、本日は番外編だ。
 
前回の疑問点は・・・ 
 
 
トトメス3世は本当に象狩りをおこなったのだろうか?
 
シリア象は実在したのだろうか?
 
オリエント世界の美術品や工芸品の素材として象牙が使われていたにもかかわらず、「ゾウ」そのものがオリエント美術に登場しないのはどうしてだろうか?
 
ひょっとして象牙とは言っても、実際にはナイル川のカバの歯であるとか、イノシシの歯でも代用はきく。これらを単に象牙と言っていただけではないのだろうか?ひょっとすると、ファラオの墓の遺物やフェニキア美術に代表される「象牙製品」は、イノシシの歯とかなのかもしれない。
 
それに・・・ 
 
象の分布
イメージ 1
 
 
これだけを見るとシリア象が実在したとはあまり考えにくい。
 
 
 
・・・いやいや 少し違うかもしれない。
 
 

古代エジプト人と象

紀元前3000年に古代エジプト文明が勃興する以前、この地域からすでに野生の象は見られなくなった。しかし、ナカダ文化第一期(紀元前4500年〜紀元前3500年)のものと思われるロック・アートにはダチョウなどと一緒にはっきりとアフリカゾウが描かれている。また、ヒエロコンポリスでは、埋葬されたゾウの骨が発掘されている。紀元前3600年頃のものだという。
イメージ 2
 
 
ナカダ文化については下記リンクをご参照ください ↓
 
 
古王国時代のエジプトで第六王朝(紀元前2347年〜紀元前2216年頃)といえば、強力な王権の下に巨大ピラミッドを築いてきた時代に幕を閉じた王朝だ。この時代、メソポタミアではシュメール文明も終焉を迎え、オリエント世界には新たな秩序が構築されることになる。気候の変動によって、ナイルの増水が思うように起こらなかったことが、王権の失墜をまねいたとも指摘されるが、貴族などの交易と経済力を背景とした新たな影響力のある社会層が台頭してきたことも原因の一つかもしれない。
 
その時代、上エジプトと言われるナイル川上流部にハルクフ(Harkhufと言う名の地方領主(知事)がいた。商人としての才覚もあった彼は時代の寵児と言うべく、第6王朝の3代目ファラオであるメレンレ(紀元前2250年〜紀元前2245年)と、彼の異母兄弟であるペピ2世(紀元前2245年〜紀元前2180年)に仕え、四回にわたるヌビア遠征を指揮した。
 
以下は下記サイトより抜粋
最初の3回の旅行は、第6王朝第3代国王メレンレ(Merenre/Mernere;在位 2255-2246BC)の命令によるもので、1回目だけ父親と一緒であった。1回目は7ヶ月、2回目は8ヶ月かけ、ともに貴重な産品を持ち帰ってきた。3回目には、途中でヤムの首長がテメー(Temeh;現在のリビアの一部とのこと)との戦争に向かうところに遭遇し、外交手腕を発揮して彼らの紛争を調停している。そしてその謝礼としてロバ300頭分の贈物(香料、黒檀、穀物、豹の毛皮、象牙...)が贈られ、危険地域から出るまで護衛までつけてもらって持ち帰った。

4回目の旅行は、メレンレの弟ペピ2世(Pepi II;在位2278-2184BC)の時代である。ハルクフはその時ピグミー人の踊の名手をエジプトに連れ帰ったのだが、その報せを受けた8歳になるペピ王からハルクフに宛てた手紙がハルクフの墓銘碑の中に引用されている。

 『・・・汝は朕への報告書の中で、地平の住人の地から神の踊りを踊る矮人を連れ帰ったと申している。イセシ(Isesi)王の世に神の賜物バウルデッド(Baurded)がプント(Punt;エティオピアと考えられている)の地から連れ帰った矮人の如くに。これまでヤムの地を訪れた者により彼の矮人の如く連れてこられた者はいないと汝は申している。

・・・・・・直ちに北に進み、王宮に参上せよ。汝が地平の住人の地より生きて盛んで元気なままで連れている彼の矮人を召し、上下両エジプトの永遠に生きる王ネフェルカレ(Neferkare;ペピ自身のこと)を踊にて喜ばせ、心を揺さぶれ。彼の矮人が船にて下る際には、気の効く者どもを付け、彼の者の両傍らに侍らせよ。水に落ちることのないよう世話をせしめよ。夜の眠りの時には、気の効く者どもに両脇に添い寝させよ。朕はシナイやプントの贈り物にもまして、彼の矮人を見ることを欲しておる。・・・・・・』
 
 
ペピ(ペピ2世)は、上エジプトの有力貴族クウイ家の娘の間に生まれ、わずか6歳でファラオに即位した。彼は100歳まで生き、実に94年の在位期間を持ったとされている。彼がまだ幼少の時、王に代わって実権を握ったのは王母アンクネスメリラー2世と宰相のジャウで、どちらもクウイ家の出身であった。
 
イメージ 8
 
この時代、古代エジプトにおける象牙などの取引は南方のヌビアを仲介して行われていたとされる。ファラオや神官が象を直接目にすることはなかったのではないだろうか。
 
 
エジプトが再び黄金期を迎えた18王朝時代、先般のブログでトトメス3世が行ったシリア象の狩りについて書いたが、どうも象狩りを行ったのは彼だけではないようだ。
 
 
トトメス1世(紀元前1504年〜紀元前1492年)
彼の治世おそらく4年目か5年目の年にシリアに向けて軍事遠征をおこなった。その帰り道に象狩りを行ったと言う。彼の娘であるハトシェプストはその時に獲得した象牙をアメン神に捧げたことが、ハトシェプスト女王葬祭殿のリリーフに刻まれているという。
 
トトメス2世
碑文にかすかに「象」が読める程度
 
トトメス3世
120頭の象を狩った。前回記事参照 ↓
 
 
 
トトメスの家系図
 
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トトメス三世からアメンホテプ2世の時代までの治世で宰相を務めたレクミラ(Rekhmireという人物がいる。当時様々な職人の様子を描いた彼の墓(霊安所)は旅行者にも人気のスポットなのだが、この壁画の中に彼が、プントやヌビア、あるいはシリアから持ち込んだ様々な珍しい動物が描かれている。一番上の段にはヌビア人と思われる民族がキリンを連れ、そして下段の方にはシリア人と解釈される人物が「子どもの象」と「熊(?)」を連れている。
 
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実はこの象・・・専門家の間ではかなり議論を呼んでいるものだ。
 
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「子どもの象」にしては、この子が持つ牙は大きく発達していて、すでに成人の象のようである。一方でさらに議論を難しくしているのが、この象が「毛」で覆われているようなのである。クマのような動物も並んで描かれていることから、ドワーフ・ウーリーマンモスとの意見もあった。他にはデフォルメ的に象の牙を大きく、そして身体を小さく書いているという説もあるが、しかしそれでは他の動物と比べた時に、なぜ象だけ小さくするのか説明がつかない。
 
映画「センターオブジアース2 神秘の島」に登場した小さな象は、人が軽々持ち上げられるほどなのだが、ドワーフ・エレファントも、成人で隊長は1メートル半、肩までの高さが90cmぐらいしかない。シチリア島、マルタ島、クレタ島、キプロス島といった地中海の温暖な島々で発見されている。・・・そもそもこの時代にまで生きていたのだろうか?
 
