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もうひとつの原色のある風景。出色の短編小説集。
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クレマチスの丘

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クレマチスの丘

 森の中に消えて行くシータを追うと、そこには丘が見える。
 
 白くかすれた空には、飛行機が残した淡い筋雲と、ブルーの山がひとつあるだけだった。一面に緑の美丘が広がり、くすの木が一本と、いくらかの彫刻が立っているだけだった。彫刻はくたびれているような、はたまた反省しているような表情で頭を垂れ、3体並んでそこに立ちつくしている。シータは丘の上のベンチに座り、つばの広い白い帽子をかぶり、読書をしている。

 「私の理想の女性はきっと草原で読書をしている。大きな草原の真ん中より少し端っこの方で、分厚い外国文学を読んでいる。そういう開放的な孤独感をふわふわ漂わせている女性に強く惹かれるんだ、たぶん。自分自身の理想郷なのかも知れない。遠く遠く離れた場所に静かに咲く一輪の花。そういう綺麗な存在を摘みとることなく、ずっと遠くから眺めていたいな。」

 いつかのデカルトの言葉が不意に脳裏を過る。シータと思われる白い帽子の女性はそっと本を閉じると、丘の向こうへと静かに消えていく。シータではないかも知れない。彫刻は笑っているのか泣いているのか、よく分からない表情をしている。デカルトなのかも知れない。理想の女性を、少し遠くから静かに見守るデカルトなのかも知れない。

 「その草原には、ところどころにクレマチスが咲いていて。クレマチスっていう白い花があるんだけどね、対称的な6つの花弁がとても美しいんだ。私はきっとそういう女性を求めている。控えめに、しかしその魅力を静かに匂わせるビューティフル・フラワー。クレマチスの花言葉は“心の美”。」

 シータを追うように小高い丘を越えると、そこには大きな正円の池がひとつある。白い帽子の女性は、どうやらその縁に座っているようだ。キラキラと太陽の光を浮かべる水面には、いくつか睡蓮が浮いていた。その女性は池の中を覗いている、ように見える。鏡に映った自分の心を覗いている、のだろうか。「水を見る女」という題名の彫刻かも知れない。丘の向こう側で3人のデカルトが曖昧な表情を浮かべて、それを見守っている、だろう。

 

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Θ美術館鵯

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 バーでひとりでグラスを傾ける、という行為が大人への序章だと長い間ずっと、僕はそう思っていた。
 
 そのバーは線路脇の地下にあり、時折聞こえる電車が通過するガタゴトという音以外は現実から遠くかけ離れた理想に程近い場所だった。小雨に少し濡れた僕は、緊張しながらカウンターの端に腰掛け、マスターと思しき優しそうな小男にシャンディガフを注文した。カウンターには席をひとつ空けて眼鏡の女性、その隣には若いカップルが座っている。眼鏡の女性はジュート素材のブックカバーがかかった分厚い文庫本に熱心に耽り、時折顔を上げては、マスターと2,3の会話を交わしていた。
 穏やかな時間だった。小さなステージの上では、アーティストの卵が調音やらマイクテストを始める。ゆっくりと小さな音を立てて上昇する、シャンディガフの気泡にすっかり見とれながら、僕はしっかりと、大人への序章の一歩を踏み出しつつあった。

