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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ

オリジナルはこちら
→http://blogs.yahoo.co.jp/ancienoutil/34638081.html





ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

10〜11ページ目のつづきです。


(茶色の文字が解読結果です。)

ポール・ショック
トゥルマレとオービスクを、フランス選手の中で一番に通過した男


この厳しい山岳ステージで、
サプライズと言える選手は何人かいたが、
若いポール・ショックもその中の一人として触れてもよいだろう。

彼は、ペルスールドで健闘し、
その後もずっといい位置につけ、
特にアスパン峠では、
モレリ、ティアーニとフェルファッケのすぐ後ろに食い下がるなど、
フランス選手の中で最高のパフォーマンスを見せていた。


パンクに見舞われたために、オービスクでは7位、
時間にしてイタリア勢に9分遅れだったが、
それでもずっとフランス勢の中では先頭だった。

ポールショックは、この日、まちがいなく輝いていた。


彼は私たちの取材にこう応えている。


ーとてもうれしいよ。
自分の力を証明することができたんだからね。

憶えてるよね?
エクス(※)ーグルノーブルのステージでも、
ガリビエ峠の頂上を、8位で通過したんだぜ。

(※) エクス=レ=バンからグルノーブル
   第7ステージ 229km

僕はこのとおり、ひょろっとしてるし、顔だって細面だ。
スタミナもパワーもなさそうなのに、ツールになんか耐えられわけがないと
みんなに思われているんだよ。

所詮グランプリ・ウォルバー(※1)の王者だろ?
なんて陰口を言われて、
1933年シーズンは、全く相手にされなかったんだ。

(※1)Grand Prix Wolber
 1922に始まった非公式の世界選手権大会。略してGP Wolber。
 1927年に世界プロ選手権が始まると権威を失い、
 1934年に終わりを告げたそうです。

 1933年に”GP Wolberの王者”というと、
 注目に値しないやつという意味だったのでしょう。
 しかし、そんな風に言うとGP Wolberが可哀そうな気が。


1934年に、今年こそはと汚名返上を誓ったんだけれど、
やっぱりツール出場は叶わなかった。


でも今年、ミロワール・デ・スポールが推薦してくれたおかげで、
ツーリスト・ルーティエクラスで出場できるようになったんだ。

知らされたのがぎりぎりだったんで、準備が間に合わなかったよ。

だからスタート時は万全じゃなかったけれど、
山岳は得意なので、コース詳細や最適ギヤ数が分らなくても、
任せてくれって感じだった。

そしてその結果、僕はこうしてポーにいるだろ。


できればこのままの調子を最後まで続けて、
僕がツールを完走できないなんて
二度と言われないようにしたいんだ。


来年は、ツーリスト・ルーティエよりもっと上のクラスで出場したいな。
今から名乗りを上げておくよ。
絶対に期待に応えるから。

R.H.


やはりプロのロードレース選手なら、
ツールドフランスは、何が何でも出場したい大会なんでしょうね。
当時参加する一人ひとりに、それぞれの思いがあった事が分ります。
そして今も同じなのでしょう。

ポール・ショックは、
残念ながら翌1936年のツールには出場できませんでしたが、
ボルドー−パリでは優勝しました。

翌々年1937年のツールでは、
晴れてフランスナショナルチームのメンバーとして出場し、
第16ステージと18ステージを制して、総合7位の好成績を上げています。


イメージ 1

















イメージ 2


























(写真の説明文)
トゥルマレの頂上の交差点を越え、
バレージュへ下ろうとするポール・ショック。
彼は、アルミボトルの水を温存するいい手を見つけた。


ギャラリーのワインをもらって飲んでる?
余計にのどが渇くと思いますが...
自転車についているボトルケージは、サンプレ?



−つづく−

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この記事に

Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ

オリジナルはこちら
→http://blogs.yahoo.co.jp/ancienoutil/34614115.html


ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

10〜11ページ目のつづきです。


(茶色の文字が解読結果です。)

より身近になった山


長大なピレネーステージ、
四峠とも呼ばれるその名の由来の峠は、
最近まで人の目に触れることすら無かった。

白状すると、
我々は、それらの峠も、麓の集落で作られていたらしい案山子(※1)の事も、
話には聞いても、実際にはほとんど知らなかった。

イメージ 1
















(※1)谷間の集落の一つであるカンパンの集落では、
古くから、古着などを用いてmounaque(ムナク?)と呼ばれる人形を作って、
街道沿いに並べる風習があるそうです。
最近ではピレネーの高地のみならず、周辺の集落にまで広がって、
名物になっているそうです。(https://fr.wikipedia.org/wiki/Mounaque)