                シチリア・ドワーフ・エレファント
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考古学的には、北アメリカのベアリング海峡にあるセント・ポール島で発掘されたドワーフ・エレファントは、紀元前6000年頃のもので、更に北極海のウランゲリ島には、紀元前1700年頃のマンモスが発見されている。そう言えば何年か前に『紀元前1万年』という映画でマンモスがピラミッド建設を手伝っていたというシーンがあった・・・。
 
 
ではこの象はいったいどこから来たのか?
 
 
なぜ、シリア人が連れているのだろうか?
 
 

シリアゾウはどこから来たのか?

奇妙な話だが、ソロモンやダビデの時代にはシリア地方にはゾウがいたという。。。アジアゾウの中でも最も身体が大きく、肩までの高さは3.5メートルであった。もともとアジアゾウはアフリカゾウに比べて脳が発達し、紀元前4000年ごろのインダス文明では野生の象を調教するようなことがされていたという。戦象として調教され実際に戦争で登用されたのは、紀元前1100年ごろでサンスクリット語の詩に述べられている。
 
紀元前400年頃にはエジプトのファラオが、Ptolemais Theron(狩猟のプトレマイオス)と呼ばれる湾岸商業都市を、クシュ王国の首都があったメロエから紅海へ出口に建設し、そこで大々的な象牙の取引を行った。また、メロエ王国(紀元前280年頃)にはすでに象が戦争に使われていた痕跡がある。
 
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ところで、
 
ヨーロッパの人間が最初に出会ったのは、インドゾウだ
 
紀元前331年のガウガメラの戦いで、アレキサンドロス3世率いるマケドニア王国とギリシアの連合軍は、そこではじめてとアケメネス朝ペルシア軍の15頭の戦象と遭遇する。記録上ではこれが最古なのだが、そこからすぐ、紀元前326年にアレクサンドロス3世がインド諸侯と対峙し、ヒュダスペス河畔の戦いがおきた時、再び戦う象の悪夢がよみがえる。その後、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけてはオリエント世界のほとんどの戦いで戦象しようされることになる。
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ストラボン(紀元前63年頃〜西暦23年頃)やポリュビオス(紀元前204年〜紀元前125年)に記すところによれば、セレウコス1世やアンティオコス3世はインドから象を大量に輸入していたと伝えられている。セレウコスは属州インドを引き渡す代わりにマウルヤ朝のチャンドラグプタから象500頭を受け取り、前301年のイプソス の戦いではそのうち400頭が投入され、敵を深追いしたデメトリオスとアンティゴノスのあいだに象を割り込ませて両者を分 断してアンティゴノスを破ったという事例もある。
 
セレウコス朝とプトレマイオス朝の間で戦争が起きた時は、まさにインド象とアフリカ象が激突した。
 
セレウコス朝はインド象を集め、プトレマイオス朝はアフリカ象を集めて象部隊を編成していたが、それではどちらの象部隊の方が強力だったのであろうか。現存する象の種類から考えるとアフリカ象の方がインド象より大きいため、 プトレマイオス朝の象部隊の方が強力であるように思うかもしれない。

しかし実際両王朝が前217年に戦ったラフィアの戦いではインド象がアフリカ象をあっさりと打ち負かしている。何故かと言えば、当日飼われたアフリカ象は我々がイメージするものとは異なり、かなり小型であったためである。当時北アフリカ沿岸の森林地帯にいた象たちは マルミミ象と呼ばれる種類に属し、インド象より小型の象で編成されたプトレマイオス朝の象部隊はセレウコス朝の象部隊にあえなく敗退したのであった。
http://historia334.web.fc2.com/history/antigonos/b-1-7.html
 
                 マルミミゾウ(確かに弱そう ↓)
イメージ 11
 
 
ふむ。
 
 
それじゃ ポエニ戦争で有名になったハンニバルの象は何処から来たのか?
 
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どこで調達したのだろうか?
 
 
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検証: 聖書アラビア起源説 その18 オリエント世界の象牙

 
ソロモン時代の交易状況を知ろうと列王紀上第10章10節から12節、そして21節と22節にはとても興味深い品々が列挙されている(歴代志下第9章にも同様の記述がある)。
 
タルシシの特徴として金属資源の豊富な地域であるスペインのタルテッソス(Tartessos)やアナトリア中南部のタルスス(Tarsus)がその候補として挙げられていた。しかし、それ以外の商材を見る限りでは、とてもスペインやトルコの物とは思えないようなものが多くある。それらは・・・
 
 
びゃくだん(白檀)、宝石、象牙、さる、くじゃく
 
 
・・・上記の世界的な分布を考えた場合、
 
 
共通している地域とは  インド である。
 
 
そして・・・
 
 
それだけである。
 
 
列王紀上第10章10節〜12節
そして彼女(シバの女王)は金百二十タラントおよび多くの香料と宝石とを王に贈った。シバの女王がソロモン王に贈ったような多くの香料は再びこなかった。オフルから金を載せてきたヒラムの船は、またオフルからたくさんのびゃくだんの木と宝石とを運んできたので、王はびゃくだんの木をもって主の宮と王の宮殿のために壁柱を造り、また歌う人々のために琴と立琴とを造った。このようなびゃくだんの木は、かつてきたこともなく、また今日まで見たこともなかった。
 
列王紀上第10章21節〜22節
ソロモン王が飲むときに用いた器は皆金であった。またレバノンの森の家の器も皆純金であって、銀のものはなかった。銀はソロモンの世には顧みられなかった。これは王が海にタルシシの船隊を所有して、ヒラムの船隊と一緒に航海させ、タルシシの船隊に三年に一度、金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せてこさせたからである。
 
   

再論: タルシシはどこか?

