学説というもの
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学説というのは、それ自体、なんら法的な拘束力をもつものではない。これは、東大の総長の学説だろうと私のそれだろうと、研究を専門としない者のそれだろうと同じである。もちろん、実際の影響力だとか、自説に従わなければ大学において単位を認定しないなどの不当な拘束力はのぞいた、あくまでも法的な拘束力のことである。
この学説も、ひとたび、有権解釈機関が採用すれば、一定の拘束力を持つようになる。例えば、ある学説に基づいて、国会が法律を制定すれば国民を拘束するものになるし、行政機関が命令を発すれば、下級官庁または法律の委任がある場合には国民を拘束するし、裁判所の判決は当事者を拘束する。ただ、拘束力の源泉は、学説を提唱した学者にあるのではなく、それを有権解釈機関が採用したところにある。いかに多数の学者が支持する学説であろうと、違憲審査基準として知られる二重の基準論は裁判所は採用していないし、逆に、自衛隊の問題など、学説では少数と思われるものが国会や政府の見解となっていたりする。 言うまでもないが、この学説、教科書的には通説だの多数説だの言われるものがあるが、それはただ多数の支持という事実があるだけで、真理を表しているものではない。だいたい、通説とされるものを寄せ集めたら、憲法の理論としては破綻する。例えば、「国会は国権の『最高機関』」であることは、法的には意味のない、政治的美称に過ぎないとするのが通説である。三権分立である以上、ある機関が他の機関に優位してはならないのだという。その一方で、最高裁判所規則と法律が抵触する場合には、法律が優位するというのが通説だともいう。三権が対等であればそういう理屈にはならないはずだ。法的に国会が国権の最高機関と認める立場なら容易に説明がつくが、そうでないのだから、一部の学者は矛盾した理屈を唱えていることになる。。ちなみに、この憲法を制定した者は、三権分立が憲法に先行する原理ではなく、憲法によって権力分立の程度が決定されることを明らかにしている。 ともあれ、資格試験を目指す者でないかぎり、他人の学説を無批判に受け入れる必要はない。各自、感情によってではなく、論理にしたがって考えればよし |