なぜなら、ピレネーに目を向けても、
はるかな岩峰の先端にしがみついている綿花のような小さな点々を除けば
白いものは雲さえない青空に目を奪われるから。

ペルスールドとアスパンの森の斜面と、
トゥルマレの最上部の緑の草地が陽の光に映え、
オービスクの乾いたごつごつとした岩肌が
思いがけなくきらきらと明るく反射するさまに心躍るから。


と、苦し紛れの言い訳ついでに付け加えると、
シルク・デ・リトール(※2)もそんな良く知らないものの中の一つだった。

スロールとオービスクの両峠の間にあり、
山の頂上まで続く巨大な岩壁の中腹に
心もとない幅の道が長く続く。

垂直壁につけられたひっかき傷のような景観と聞くと、
とても険しく厳しそうだが、
行ってみると、それほど怖い場所でもなかった。

イメージ 2





















(※2) cirque de Litor シルク・デ・リトール
今は、cirque du Litor シルク・デュ・リトールと呼ぶようですが、
氷河に削られた巨大なカール地形の縁に沿って迂回するルートです。

地図でいうとこのあたり↓
イメージ 3

















厳しさという点では、
前ステージのペルピニャン−リュション、
分厚い霧、雨、泥の中、325kmにわたる距離を、12時間もかけて、
悪路を走った二日前のステージの方が上だった。


そんな四峠を訪れるファンは、ここ数年で激増した。

特にトゥルマレには、
この地域の旅行業者がこぞってツールドフランス見物ツアーを売り出し、
多くの人が来るようになった。

観光地らしくなるにつれ、
ひと気のない山奥につきまとう不気味さも薄れてきた。


もちろん、峠間の坂道の過酷さは相変わらずだ。

ペルスールドを越えるために1,545mを、
アスパンでは1,489mを、
トゥルマレでは2,114mを、
ピレネー最後のオービスクには1,748mを、
選手たちは、それぞれこぎ登らなければならない。


それでも、道そのものは年々良くなっている。
トゥルマレとオービスクでは、たった4,5年の間に拡張、整備が進み、
岩屑やへこみは見かけなくなっている。


今や、選手の唯一最大の障害物、最大の敵は群衆だ。
彼らは、山の斜面をジグザグに進むコースに沿って連なり、
数メートルの高さもの埃を立てるものだから、
雲の塊のように遠くからでもわかる程だ。


しかし、それも心配に及ばない
まもなくトゥルマレは全線舗装される。



人知れぬ山奥が、ツールドフランスのおかげでどんどん身近になり、
楽しみの範囲が増えたという論調のようです。
今なら、何たる自然破壊!と非難されそうですけど。

今回は難しかったのでした。
内容もですが、どの方向へ読むのかに迷ってしまって。
正しいつながりは、①→②→③→④→⑤なのですが、
①→④と読み進んで、わけがわからなくなってしまいました。
イメージ 4


















イメージ 5

















今回の原文部分です。


この記事に

Le Miroir des sports
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ

オリジナルはこちら
→http://blogs.yahoo.co.jp/ancienoutil/34563879.html


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10〜11ページ目です。
イメージ 1





















文字の多いページです。
当時の読者が期待しているフランス勢の頑張りについて、
レース展開とは別に、紙面を割いてレポートしているようです。


(茶色の文字が解読結果です。)

ブラボー、スペシェ
このレース、ピレネーの峠の連続を孤独によく頑張った。

[特別配信]ポー、火曜日、スペシェを見つけた地点


スペシェは、
ペルピニャン−リュションのステージ(※1)では、
やる気があるのかと首をひねるようなのらくらとした走りをして、
我々をひやひやさせ、時には不快にさえさせたが、
リュションとポーの間(※2)では、
あたかもそれは我々を欺くためだったとでも言うように、
見違えるようなパフォーマンス見せている。