3年に一度タルシシから様々な商品を輸入したと言うのは、おそらく航海日数に3年かかったということではないということだ。砂漠の隊商にしても、株式会社のように商人達が契約を交わしながら出資し、引き換えとなるような商品を積んで現地に向かわせる。そして、おそらくエリュトゥラー海案内記のように、途中いくつかの港に寄港し、商取引を行いながらタルシシに向かったと考えられる。そして、無事にそれらの船団が戻ってくると、タルシシを含め途中の港などで獲得してきた商品は売りさばかれ、配当金が得られるのだ。こうした一連のサイクルが3年だったのであろう。
 
この海上交易のサイクルを考えると、タルシシがアナトリア半島中南部にあるタルスス(Tarsus)とする説は微妙だ。もしツロがテュロスだとすれば、航海日数としては数日足らずですむだろう。何も古代エジプトのハトシェプストのプント遠征を彷彿させるような国家事業を行わなくても、日々往来する民間の商人取引で間に会っていたに違いない。それでは、スペインのタルテッソス(Tartessos)は有力かと言うと・・・それも何とも言えない。停泊をどこかの港で行ったとしても、3〜4週間もあれば到着すると思われる。
 
下記リンク先を参考にして下の図をつくっていみた。大プリニウス時代(西暦23年〜79年)の航海日数が紹介されている。
 
イメージ 1
 
 
上では、国家事業として行われた交易サイクルが3年であって、航海そのものに3年を費やしたわけではないと書いた。航海期間で3年と言うと、どれぐらいの距離を走ることができるのか。3年と言うとヘロドトスが記したアレの話になる。
 
フェニキア人の航海術の実力を示すエピソードの一つにアフリカ周航がある。ギリシャ人の歴史家ヘロドトスによればフェニキアの船乗り達は紀元前7Cにエジプト王ネコの命によりアフリカを時計回りに一周したという。
 
リビア(アフリカのこと)がアジアに接する点を除いては、四方を海に囲まれていることは、リビアの地形から自ら明らかなことで、我々の知る限りでは、この事を証明して見せたのは、エジプト王ネコスがその最初の人であった。彼は、ナイル河からアラビア湾に通づる運河の開墾を中止したあと、フェニキア人を搭載した船団を派遣したのであったが、帰路には「ヘラクレスの柱」を抜けて北の海に出、エジプトに帰還するよう命じておいたのである。

さて、フェニキア人たちは紅海から出発して南の海を航海していった。そして秋になれば、ちょうどその時航海していたリビアの地点に接岸して穀物の種子を蒔き、刈り入れの時まで待機したのである。そして穀物を採り入れると船を出すというふうにして二年を経、三年目に「ヘラクレスの柱」を迂回してエジプトに帰着したのであった。そして彼らはー余人は知らず私には信じがたいことであるがーリビアを就航中、いつも太陽は右手にあった、と報告したのであった。
 
そう・・・3年と言えばアフリカ一周に要する時間だ・・・って本当に一周したのか?
 
 
いやいや、そんなことは重要なことではない。
 
 
それよりも、船によってアフリカ大陸を一周できる・・・
 
 
という情報がこの時代に存在していたことだ。
 
 
 
さて、話を続けよう。
 
 
タルシシの船団を使ったソロモンの交易の商品目録は、
 
 
金、銀、「象牙」、「さる」、「くじゃく」 であり、
 
 
オフルに行ったヒラムの船団が獲得した商品は
 
 
金、びゃくたん であった。
 
 
スペインのタルテッソスに行けば金や銀はあるかもしれないが、「象牙」、「さる」、「くじゃく」は無理だ。もちろんワシントン条約など存在しない時代だから、アフリカ大陸沿岸の港で取引しながら航行していったと考えると、寄港先の商取引で「象牙」や「さる」は入手可能であったかもしれない・・・。そのあたりを少し見てみよう。
 
 

オリエント世界の象牙はどこから入手したのか?

ヒンドゥー教(ガネーシャ)や仏教(歓喜天)にはとゾウの姿をした神がいるのだが、エジプト神話には神格化されたゾウは登場しない。ヘビ、ライオン、タカ、イヌ、猫、ヒヒ、カバ、ワニ、牛、そしてフンコロガシまでもが古代エジプトの信仰において神格化されているが、不思議とゾウと同様にキリンやサイなどもエジプト神話では神格化されていない。
 
イメージ 2
 
 
なぜか?
 
 
古代エジプト人はこれらを知らなかったのか?
 
 
その一方で、エジプトの古王国時代の遺跡やツタンカーメンの墓からも象牙の遺品が発掘されている。旧約聖書のソロモンの王座は象牙(金で覆われているが)でできていたとされ、イスラエル王国分裂後の北イスラエルの暴君で、妃のイザベルによってバアル崇拝に傾斜していたアハブ王の宮殿は「象牙の家」と呼ばれていたと言う。
 
それだけではない。象牙品にはフェニキア美術を代表する遺品の多くの象牙のものが多く存在し、フェニキアの文化を語る時には、彼らの巧みな金細工製品やガラス加工品と並んで欠かせないものである。一般にも、紀元前10世紀頃にアフリカゾウの象牙を商品として大々的に取引したのはフェニキア人であるとも言われている。
 
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ただ、実際にアフリカゾウの象牙を手に入れようとしたら、サハラ砂漠の南にまで行かなければならない。紀元前30世紀頃にはナイル川上流のヌビア辺りまで行けば、ひょっとしたらアフリカゾウに会えることができたかもしれないが・・・。
 
ふむ。。。
 
 
西村 洋子氏のホームページの以下の記載があった。
 
古代エジプトの女ファラオ、ハトシェプスとの時代だ。
「ヌビア総督かつ南方諸国の長官」によるヌビア支配は中断されることなく、セニ、アメンネヘト、もう一人の無名の人の順に官職が引き継がれ、トトメス3世の単独統治の時代にネヒーに引き継がれました。彼らはヌビアでの建設事業とヌビアの産物の「貢ぎ物」としての納品も監督しました。

またプント遠征以来、象牙、ヒョウの毛皮、生きている象、黄金などのアフリカの産物がヌビアの産物とともに記録されました。墓壁画にもヌビア人とともに貢ぎ物を運ぶ黒人たちが描かれました。女王の治世にはクレタ島との接触を示すものはありません。ケフティウ(ミノア人)の派遣団が墓壁画に描かれていますが、実際にはクレタとの交易はキプロス島やシリア・パレスティナを通じて行われたかもしれません。
 
 
なるほど、
 
 
「生きている象」とある。
 
 
なぜ、わざわざ「生きている象」とあるのかというと、よっぽど珍しかったに違いない。
 
ハトシェプストのプント遠征については以下を参照ください。
 
黄金の国プント −ハトシェプストのプント遠征 その1
黄金の国プント −ハトシェプストのプント遠征 その2
黄金の国プント −ハトシェプストのプント遠征 その3
 
 
さて、
 
生きているゾウに会えた(?)ハトシェプスは、さぞかし喜んだに違いないが、後継者は違ったようだ。
 
イメージ 4
 
紀元前15世紀頃、プント遠征を行ったハトシェプスト女王の後を継いだトトメス3世(紀元前1486年〜紀元前1425年頃)は、アジア地方に軍事遠征を数多く行い、領土をエジプト史上最大のシリア地方にまで拡張した。彼が第8回のシリア遠征時の帰途で象狩りを行ったと言う逸話は有名だ。
 
また、西村 洋子氏のホームページから抜粋。
王の西アジア遠征のクライマックスは治世33年のミタンニ王国への軍事遠征(第8回)でした。このことは年代記の他にアルマントとゲベル・バルカルの石碑、カルナックのアメン神殿の第7ピュロン、オベリスク、アメンエムハブの自伝碑文などに記されています。
 
王はビブロスで建造させた船でカルケミシュでユーフラテス川を渡り、祖父トトメス1世の石碑の隣に自分の石碑を建てました。それからユーフラテス川を下り、周辺の村落を壊滅させ、敵軍を追撃しました。しかし、ミタンニ王との決戦はありませんでした。アメンエムハブの自伝碑文によると、王は帰途ニヤで120頭の象を狩りました。
 
 
これが有名なトトメス3世の象狩りの逸話だ。
 
 
おいおい。シリア地方に象がいたなんて聞いてないぞ?
 