 不意に木製の扉がギィという嫌な音を立てて、男が一人入ってきた。男は僕の隣の空席に腰掛けると「シャンディガフ」と一声かけ、びしょ濡れになったトレンチコートを丁寧に座椅子の背もたれにかけた。「参ったなあ。当分ここで雨宿りだな。」と、おそらく独り言を呟いた。マスターは優しそうな顔でオーダーされた黄金の液体をグラスに注ぐ。
 シャンディガフという単語に反応し、振り向いてしまった僕は、ぱっと見180センチ近くはあるその男と完全に目が合ってしまった。男は雨に濡れた細長い口髭をゆっくりと整えながら、「デカルトって言うんだ。よろしく。」と雨粒が滴る大きな手を差し伸べてきた。
 「よろしくお願いします。」丁寧に握手を交わした時、丁度マイクアナウンスが流れ、一組目のバンドが演奏を開始した。聞いたこともない名のインディーズバンドの聞いたこともない曲目だったが、それが妙に心地良かった。緩やかに奏でる優しいリズムは、ハウスでもポップスでも民族音楽でもない新しい音の調べのように僕に響いた。それにしてもこの人は、ルネ・デカルトというよりも、どちらかというとサルバドール・ダリに似ている、と思った。
 「別にオカルトでもアボカドでも何でもいいんだけどね。いやータクシーに乗ろうと思ったんだけど、道行くタクシーが全部『割増』で。どうも苦手なんだよ、『割増』が。」
 僕は少し愉快な気持ちになった。それがデカルトのせいなのか、メロディーのせいなのか、微量のアルコールのせいなのかはよく解らない。
 「今度はアオイトリイを建てようと思って。東北かどこかの神社に。」
 何の話かと思ったが、アオイトリイの話だと理解することにした。あるようでない文脈から推測するに、文末に「神社」とあるので、おそらくそれは神社に建つ「鳥居」のことだろう。「青い、鳥居」だろうか。さらに一応、誰に話しかけているのかも確認してみたが、その見開いたダリ似の左右の大きな目は、紛れもなく僕ひとりをしっかりと捉えていた。
 「僕はトリイが大の大の大好きでね。あの神社の鳥居のことだよ。あれは僕みたいな何の特権も持たない一般市民が勝手に寄進することができちゃうって話、君知ってた? 僕は今まで全国に 13の鳥居を建てた。いろいろ。ジェラルミン製、塩化ビニール製、鉄パイプ、鉄筋コンクリート。特に宗教とかには全然興味がないんだけど、とにかくあのフォルムが好きなんだよ。君分かる? 鳥居のあの美しいフォルム・・・」
 2組目は女性デュオで、マイナスイオンが肌に気持ち良い神秘の森を彷彿とさせた。ようやく目線を解いてくれたデカルトは、あっという間にグラスの中身を空にしていた。目尻に深い皺が刻まれたデカルトの目は、なんだか幸せそうな目をしている。おそらくシャンディガフか、彼の言う鳥居の美しいフォルムか、バーを満たす透き通った美しい音色のいずれかに酔っているのだろう。この人は見知らぬ人に素っ頓狂な話を吹っかけることを趣味か、もしくは生業にしているのだろうか? すっかり虜になってしまった僕は、今一度ゆっくりと頭の中で鳥居のイメージを膨らませてみた。赤く聳え立つ鳥居。そう言えば、鳥居というのは縦横の柱が直角ではない何か微妙な角度を保ってクロスしているのが気になる。
 「それで今度は青い鳥居。青い鳥居でチタン製。近未来っぽいでしょ? 世紀の現代建築家100選に選ばれたりして。」
 デカルトは本当に幸せそうな目をしていた。