(※1)1回前のステージ
(※2)今ステージ


この24時間で、
聞き分けのないデカいガキから、頼りがいのあるガイに、
中身が完全に入れ替わったかのようだった。

が、そもそも彼は、レースを捨ててもいなかったし、落胆もしていなかった。
見た目には判らなかったが、実はじっとチャンスをうかがっていたらしい。


おそらく、闘志を前面に出すというより、
スペシェは、内に秘めるタイプなのだろう。



このアスリートは、はじめは生意気で、我儘で、衝動的にも見えたが、
実のところ、自分に期待された役割を必死に果たそうとする
まじめな青年だ。


ペルピニャン−リュションのステージでの冴えない走りが批判を浴びたことに、
彼自身責任を感じていたし、
でもそれは調子が悪かったからであって、
もっとできることを示したかったのだ。


スペシェは、友人のアントナン・マーニュ(※3)
そう、最も尊敬、称賛され、
同世代のロード選手から特別な眼差しを集める彼の存在に
勇気づけられた。


イメージ 2
(※3)
 Antonin Magne
 前年のツールの優勝者です。

 Tonin le Sage(賢人トナン)、
 Tonin la méthode(戦術家のトナン)
 などと呼ばれていたそうです。
















そのトナンは、
言い過ぎでもなく、かといって舌足らずでもなく、
とても説得力のある言い方で、
フランスのチャンピオン(※4)に効果的なアドバイスした。

(※4)スペシェも、ツール直前のフランスロードレース選手権で優勝。
   マイヨ・トリコロールを手にしています。


「ツールドフランスというレースはだな、
それは、決してあきらめず、決して投げ出さず、
最後の1秒まで挑戦し続け、勇敢に戦いつづける試練なんだ。
その結果勝てなかったとしても、しっかり胸を張っていいんだ。」


ジョルジュ・スペシェは勇気をもらって、
人が変わったように、ピレネーの四峠で健闘した。
相変わらず本来からは程遠い状態であるにも関わらずだ。


このレースの大半を単独で走り、自らの意志で他の支援を断ち、
スペシェは、他のどの山岳ステージよりも素晴らしいレースをした。


オービスク峠を下った先の真っ直ぐで猛烈なスピードが出るポーへの道は、
単独はつらい。
誰か一人くらい風をよけて引っ張ってくれるチームメイトがほしかった。


それでも、ツールドフランスで最も厳しいこのステージで、
ロマン・マースとの差を縮めてみせた。


彼にとって、マイヨジョーヌはまだ手の届くところにある。


イメージ 3






















(写真の説明文)
砂埃の中を走るシャルル・ペリシェと、その後ろを走るスペシェ。
サント=マリー・デ・カンパン(※5)のさきで。

(※5) 現在のカンパン、アスパン峠とトゥルマレ峠の谷間の集落と思われます。

イメージ 4






































イメージ 5





















スペシェ、アルジェレスで大きく離されてしまっても、
彼に向けられる沿道の拍手は小さくはない。

観客がジェスチャーで、何分遅れかを教えてくれる。

(※)5分遅れですかね?


この記事に

イメージ 4
Le Miroir des sports
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ

オリジナルはこちら
→http://blogs.yahoo.co.jp/ancienoutil/31041912.html


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5ページ目下の解説記事部分のつづき
アスパン峠から先の状況です。





















イメージ 1
















(茶色の文字が解読結果です。)

しかしイタリア勢に対するマークにこだわるあまり、
ベルギー勢自身も消耗し、
アスパン峠を過ぎてから徐々に失速し始めた。

さらに、トゥルマレ峠への途中、
ロマン・マースはパンク、
フェルファッケもクリップから足が外れてしまい、
名高い峠の頂では、シルフェーレ・マースが首位通過も、
モレリに3秒、ティアーニに5秒、フェルファッケに14秒の差となり
もはやベルギー勢が優位とは言えなくなった。

後続は、ショックが2分5秒遅れ、
ロマン・マースとロウィエが2分34秒遅れ、
アンベルグ3分48秒、
ベノワ・フォーレ5分48秒、
アールツ5分54秒、
ファヨル8分41秒、
コガン9分23秒
ヴィエト、スペシェ、ジアネロ、アーシャンボー、
カルドナとハートマン9分40秒、
シャルル・ペリシェ10分26秒の、
それぞれ遅れだった。

イメージ 5



















イメージ 6





















(この写真の説明文)
白く埃っぽいトゥルマレへの道、
ティアーニ(白い帽子)とモレリは、
峠の上でまた合流することになるシルフェーレ・マースに対し
カーブの手前でわずかに前へ出た。