 
・・・いや 聞いてないのは僕だけだったのかもしれない。
 
 
伝説のシリア象についてはいろいろと議論がされている。
 
イメージ 3
 
 
それでは・・・
 
 
シリアに象がいたとして、それでも美術品や工芸品の素材として象牙が使われていたにもかかわらず、「ゾウ」そのものがオリエント美術に登場しないのはどうしてだろうか?
 
 
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検証: 聖書アラビア起源説 その17 タルシシはどこか?

 
本日はソロモンの船団の話だが、その前に過去の記事を再度思い起こしてみよう。
 
→ 検証: 聖書アラビア起源説 その11 レバノン杉
 
サリービーの理論によれば、旧約聖書の「海」も誤訳であり、さらにヒラムの船団で述べられる「船」も誤訳であるという。

聖書にあるツロ(ヘブライ語のsr)とは、「海」のそばにある町ではなく、今日のナジュラーン地方のズール・アルワーディアと呼ばれる地方の主要なオアシス、ズール(zr)のことであり、そのオアシスは中央アラビ砂漠に境を接するヤーム(ym)地方の端に位置している。

「船」(ヘブライ語のwnywt)というのは、実際は荷を運ぶ動物(アラビア語でnyt=「鞍袋」の意)による隊商のことであり、その交易が行われた先々にあるアラビア各地には、その同じ名が残っている。

聖書は、srすなわち「ツロ」の王の名はヒラム(hyrm)とあるが、古代レバノンの町ツロにその名で呼ばれた王がいたという証明はなされていない。フェニキア人に、アヒラム(hrmでありhyrmではない)という名のビブロスの王がいたが、ツロとはまったく異なる場所であった。
 
 
・・・いきなり出鼻を挫かれる感じだが、ソロモンの船団は本当にあったのだろうか?
 
9章26節〜28節
ソロモン王はエドムの地、紅海の岸のエラテに近いエジオン・ゲベルで数隻の船を造った。ヒラムは海の事を知っている船員であるそのしもべをソロモンのしもべと共にその船でつかわした。彼らはオフルへ行って、そこから金四百二十タラントを取って、ソロモン王の所にもってきた。
 
その後 シバの女王がソロモン王に謁見する話があるが、本日のテーマではないので飛ばそう。
 
 
第10章11節〜12節
オフルから金を載せてきたヒラムの船は、またオフルからたくさんのびゃくだんの木宝石とを運んできたので、王はびゃくだんの木をもって主の宮と王の宮殿のために壁柱を造り、また歌う人々のために琴と立琴とを造った。このようなびゃくだんの木は、かつてきたこともなく、また今日まで見たこともなかった。

ソロモン王はその豊かなのにしたがってシバの女王に贈り物をしたほかに、彼女の望みにまかせて、すべてその求める物を贈った。そして彼女はその家来たちと共に自分の国へ帰っていった。さて一年の間にソロモンのところに、はいってきた金の目方は666タラントであった。
 
 
第10章15節
そのほかに貿易商および商人の取引、ならびにアラビアの諸王国の代官たちからも、はいってきた。

ソロモン王は延金の大盾二百を造った。その大盾にはおのおの六百シケルの金を用いた。また延金の小盾三百を造った。その小盾にはおのおの三ミナの金を用いた。王はこれらをレバノンの森の家に置いた。

王はまた大きな象牙の玉座を造り、純金をもってこれをおおった。
 
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その玉座に六つの段があり、玉座の後に子牛の頭があり、座席の両側にひじ掛けがあって、ひじ掛けのわきに二つのししが立っていた。また、六つの段のおのおのの両側に十二のししが立っていた。このような物はどこの国でも造られたことがなかった。
 
このソロモンの王座だが・・・
 
 
ひじ掛けの下に獅子がいるあたり、何となくキュベレーだとか、オリエント世界の豊穣の女神が座る椅子に似ているような気がする・・・。
 
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でも象牙でつくっておきながら、純金で覆ってしまうとはなんとも贅沢。
 
 
ソロモン王が飲むときに用いた器は皆金であった。またレバノンの森の家の器も皆純金であって、銀のものはなかった。銀はソロモンの世には顧みられなかった。

これは王が海にタルシシの船隊を所有して、ヒラムの船隊と一緒に航海させ、タルシシの船隊に三年に一度、金、銀、象牙さるくじゃくを載せてこさせたからである。
 
銀 と この商品目録の内容については次回に吟味しよう。
 
 
さて、タルシシの船隊に関してサビーリーの著作「聖書アラビア起源説」には残念ながら言及がない。しかし、ヒラムが砂漠の隊商であったという説を踏襲するならば、航海を得意としていたのはヒラムではなく、むしろタルシシの人々であり、ヒラムの人々は商人として彼らの船に乗りこんだということになる。
 
 
タルシシ(タルシシュ)は一般的には銀などの鉱山資源が豊富に存在するスペインのタルテッソス(Tartessos)か、アナトリア中南部にあるタルスス(Tarsus)と考えられてはいる。
 
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ツロとは「タルシシュの娘」と言われるほど結びつきが強かったらしいのだが、ソロモン王時代の記述の他にもタルシシについて述べられている箇所はいくつかある。
 
イザヤ書第23章
ツロについての託宣。タルシシのもろもろの船よ、泣き叫べ、ツロは荒れすたれて、家なく、船泊まりする港もないからだ。この事はクプロの地から彼らに告げ知らせられる。

海べに住む民よ、シドンの商人よ、もだせ、あなたがたの使者は海を渡り、大いなる水の上にあった。ツロの収入はシホルの穀物、ナイル川の収穫であった。ツロはもろもろの国びとの商人であった。

シドンよ、恥じよ、海は言った、海の城は言う、「わたしは苦しまず、また産まなかった。わたしは若い男子を養わず、また処女を育てなかった」。この報道がエジプトに達するとき、彼らはツロについての報道によって、いたく苦しむ。

