ミラノ勅令とは何だったのか? Part5 ガレリウスの寛容令
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ミラノ勅令というあまりにも有名な歴史的イベントの前に、すでにその存在したことさえ語られなくなった勅令がある。
311年に公布されたガレリウスの寛容令だ。
ミラノ勅令に先立つこと2年前にガレリウス帝を中心に当時ローマの領土を支配していた4人の皇帝の連名で、所謂「ガレリウスの寛容令」というようなものをソフィアで交付している。これもキリスト教を優遇するといった内容ではなかったが、信仰の自由を認めたもので、正真正銘の勅令である。
つまり、少し拍子抜けしてしまう話ではあるのだが、キリスト教をローマ帝国内で公認したのはコンスタンティヌス帝ではなく、その前のガレリウス帝なのである。しかし、ガレリウス帝の功績として後世に伝えられなかったのは、コンスタンティヌスの伝説もあるのだが、何よりも彼がキリスト教の迫害者としても有名だからだ。
彼の略歴をウィキペディアより抜粋すると、
ガレリウスは、ダキアの首都セルディカ(現ブルガリアの首都ソフィア)の近くに生まれた。彼は、元々は父の職業と同じ牧夫となり、アルメンタリウス(ラテン語で家畜の群れ armentum)という名字を名乗っていた。 ガレリウスをもともと敵視していたラクタンティウスの記述については、多少誇張があるかもしれないが、テトラルキア時代のローマ帝国においてキャスティングボードを握っていたのがほとんどダキア(現在のブルガリア周辺)出身の軍人であった。
後のリキニウスやマクシミヌス・ダイアも元々はダキア出身の農民であったし、マクセンティウスも隣接するパンノニア(現在のセルビア北部周辺)、コンスタンティウス・クロルスはその南に位置するイリュリアの貧しい家庭の出身だ。
ふむ 見方によってはマケドニアの子孫たちがローマを牛耳っていいたのか・・・。
参考↓
キリスト教の迫害伝えられるところによれば、ディオクレティアヌス帝が統治した間、キリスト教徒はおおむね平穏に生活できたという。しかしながら、303年2月24日の布告によってキリスト教徒の迫害が始まった。それ以前のキリスト教迫害令ともいうべきものは50年近くもたっている。デキウス帝とペルシアの戦いで捕虜になったとされるウァレリアヌス帝の時代の出来事だ。しかしながら、この時のキリスト教の迫害政策はウァレリアヌス帝が亡くなり、ローマ帝国が3つに分裂するとなし崩し的に消え去った。
後世への伝えられ方なのだろうか、キリスト教徒の間ではこの大迫害の主犯はガレリウスとされている。しかし、ディオクレティアヌス帝がキリスト教迫害令の数年前に、似たような内容でマニ教迫害令をだしているので、おそらく主犯となるべきはディオクレティアヌスで間違いないだろう。
このキリスト教の迫害令の原因として、ディオクレティアヌスが293年に導入したテトラルキアが挙げられる。
ローマを四分割して安定的に統治するにあたりキリスト教のような排他的な一神教に代表されるような宗教は、とてもテトラルキアのコンセプトにおいては受け入れられるものではなかった。また、伝統的なローマ帝国における政治的な見方は政治と宗教は分離できるものではなかった。
以下はリンクより抜粋
ただ大迫害が前者の迫害に比べ、その名の通りより徹底したものになるのは、テトラルキア体制が持つ宗教的要素、皇帝達に見られる強い宗教意識のゆえである。それは「ヨウィウス・ヘルクリウス体制」と呼ばれる、政治と一体化した理念であった。 この迫害政策は、テトラルキアの4人の皇帝によってそれぞれ温度差はあったが、西地域は東地域に比べるとどちらかと言えば激しくはなかったとされている。
大迫害に臨んだディオクレティアヌスは、理念の点では厳格であったが、実施面においてはかなり穏和であった。第一勅令では特権を持つ階層と帝室に仕える者たちだけしか対象とされず、一般大衆への言及はない。キリスト教徒の大部分は、第一勅令下では単に礼拝参加を不可能にされた以外は特に信仰を試されることもなく、迫害による直接の攻撃は受けていない。 エウセビオスの伝えるところの解釈では、これまでディオクレティアヌスの治世下で303年に4つのキリスト教迫害令が出されたとあるが、最近の研究ではそれが1つであったとされている。
ガレリウスの寛容令については、目的がディオクレティアヌスより続いたキリスト教迫害勅令を単に無効にするためのものであること、そして彼がテトラルキア時代における東の皇帝の一人にすぎないと切り捨てる事もできるようだが・・・そうではない。
寛容令は4人の皇帝の連名なのである。
そして、最近の研究によれば実際にキリスト教に対する迫害を止めさせたということに関して言えば、
ガレリウスの勅令の方が、所謂ミラノ勅令よりも
直接の影響があったと考えられるようだ。
エウセビオスの教会史によれば、ガレリウスは恐ろしい病気にかかっていて、死の床で公布したという。
どのような恐ろしい病気だったかは、エウセビオスの教会史では以下のように伝えている。
(前略) 何だかまぁ これについても創作の匂いがプンプンするのだが、エウセビオスの教会史ではマクシミヌス・ダイアが行った寛容令についても少し言及している。しかしながら、それは偽善の行為であると切り捨て彼が行った悪行の数々を著書では挙げている。
しかし、考えてもみればテトラルキアの時代、正帝や副帝などほとんど皇帝が「寛容令」と関わっていたことが知られている。
その歴史的意義についてはコンスタンティヌスの功績として描かれて
いるのだが、このままでいいのだろうか?
それに、考えてもみればガレリウスの勅令に同意したのはコンスタンティヌスだけでなく、彼とミルウィウス橋で激しい戦いを演じたマクセンティウスもその一人だ。そうなってくると、ミルウィウス橋の戦いにおいてキリスト教が聖なる象徴(PとX)によって異教徒に勝利をおさめたという構図も、もう一度考え直す必要がありそうだ。
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