イメージ 7















































(この写真の説明文)
男たちの最後の山場ピレネーでの苦闘

トゥルマレへの道で、
ティアーニ(白い帽子)とモレリ、
ツールに緊張感を呼び戻した2人が抜け出て通過した。

(※)見えるのはシルエットだけです。


イメージ 8








































(この写真の説明文)
ダンシングでトゥリマレの天辺へ向かう
ロマンマースのための精鋭で救世主のロウィエ
彼のつらく苦しい仕事中の一枚


イメージ 9


















イメージ 10










































(この写真の説明文)
トゥルマレ、第16ステージのピレネーの4つの峠の3番目の頂上で。
4人が、計ったように6メートル間隔で通過していった。
順に、シルフェーレ・マース、モレリ、テアーニ、そしてフェルファッケ。



その8」の写真もトゥルマレの状況






























イメージ 2




















(本文のつづき)
トゥルマレからの下りはやはり埃っぽく、
ベルギー勢は陣形を崩され、
レース前には風前の灯だったイタリア人が加護を得たように速度を増したのは、
登りの時と同じだった。

アルジェレスへ下り始めてすぐのバレージュ集落で、
イタリア人モレリとティアーニは、
後続に差をつけることフェルファッケに30秒、
パンクに見舞われたシルフェーレ・マースに3分、
ロマン・マースとロウィエに3分15秒、
ショックなどに3分50秒だった。

(※)急激に差が広がってます。




イメージ 3












そのころから、
イタリア勢が解き放たれたようにどんどん前へ出ていくのと対照的に、
ベルギー勢は焦りで落ち着きをなくしはじめた。

3番目の峠、オービスク峠でのタイム差を見ると、
一人抜け出したモレリが、
これまで従えてきたティアーニに2分10秒、
まるで歩兵隊と化してしまったベルギー勢、
ロマン・マース、フェルファッケ、シルフェーレ・マース、ロウィエに9分、
パンクに見舞われたショックに9分、
スペシェに11分26秒、
アーシャンボーに14分35秒、
ベノワ・フォーレに16分50秒、
カルドナに17分5秒、
ヴィエトに17分50秒、それぞれ差をつけた。



イメージ 11



















イメージ 12

















(この写真の説明文)
あとひとつ!
二人のイタリア選手は、
スロール峠を登り切れば、
トルトとオービスクの両峠はもらったも同然と考えた。

イメージ 14








































(この写真の説明文)
アルジェレスを発って、スロール峠へのつづら折れを登るスペシェも
苦しそうに見える。


イメージ 13


























(この写真の説明文)
オービスク、最も厳しい登りの峠へ
ロマンは、窮屈さを避けるように前へ出て、
シルフェール、フェルファッケ、ロウィエが続いた。


(本文のつづき)
そして、ここからは、オー=ボンヌからの下り、
ツール・ド・フランス最後の山岳ステージのさらにそのフィナーレ、
ポーへまっすぐ向かう道を、ペダルをどんどん回すだけの痛快なスプリントだ。

イメージ 4


































過酷な前進は終わりをつげ、
勝ち残った者だけが味わうことができる至福の一瞬だ。

この時まだ、ロマン・マースは後方で、
マイヨジョーヌを失う危機と苦闘していた。

(※)「その9」での写真↓がこの状況のものですね。

























もし、オービスクの下で、
チームキャプテンを引っ張る役割を忠実に果たそうとするタフな
フェルファッケと合流できていなければ、
間違いなくポーで、
今大会の最初からずっと守り通してきたマイヨジョーヌを
モレリに奪われてしまっていただろう。

R. H.
(※)レイモン・ユティエ


−つづく−


この記事に

イメージ 4
Le Miroir des sports
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ

オリジナルはこちら
→http://blogs.yahoo.co.jp/ancienoutil/31041912.html


ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

5ページ目下の解説記事部分のつづき


(茶色の文字が解読結果です。)


 いろんな地名が出てきてややこしいので、
 この辺で、コースや峠の整理を。
 そういえば、昔似たようなマップを作った事を思い出しました。
 IL TAPPONE その2 この時は、逆コースでした。 

イメージ 1






















ペルスールド峠からの下りでは、
選手たちが巻き上げるひどい砂埃の中を我々は追いかけた。

この間何もレポートしようがない状況だったが、
それを抜けるとすぐアスパン峠の登りが始まった。

アスパン峠もまた緑に覆われ、ひんやりとした空気に包まれているが、
ペルスールドよりもっと厳しく、困難だった。


イメージ 3


















(この写真の説明文)