タルシシに渡れ、海べに住む民よ、泣き叫べ。

これがその起源も古い町、自分の足で移り、遠くにまで移住した町、あなたがたの喜び誇る町なのか。ツロにむかってこれを定めたのはだれか。ツロは冠を授けた町、その商人は君たち、その貿易業者は地の尊い人々であった。万軍の主はすべての栄光の誇を汚し、地のすべての尊い者をはずかしめるためにこれを定められたのだ。

タルシシの娘よ、ナイル川のようにおのが地にあふれよ。もはや束縛するものはない。主はその手を海の上に伸べて国々を震い動かされた。主はカナンについて詔を出し、そのとりでをこわされた。主は言われた、「しえたげられた処女シドンの娘よ、あなたはもはや喜ぶことはない。立って、クプロに渡れ、そこでもあなたは安息を得ることはない」。

カルデヤびとの国を見よ、アッスリヤではなく、この民がツロを野の獣のすみかに定めた。彼らはやぐらを建て、もろもろの宮殿をこわして荒塚とした。

タルシシのもろもろの船よ、泣き叫べ、あなたがたのとりでは荒れすたれたから。その日、ツロはひとりの王のながらえる日と同じく七十年の間忘れられ、七十年終って後、ツロは遊女の歌のようになる、

「忘れられた遊女よ、琴を執って町を経めぐり、巧みに弾じ、多くの歌をうたって、人に思い出されよ」。

七十年終って後、主はツロを顧みられる。ツロは再び淫行の価を得て、地のおもてにある世のすべての国々と姦淫を行い、その商品とその価とは主にささげられる。これはたくわえられることなく、積まれることなく、その商品は主の前に住む者のために豊かな食物となり、みごとな衣服となる。
 
 
イザヤ書のタルシシについて言及されている箇所を、その前後の文章も含めて抜粋してみたわけだが・・・
 
 
改めて目につくのが、
タルシシ、ツロ、そしてエジプト との関係だ
 
 
ツロの収入はシホルの穀物、ナイル川の収穫であった。
中世のラビ、ラシ(Raschi:1040年〜1105年)は、他の箇所でシホル川から、とあるのは、ナイル川すなわち「エジプトの川」である。と解釈した。彼の生まれはテュロス(ツロ)で、タルムードやヘブライ語聖書の注釈ではそれなりの影響力があったとされている。それにしても、この文章を読むとナイル川での穀物の収穫がツロの収入源であったように思える。そして、
 
タルシシの娘よ、ナイル川のようにおのが地にあふれよ。
もし、スペイン南部の娘やアナトリア半島南部の娘に言っているのであれば、ナイル川を例えに用いるのはあまりにも「?」であるだろう。
この書で例えとして言及するのにタルシシの娘がナイル川を知っているかどうかは関係ない・・・ということもできるが、どうもすっきり来ない。
 
この報道がエジプトに達するとき、彼らはツロについての報道によって、いたく苦しむ。
彼らってだれだ?エジプトにいる誰かのようにも思えるが・・・
 
 
 
どうも地理関係がすっきりこない・・・。
 
 
ヨナ書においては、預言者ヨナはニネベで宣教をせよとの神の召命に逆らってタルシシュ行きの船に乗り込んだ。しかしながら、船は神の意志によって嵐に遭遇し、それを鎮めるためにヨナは海に放り込まれる。そこで大きな魚に飲み込まれ3日3晩魚の腹の中にいた後で、神の命令によって海岸に吐き出されるというものだ。
 
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その後、ヨナはニネベで滅びを預言すると、これを聞いたニネベの王は、人々に悔い改めるよう布告を出した。そして、神は、ニネベの人々が悪を離れたのを見て、災いを下すのをやめられた・・・というものだ。
 
ヨナ書第1章
主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。

しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。
 
ヨッパというのは、一般的には今日のテルアビブにあるヨッファ港(Jaffa)とされている。ヨナはそこからタルシシ行きの船に乗ろうとしたのだ。なるほど、アナトリア南部にせよ、スペイン南部にせよ、ヨッパがテルアビブと仮定すれば、タルシシ行きの船に乗るには適した港となる。
 
                   ヨッファの市場
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しかし、このヨッパは本当にヨッファなのだろうか?
 
 
そして、
 
 
なぜ ヨナはタルシシに逃げようとしたのだろうか?
 
 
 
エゼキエル第38章13節
シバ、デダン、タルシシの商人、およびそのもろもろの村々はあなたに言う、『あなたは物を奪うために来たのか。物をかすめるために軍隊を集めたのか。あなたは金銀を持ち去り、家畜と貨財とを取りあげ、大いに物を奪おうとするのか』と。
 
この文面だけを読んでも、何が何だか分からないだろう。ただし、注目したいのはシバもデダンもアラビア半島の地域であることだ。この文脈で、スペインやトルコの都市を並列することにどれだけの意味があるのだろうか?
 
 
 
このエゼキエル書ではエレミヤ書と同様に「北からの脅威」あるいは「北の果てからの侵略者」について述べているが、それは
 
エレミヤは紀元前7世紀末から紀元前6世紀前半のバビロン捕囚の時期に活動した人物だ。そしてエゼキエルは、預言者エレミヤより年下で、紀元前597年にイスラエルの民らと共にバビロンに捕囚された後、捕囚された者たちに悔い改めと希望をもたらすために、神に召された人物。
 
この場合・・・北からの脅威はアッシリア及び新バビロニアなのだろうが・・・、その脅威がイスラエルの民にとって北からくるというのはどういうことだろうか?
 
北からの脅威については下記ブログが示唆済み
 
 
旧約聖書で述べられている地理関係をみると、やはり混乱をきたす。
 
 
 
今回は話がそれてしまったが、
 
次回こそソロモンの交易関係についてだ・・・
 
 
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検証: 聖書アラビア起源説 その16 ソロモンの柱、メルカルトの柱、そしてヘラクレスの柱

 
前回から続く2つの柱の話をするべきなのだろうが、ここで一度このシリーズの背景を記述しておこう。
 
・・・と言うのは、カマール・サリービー著の『聖書アラビア起源説』を中心に話をしているのだが、どうも最近フェニキア関連の記述が多くなって混乱してしまいそうだからだ。
 

ユダヤ・フェニキア・コネクション

なぜ 「聖書アラビア起源説」の話をしているのに、フェニキアの話が中心となってしまうのか?
 
 
それは、このシリーズの最初にヘロドトスが言ったように次の仮定が根底にあるからだ。
 
つまり、
 
フェニキア人はもともと紅海沿岸(アラビア半島西部アシール地方)に住んでいて、現在のパレスチナ地方に移住するとたちまち航海に乗り出し、地中海を席巻した。。。
 
 
よく、ヘロドトスの「紅海」は現在の「ペルシア湾」と取り違えて書かれていると言われることが多い。
 
本当にそうだろうか?
 