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デカルトのさようなら

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 「さようならって何だ?何かの対象と別れるっていう概念自体が全くの疑問だ。いいか、何かに対しての“出会い”と“別れ”というのは本当に存在するのか?本当にゴールというドットが必要か?私は常に対象というものは流れているだけだと思う。つかんでは消え、つかんでは消えていくのが対象だ。主体の周りにそういうラインが複数流れている。さようならって何だ。別離に愛情はいらない。」
 デカルトは興奮していた。僕はこんなに恐ろしい顔のデカルトを見たことがない。
 「速く、速く、美しくあれ。食べたら排泄せよ。出会えば別れるのが必然。別れを惜しんではいけない。対象を飽和させよ。使い古した石鹸を新しい石鹸にくっつける老婆は消えてしまえ。消費は美徳だ。さもないと神様の手で今度はあなたが新生児にくっつけられる。さようならはいらない。さようならは幻。対象は全て風。通過する、流れるラインでしかない。言葉は私達人間のエゴだ。偽善だ。さようならは偽善者の涙だ。嗚呼、だから、だから君も、私にはどうかさようならを言わないでくれ。」
 でも僕はこの魅力的な哲学者にまた会いたいと願う。
 「さようならは意識の中で肥大化する。こんにちはよりも大きくなる。こんにちはは過去の中に確認するけど、さようならは今起きる。もしくはこれから。失うことはプラスとは逆。失うことは執着すること。手放すことは手に入れたいという願望の破滅。愛。欲望のスパーク。さようなら、さようなら・・・」
 デカルトが以前言っていた言葉に繋がった。「だから私は意識のスイッチをオフにすることにしたんだ」と。それでも僕はさようならは悲しいと思った。感情は意識なんかじゃ超えられない。絶対に超えられないし、その事は勿論、デカルトも知っている。

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fact

 6畳くらいの縦に細長い部屋に閉じ込められている。外からは鍵がかけられている。
 ソファーとか、ダンボールとか冷蔵庫とかカラーテレビとか、そういう類のガラクタ同然のアイテムが緑の絨毯の上に敷き詰められていて、その結果として絨毯の緑は見えない。冷蔵庫はウィーーーーーーーーンという暗い音を立てているのでおそらく電気が流れている。中身は人気のないレトルト食品だと予想するが、予想は状況に見合った予想でしかなく、何より冷蔵庫は閉まっているので中身は確認出来ない。
 私は、私はというと、黒いビニール製のソファーの上に足を折りたたんで左右の壁に挟まれる形で座っている。左手の壁には電気のスイッチが無数にある。無数に。しかしこの部屋には電球はひとつしかない。どれかひとつが電球に直結する本物のスイッチなのかもしれないし、はたまたどれも全部が本物のスイッチなのかもしれない。冷蔵庫の横には私が座っている黒いソファーの続きと思われる部分が、交接するように複数乱雑に配置されている。
 カラーテレビは冷蔵庫の上に乗っている。画面には鼻の高い欧米人の顔が大きく映し出されていて、時折銃声が聞こえてくるのでどうやら戦争の映像なのではないかと私は推測する。映像の内容は断定出来ないが、カラーテレビにも電気が流れているという事実は断定出来る。つまりこの部屋にはコンセントが少なくとも2つはあるという事実もだ。
 大切な事を言い忘れていたけれどこの部屋は現在真っ暗である。なので私は先程から左手の壁にある無数のスイッチをひとつひとつ押しているところだ。しかし一向に明るくなる様子もないので、ここで「どれも全部が本物のスイッチなのかもしれない」という私の推論は間違っていたことになる。スイッチをパチパチ押していると突然、画面からもの凄い轟音が漏れてきて、私はどうして部屋が真っ暗なのにソファーの色や、冷蔵庫の存在、その他にもダンボールの山、絨毯の色が緑だという事実を認めることが出来たのだろうという宇宙一衝撃的な事実に直面するが、絨毯にはガラクタが敷き詰められていて元元色が確認出来ないのだし、きっと緑なんじゃないか、緑に決まってるじゃないか、という強力な思い込みだけが唯一事実を形成することが出来るのだという、これまた宇宙一衝撃的な真理が脳天を衝き、結果やっぱりこの部屋には電気が点いていてソファーとか、ダンボールとか冷蔵庫とかカラーテレビとか、そういうガラクタ同然のアイテムが緑の絨毯の上に散在していると、今度こそ本当の事実を認める。そんなことを考えていたら私はなんとなくダルくなってきたので左手の壁のスイッチを押すのを止める。
 「どのイメージも不安定で、信じる事だけで事実になる」という内容の文句を昔、誰か有名な人の自伝で見た覚えがある。