アスパン峠(1,489m)へ。
その登りは、谷間に見えるアローの集落を出てすぐに始まった。

傾斜はきつく、それはこのショットからもよくわかる。

黒っぽいジャージのベルギー勢が引っ張るも、
スイス選手アンベルグ、ハートマン(白っぽいジャージ)と
フランス人ジアネロもまだ食い下がっている。

(※)右奥の山々は、おそらく
 南東方向のスペインとの国境稜線。

イメージ 4




















アロー集落からアスパン峠への登りの拡大地図↓
上の写真は、最初の谷に入って、大きく折り返した途中あたり
のショットでしょう。

イメージ 2




























イメージ 5



























(この写真の説明文)

アスパン峠へ
シルフェーレが手を伸ばして、ライバルの様子を伺う。
リュオズィ(右)、モレリとベルギー勢がその後に続く。
皆、この砂利道を全速力で進んでいる。

(※)前の写真から少し登ったあたりのショットかと。



(本文の続き)

ベルギー勢は、二人のイタリア選手を車列に割り込ませず、
自分たちの偉大なリーダのペースを乱されないように腐心した。

その甲斐あってしばらくはうまく事が運び、
アスパン峠の頂上を、例のトリオ、
ロマン・マース、フェルファッケ、シルフェーレ・マースが首位で、
ロウィエ、アンベルグ、ジアネロとほぼ同時にだが通過できた。

タイム差は、ハートマンに1分15秒、
ポール・ショック(※1)、見事な巻き返しでこの日の殊勲選手と言える
フランス人に2分10秒、
2人のイタリア人、モレリとティアーニに2分20秒だった。

その後、3分遅れでジャン・アールツ、
3分30秒遅れで、たびたびパンクに見舞われたリュオズィ、
4分遅れでコガン、
6分5秒遅れでティエールバッハ(※2)、
 ファヨル(※3)、プリオール(※4)、ステトラー(※5)、
7分30秒遅れでスペシェ、シャルル・ペリシェ(※6)、
 バーナードニ(※7)、アーシャンボー(※8)、
 ベノア・ファウル(※9)、カルドナ(※10)、
12分30秒遅れでハンドルが壊れてしまった"悲劇"のヴィエトが続いた。



イメージ 6

(※1)Paul Chocque
  ポール・ショック
  フランス人選手
  ツーリストルーティエクラス参加





笑顔がいい選手

シクロクロスもやっていた人
のようです。



イメージ 7

(※2)Oskar Thierbach
 オスカル・ティエールバッハ

 ドイツナショナルチーム













イメージ 8

(※3)Fernand Fayolle
 フェルナン・ファヨル
 
 右側の人
 フランス人
 ツーリストルーティエクラス参加


 ちなみに左は、
 フェルナン・コルネ1m90cm





イメージ 9

(※4)Antonio Prior
 アントニオ・プリオール

 スペインナショナルチーム








ここの真ん中あたり。

別名アントワーヌ・プリウール
諸般の事情で改名したそうです。



イメージ 10


(※5)Kurt Stettler
 クルト・ステトラー

 スイス人、個人参加













イメージ 11

(※6)Charles Pélissier
  シャルル・ペリシェ

 ペリシェ3兄弟の3番目
 
 1930年のツールで8ステージ勝利
 1回で8勝は、いまだにレコード。
 しかもその年2位が7ステージも!
 とwikipediaにあります。

 この年も第2ステージ勝利
 個人参加





 ペリシェという自転車やパーツのブランドもあります。
イメージ 16






















 ペリシェのウイングナットは、それはそれは軽いんです。
イメージ 17


















イメージ 12

(※7)Oreste Bernardoni
 オレスト・バーナードニ

 フランス人
 ツーリストルーティエクラス参加













イメージ 13

(※8)Maurice Archambaud
  モーリス・アーシャンボー

 フランスナショナルチーム
 背が1m54cmと小柄
 1937年に1時間での最長記録を樹立、
 5年後にファウスト・コッピに破られる
 まで保持者だった。
 との事です。

 この写真では小さい人には
 見えませんね




イメージ 14

(※9)Benoît Faure
 ベノア・ファウル

 フランス人
 ツーリストルーティエクラス参加
 兄弟のウージェーヌも自転車選手










イメージ 15

(※10)Salvador Cardona
サルバドール・カルドナ

スペインナショナルチーム

1935、1936の
ツール・ド・エスパーニャ優勝






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