 
アラビア半島のアシール地方を中心に展開される聖書の物語は、
 
 
やがて・・・地中海東岸のフェニキア人と結ぶつき、
 
 
 
西方へと展開していく。
 
 
一神教の下地はそうして出来上がっていったのではないだろうか?
 
 
それは、『聖書アラビア起源説』著者のサリービーが行った地名学的なアプローチも面白いが、場合によっては言語学的なアプローチをしても良いかもしれないし・・・・
 
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現代科学的なアプローチをするのであれば、ユダヤ人典型のY染色体ハプログループJ1の拡大を辿って見てもいいかもしれない。
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宗教学的にはユダヤ教とフェニキアの宗教にはある種の連続性が認められるとも言われておりと言われている。
 
 
フェニキア人の築いた都市カルタゴや隣国のヌミディア王国などの北アフリカ地域が
 
キリスト教初期の神学者テルトゥリアヌス(2世紀頃)、
 
ローマ帝国の一神教転換の立役者ラクタンティウス(250年〜320年)
 
古代キリスト教最高の教父アウグスティヌス(354年〜430年)らの
 
出身地であるというのは偶然だろうか?
 
もちろんハンニバルの名が『バアルは我が主』を意味するように、カルタゴではテュロスのメルカルト神と同一視されたバアル崇拝が盛んであったことが分かっている。
 
キリスト教であれほど敵視されるバアルだが、旧約聖書の中ではほとんどローカル神の代名詞としても述べられており、ヤハウェ自身が時としてバアル(“マスター”という意味において)と呼ばれることもある。旧約聖書の記述にもあるようにイスラエルの民はバアル崇拝に強く影響されており、北イスラエル王国では100年以上バアルが信仰されていた。
 
 
結局・・・ヤハウェと、どれほど違うのだろうか?
 
 
どうも、
 
 
ヤハウェ、バアル、エル、あるいはバビロニアのマルドゥクにしても、
 
 
 
それらの信仰は、
 
 
一神教萌芽期における、ひとつの姿 のように思える。
 
 
 
さて、話を2つの柱話にもどそう。
 

ヒラムの建造物

ソロモン神殿の2つの柱ヤキンとボアズだが、屋根や梁など何かを支えるなど建築構造上の機能はなく、入口を際立たせているだけであった。紀元前5世紀ギリシアの歴史家ヘロドトスはテュロスにある都市神メルカルトをまつわる神殿をヘラクレス神殿と記し、その神殿には2つの柱があり、闇の中でも見えるように、片方が金、もう片方がエメラルドで覆われていたと報告している。
 
ソロモン神殿の2つの柱をつくったのがテュロス(ツロ)出身の青銅職人ヒラムであったとすると、テュロスのメルカルト神殿にあったとされる2柱と何らかの関連があったのではと考えたくもなる。
 
 
ここで少しソロモンのところに青銅職人ヒラムを派遣したツロの王ヒラムについて記しておこう。彼については、西暦1世紀のフラウィウス・ヨセフス著『ユダヤ古代』に引用されているメナンドロがツロ(テュロス)王家の系図をヒラムの父アビバアルから数百年にわたって、断片的にではあるが今日に伝えている。
(『興亡の歴史 03』)
 
それによると、
ヒラムは34年間テュロスを統治し、53歳で亡くなった。ヒラムの30年以上に及ぶ治世は、外交面での充実のみならず、内政面でも大きな飛躍を遂げた時代であった。(中略)

テュロスはもともと島部分と本土部分との二つからなっていたが、ヒラムの時代には、島部分の強化・再構築が急速に進んだ。島部分の都市を拡張し街の外観を変え、古い神殿を壊し、メルカルト神とアフタルテ女神に奉納する新しい神殿を再建したのも彼であった。紀元前5世紀半ばにテュロスを訪れたギリシア人歴史家のヘロドトスは、黄金とエメラルドの2本の柱が燦然と輝くメルカルト神殿の威容に驚嘆している。

メルカルト神は、語義的には「都市の王」という意味を持つテュロス古来の男神であるが、前二千年紀には、まだ対して重要な神ではなかったようだ。彼の姿が前面に出てくるのは、前10世紀以降、ヒラムの時代からである。メルカルトの属性は豊穣をもたらすもの、航海の安全をつかさどるものなど多岐にわたっているが、その名前の意味から、テュロス王家の守護神としての役目も担っていたと考えられる。ヒラムは、この神の「覚醒」を祝った最初の王であったとメナンドロスは述べる。

史料によればこの儀式はペリティオスの月、つまり二月から三月にかけて行われた。そのため、メルカルト神の「覚醒」=死と蘇りの儀式は、オリエントに古くから伝わる豊穣を祝う「聖婚儀礼」と何らかの関連があると考える研究者もいる。時期的ににも冬から春へと移り変わり、植物の再生と繁茂を祝う、いわば自然サイクルと一致するものでもあったからだ。
 
 
そんな時代の出来事・・・だといいたいのだが、ここでの想定の基礎にはフラウィウス・ヨセフスの著書がソースとなっている。発見された遺跡を、旧約聖書とヨセフスの記述で包み込んで、一つの歴史的推論をたててしまうのはあまりにも危険な感じもする。
 
オリエント世界に典型的にみられる「死と再生」のこの地域の伝統として存在していたとしよう。
 
 
なぜ、ツロのヒラムとソロモンの同盟関係は興味深い。
 
ヒラムの父であるアビバアルの名の由来は「バアルは我が父」であるからだ。ツロは確実に、カナン(フェニキア)伝統のバアル信仰が浸透していたに違いない。
 
他方で、「メルカルト」は、神に対する一種の呼称であると考えられ、ビブロスで「エル(神)」と呼ばれていたバール(主)が、テュロスでは「メルカルト(都市の神)」と呼ばれたに過ぎないとも考えられる。
 
 
つまり、多神教のような『どの神?』が問題ではない。
 
 
神々の能力や支配領域はこの時代になると、一つに集約されるようになり、
 
 
もはや違いは 
 
 
全能の『神』の呼び方でしかないのではないだろうか?
 