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光-pick up your own way-

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 いつかどこかで見たようなブルーの歩道橋を上っていくと、橋のちょうど真ん中くらいの位置にグレーのオーバーコートを着たデカルトが立っていた。デカルトは煙草をゆっくりとくゆらせながら、話し始める。
 「私はいつだったか、一日に20時間睡眠をとる男の話を聞いたことがあるよ。ナマケモノみたいだね。男は何があっても一日きっかり20時間の睡眠をとったんだ。雨の日も風の日も。東京を大地震が襲ったあの日も、母親の葬式があった日も。男にとっては眠ることが唯一の楽しみだったんだ。そして男には眠る必要があった。一日に20時間眠る必要があった。男にとって睡眠時間は何よりも大切な時間だったし、何よりも愛しく、何よりも幸福な時間だった。男には幼い頃からの親友がひとりいたが、男の行動はついにその親友の理解の域をも越えてしまったそうだ。男にとっては親友よりも睡眠の方が大事だった。男にとっては睡眠が他の何よりも宝物だったんだね。そんな人生がいったい幸せなのか?そう思うだろ?もちろん僕もそう思ったよ。一日に20時間眠るだけの人生なんて、いったいどこが面白いんだってね。でもそれは違う。それは僕たち一般人の一般的な見解に過ぎないんだ。彼は、彼にとっては一日20時間も睡眠をとれる人生というのは、それはもう最高だったんだ。確かにそうだよね。一日の大半を好きなことだけに費やせるんだから。それはもう、バラ色の人生だろう。そして彼は言った。『君たちは、一日に20時間睡眠をとる人生をひどく怠慢なスタイルだと罵るが、それなら君たちには出来るのか?一日20時間睡眠をとり続けることが、君たちには出来るのか?』僕は少し考えた。確かに1日に20時間も睡眠をとる生活なんてとてもじゃないけど僕には出来ない。並大抵のことではないよ。男は続けた。『僕は確かに好きで一日20時間睡眠をとっている。一日20時間睡眠をとり続けている。それは認める。しかしだからといって、だからといって継続することが果たして可能なのだろうか。好きだからという理由だけで継続することが可能か。僕は苦しい。とても苦しい。早く眠りから覚めたい、早く無意識から覚醒したい。でも一日20時間睡眠をとることを止めない。苦しくても、止めたくても、僕は一日20時間睡眠をとることを止めない。なぜか。それは続ければ続けるほど、その分幸せが大きくなるからだ。』分かるかい?彼の言っている意味が。好きなこと、それがたとえ嫌いになってしまったとしても、続けていればいつか幸せが大きくなって返って来る、というこの意味が。男はまたこうも言った。『他人は一日の内に通勤電車に乗って、仕事をして、家族団欒のひとときを過ごして、と実に色色な時間の使い方をするけれど、僕はその間ずっと目をつむっている。みんなが何かをやっている間に僕は<みんながやっていない他の何か>をやっている。当然、そこには僕にしか見えない世界がある。深く鮮明な夢の世界。重く痛い筋肉の衰弱。空白で底の無い空腹感。僕はそういう誰も知らない世界をただひとり知っている。そういう誰も知らない世界の中で生きている。人は僕を非難し軽蔑する。何も知らないくせに。』そういうことなんだ。男にしか出来ないこと。それは男にしか見えない世界がある、ということなんだ。男はさらにそこに、誰も知らない世界を見たことに幸福を見つける。誰も見たことのない世界を独り占めに出来る幸福。これは最高だろう。どうだ君、君にはいったいこの意味が分かるかな?」
 「全ての時間は均等であり、全ての行動は無価値であり得ない、ということですね。」
 「その通りだ。」
 
 空は晴れているのか曇っているのか正直よく分からないし、もしかしたら雨が少し降っているのかもしれない。デカルトは美味そうに煙草を吸う。目が少し笑っているようである。
 「また何でも聞きに来るといい。」
 僕は特に返事をせずに、歩道橋の反対側を下りていった。


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