 
 
 
このメルカルト神はヘレニズムの時代にはヘラクレスと同一視されていた。
 
一般的な歴史理解では、フェニキア人は地中海を西方へ展開し、カルタゴを築いた。カルタゴの建国者である伝説の女王エリッサは、後継者争いに巻き込まれながらテュロスを脱出する際、メルカルト神の祭具を持ちだしたという。
 
 
メルカルト神を信仰するフェニキア人の活動範囲に応じて、ヘラクレス神話の活動範囲も広がっていったのかもしれない。スペインの国章でもあるヘラクレスの柱は、ジブラルタル海峡の入口にある岬につけられた古代の地名だ。
 
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その物語はウィキペディアによれば次のようである。
ヘラクレスに課せられた12の功業の1つに、スペインのゲーリュオーンの牛をエウリュステウス王のところに連れ帰る仕事があった。ヘスペリデスの島へ向かう途中、アトラス山を一度横断しなければならなかったが、
 
ヘラクレスは山を登る代わりに、近道しようと考えた。それで、かつては巨人だった巨大な山をその怪力で砕くことにした。ヘラクレスは不滅の鎚矛または棍棒(神話によってさまざま)を使って、山を真っ二つにした。
 
その結果、大西洋と地中海がジブラルタル海峡で繋がった。以降、分かれた2つの山をひとまとめにして、ヘラクレスの柱と呼ぶようになった。
 
ギリシア地理学者のストラボン(紀元前63年頃〜23年頃)は、ガデス島東海岸の近くにあった「ティルス人のヘラクレス」と呼ばれるメルカルトの最西端の神殿を紹介している。その神殿の中には高さ8キュビット(約4m)程度の2つの青銅の柱があったとされている。
 
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カディスの町はフェニキア人が銀の宝庫とみなしていたタルシシ(現タルテッソス)や、錫の島と呼ばれたブリタニアとの中継港として紀元前8世紀頃から栄えていたとされている。
 
このカデス島のヘラクレスの柱も、明らかに天井を支える柱ではない。
 
 
ソロモンの柱はよりは小さいのだが門であり、
 
 
「建築構造上 意味を持たない2つの柱」 ということでは
 
 
メルカルト神殿の黄金とエメラルドの柱、ソロモンの神殿の青銅の柱・・・と、共通点がなくなくもない。。。
 
 
さて、青銅職人ヒラムにもどろう。
 
彼が次にとりかかったのは、
 
海 を 青銅で 鋳る ことだった。
 

青銅の海

また海を鋳て造った。縁から縁まで十キュビト(4m)であって、周囲は円形をなし、高さ五キュビトで、その周囲は綱をもって測ると三十キュビト(12m)であった。(円周率を考えると適当な長さを言っているわけではなさそうだ)

その縁の下には三十キュビトの周囲をめぐるひさごがあって、海の周囲を囲んでいた。そのひさごは二並びで、海を鋳る時に鋳たものである。その海は十二の牛の上に置かれ、その三つは北に向かい、三つは西に向かい、三つは南に向かい、三つは東に向かっていた。
 
海はその上に置かれ、牛のうしろは皆内に向かっていた。海の厚さは手の幅で、その縁は杯の縁のように、ゆりの花に似せて造られた。海には水が二千バテはいった。
 
1バテは23リットルだから、46トンの水が入っていたことになる。参考までに言うと長さ25メートル、幅16メートル、深さ1、5メートルのプールには約660トンの水が入る。かなり正確な重さかもしれない。
 
 
ただし、この牛の意味は何だろうか?
 
 
・・・というかこの創作物の宗教的意義は?
 
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これも神の指示によってつくったモーセの聖所にないもので、規格外のものだ。
 
 
その他にも彼は、10の青銅の台、10の青銅の洗盤、そしてつぼ、十能(じゅうのう:ひしゃく)、鉢なども制作したのだが、
 
ここではあまり深く入り込まないことにしよう。
 
 
何はともあれ、お疲れ様でした、ヒラム君。
 
次回はソロモンの交易関係にスポットをあててみよう。
 
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検証: 聖書アラビア起源説 その15 ヤキンとボアズ そしてザクロ

 
 
ソロモンの神殿建設事業に対し、ツロの王ヒラムが同名の青銅職人ヒラムをソロモンの下に派遣した。そこで青銅職人ヒラムが神殿に付随するアイテムとしてまず造ったのはヤキンとボアズという名の2本の青銅の柱だった。
 
モーセの聖所の入り口にはアカシア材でつくった柱が5本建てられたのだが、それとは機能においても材料においても異なるものだ。
 
出エジプト記第26章36節〜37節
あなたはまた天幕の入口のために青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、色とりどりに織ったとばりを作らなければならない。
あなたはそのとばりのためにアカシヤ材の柱五つを造り、これを金でおおい、その鉤を金で造り、またその柱のために青銅の座五つを鋳て造らなければならない。
モーセの移動式聖所
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モーセの聖所とソロモンの神殿、レイアウトは似ているのだが、その造りにおいて違いがある。これは自然なことで、モーセの聖所(天幕)は移動式で軽い材料でできていなくてはならない。そして柱そのものも「とばり」を支える役割があった。基本的に石造りのソロモンの神殿にはそれが必要ではなかったのだ。
 
・・・その代わりに、ヒラムが作成したのは・・・
 
神が指定した規格外の産物で、2本の青銅の柱だ。
 
 
青銅の柱2本(ヤキンとボアズ)
この2つの青銅の柱は、それぞれ高さ十八キュビト、周囲十二キュビト、厚さ指四本であり、高さ五キュビトの青銅の柱頭がついていた。その柱頭のために鎖に編んだ飾りひもで市松模様の網細工2つ造り、更に二並びのざくろを一つの網細工の上のまわりに造って、柱の頂にある柱頭を巻いた。(よく分からん・・・)
 
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この廊の柱の頂にある柱頭の上に四キュビトのゆりの花の細工があった。二つの柱の上端の丸い突出部の上にある網細工の柱頭の周囲には、おのおの二百のざくろが二並びになっていた。この柱を神殿の廊に立てた。すなわち南に柱を立てて、その名をヤキンと名づけ、北に柱を立てて、その名をボアズと名づけた。その柱の頂にはゆりの花の細工があった。こうしてその柱の造作ができあがった。
 
 
ざくろ と ゆり
ウィキペディアによれば科名のPunicaceae、属名のPunica は「フェニキアの」を意味する Poeni に由来するそうだ。これは古代ローマの博物学者プリニウスが『博物誌』を著した当時、ザクロは「カルタゴのマルス」としてカルタゴ周辺が原産地と考えていたためである。
 
                   イスラエルのザクロ
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思わぬところで「ざくろ」とフェニキアの関係が出てきたが、面白い。
 
ざくろ = 赤 = フェニキア
 
という関係が見事につながる。フェニキアと赤、あるいは聖書に登場する色については、以前ブログ記事に書いた。
 
検証: 聖書アラビア起源説 その9 フェニキアの赤(紫)
検証: 聖書アラビア起源説 その10 古代の染料と聖書の色
 
ちなみに、旧約聖書に記されている戒律(ミツワー)を数えると全部で613あり、これはちょうどザクロの実の数と一致するのだという。ザクロの実の数を実際に数えたことはないのだが、613の戒律すべてはウィキペディアに掲載されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/613_commandments (日本語もあるよ)
 
「ざくろ」はオリエント世界ではその実の多さから豊穣を象徴するとも言われ、エジプト神話ではセクメトが血と間違え、ギリシア神話ではペルセポネがそれを食べたために冥界から出られなくなったなどの逸話をもたらした。それに加えて、ザクロの花や未熟の果皮からは赤い染料がとれるそうで、ひょっとしたら・・・
 
 
 
フェニキアにまつわる「赤」は、貝紫ではなく・・・
 
 
ザクロの赤ではなかったのだろうか?
 
 
また、ザクロはイスラーム教の聖典コーラン(クルアーン)でも登場し、エデンの園で育っている。また、神が創造した良きモノの例として三度も述べられている。
 
 
イメージ 4
 
 
せっかく『聖書アラビア起源説』をあつかっているので、メッカ、ヒジャーズ、アッシール地方の農産物を調べてみた。以下のリンク先にはとても興味深い情報が満載されている。
 
メッカがあるターイフ地方(『聖書アラビア起源説』では、サムソンのダン族が住んでいたとされる)は、今では葡萄蜂蜜が有名であるが、昔は小麦と大麦が主食であった。トウモロコシとキビはモロコシやアルファアルファと並んで補助的な作物である。

果物はライム、あんず、柑橘類、オリーブ、イチジク、桃、ザクロ、西瓜、マルメロ、葡萄、アーモンド、オプンチアサボテンおよびデイツ等、ヒジャーズでももっとも種類が多く、品質も最高である。毎日、隊商がターイフの季節の作物を山道を下ってメッカへ運び、この交易で農民達と住人達は繁栄していた。

数千年の歴史を持つターイフは果樹園でも有名である。イスラーム以前にはターイフの最も重要な栽培果物は葡萄であり、市の周囲には巨大な葡萄畑が発達していた。イスラーム以前にはターイフの最も重要な栽培果物は葡萄であり、市の周囲には巨大な葡萄畑が発達していた。葡萄酒の生産が禁止された時に葡萄の大部分はレーズンを作るために乾かされた。

ターイフのレーズンは種が小さく、軟らかなのでヒジャーズの市場では既に大きな需要があり、レーズンはターイフとヒジャーズの他の都市との間の農産品交易の主要な項目の一つと成っていた。ヒジャーズの他の都市ではデーツのペーストや蜂蜜と同じ様にレーズンがこの地方の飲み水の味を良くする為に使われていた。

また、(サムソンの伝説を思い出すのだが)蜂蜜はターイフの誇るもう一つの産物であった。農業は実際に多くの数と広がりのある農場と花盛りの様々な植物の種類と連続に恵まれている。水で薄められた蜂蜜の飲み物はベドウインにはもっとも大切な価値があるとされていた。バター、ミルク或いはオイルと混ぜられ、蜂蜜は最も元気の出る食物であり、長寿の食物であると考えられていた。
 
 ところで、このページに『聖書アラビア起源説』と正反対の言い伝えが書いてあったので以下に抜粋した。
 
シリアの土地との関連
アラブの百科辞典編纂者ヤクート(Yaqut or Yakut, 1179 - 1229)はその著書「国々の辞書」の中の三番目の言い伝えについて触れている。それには「妻ハガルと息子のイシュマエルをメッカに伴った預言者イブラヒム(アブラハム)が全能の神に耕作してない涸れ谷(ワジ:Wadi)の住民達に果物の木々を与えて戴きたいと懇願した」と述べられている。

神はイブラヒムの祈りを受け入れ、一筆の土地をシリアからターイフ(Taif)に移された(イエメンからとの説もある)。この事を確認するかの様に信憑性に異議もあるが、「ターイフは神によってヒジャーズに移動されたシリアの土地である」との断言もされている。
   
ふむ。
 
 
そして、ユリ・・・だが、
 
妙だ・・・。下の分布図を見る限り、ユリは基本的にオリエント世界では咲かないことになっている。
 
                       ユリの分布
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名前の由来もラテン語であるとされるので、おそらく翻訳の間違いかもしれない。ただし、聖書には数多くの箇所に「ユリ」が言及されている。ダニエル書第13章に登場する女性スザンナもヘブライ語でユリを意味する„Shushan“に由来するし(この物語は後に追加挿入されたものとも言われる)、聖母マリアの象徴としてよく描かれる。
 
                      スザンナ
イメージ 9
 
                      マドンナ・リリー
イメージ 10
 
 
ザクロとユリに関して言えば、雅歌の第4章には次の様な一句がある
 
あなたのくちびるは紅の糸のようで、その口は愛らしい。あなたのほおは顔おおいのうしろにあって、ざくろの片われのようだ。 (中略)
 
あなたの両乳ぶさは、かもしかの二子である二匹の子じかが、ゆりの花の中に草を食べているようだ。

日の涼しくなるまで、影の消えるまで、わたしは没薬の山および乳香の丘へ急ぎ行こう
 
                シャガールの雅歌(まっかっか)
イメージ 11
 
 
古来よりユリとザクロはどちらも女性の生殖器のシンボルであったそうなのだが、バルバロイのサイトには次の様に書いてあった。
ソロモン神殿の柱は女性の生殖器のシンボルであるユリとザクロで飾られているのだと。下記ホームページによれば、ソロモン自身は、「ザクロの王」である男根神バール・リンモンとなって、彼の聖なる花嫁である神秘的なシュラミの女と結合し、彼女のザクロの液を飲んだ・・・とある。
 
出エジプト記で主が指定した祭司の服装エポデもザクロで飾られているのだが、祭司もそうなのだろうか?
 
そのすそには青糸、紫糸、緋糸で、ざくろを作り、そのすその周囲につけ、また周囲に金の鈴をざくろの間々につけなければならない。すなわち金の鈴にざくろ、また金の鈴にざくろと、上服のすその周囲につけなければならない。アロンは務の時、これを着なければならない。
 
アロンが祭司として生殖器のシンボルをまとうという解釈は、この場合少し無理があるような気がする。「ザクロ」は宗教的に重要な果物であったのは間違いないだろうが、サウジアラビアにしろ、シリア地方であるにしろ、比較的よく獲れた果物で人々の日常生活にあまりにも浸透していたに違いない。
 
 
ところで、上記の雅歌で「没薬の山」および「乳香の丘」へ急ぎ行こう・・・とあるのだが、教会ではここにいろんな解釈を加える。没薬と乳香が神殿に捧げられることから、祈りに高みにのぼるようなそんな解釈だ。
 
しかし、ありのままに考えると・・・
 
「没薬の山」や「乳香の丘」というのは、何度も言うように・・・現在のイエメンにしかない。(まぁ、あとはアフリカの東部かな?)
 
 
ふむ。
 
さて、2つの柱に話をもどそう・・・
 
 
・・・思ったのだが、文字数が足りなくなりそうで次回にまわそう。
 
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