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感動や涙、勇気の物語は、国立競技場でのサッカーを介した熱狂であっても、「2ちゃんねる」の「場」におけるものでも、また『おしん』や『大地の子』から受容させるものであっても、いまどきニッポンの消費社会の空虚さと無自覚なエゴイズムをどこかで示していないだろうか。
「感動の物語」と同様に、ここ数年で気になっているのは、本章冒頭に掲げたイラク人質事件ときの人質やその家族への、マスメディアを筆頭としたヒステリックなまでのバッシングであり、北朝鮮拉致事件が起こったときの在日朝鮮人への謂われのない攻撃である。
ことあるごと、叩けるものがあれば、「いい気になるな!」「誰のおかげで・・・」、そして「被害者の気持ちを考えろ!」。あたかも自らが「被害者」であるかのような攻撃を繰り返す卑屈さが目立ってきている。
そうした自らの痛みのともなわない「被害者」意識の拡大は、一挙に猛烈な勢いで悪意の塊となって吹き荒れる。誰も、まだ痛い目にあっていないはずなのに、また被害者でもないのに、人びとは過剰に反応し、「被害者」意識に立てこもる。
ここには、あきらかに「感動」や「涙」を渇望する気分と表裏一体化した「不満」「憤怒」「憎悪」が存在する。
もはや「感動」や「涙」は、その共有するはずの情感や意思、あるいは意識をもちえなくなってきている。共有意識が崩れたなら、それに代わるものは悪意となる。
(八柏龍紀著『「感動」禁止!「涙」を消費する人びと』KKベストセラーズ<ベスト新書>、2006年、p247)
僕にとって全くどうでもよいサッカーW杯ドイツ大会のニュースが、テレビや新聞でも増えてきた。
夜の早い時間帯にお気に入りの東海ラジオをつけても、いつもプロ野球。
これだけでも、度量の小さな僕にとっては怒り心頭なのに、更に精神衛生上、好ましくない日々が続くのか。
あまりに世間がやかましくなりそうなので、今回はあまり人にススメル気はないんだけど、この本を取りあげる。
少し前に、僕はスポーツに興味が涌かないということを書いた。
その時すぐではなかったけど、少し考えて思い当たる節のあったのが上で紹介する本だ。
この本を読んで、思い出したことがある。
昔、「天才たけしの元気が出るテレビ!!」という日テレ系の番組の中で、東大受験者を応援しようという企画があった。
結果的に浪人していた受験生が東大を受験し、不合格になる。
そのVTRがおわった直後、スタジオのビートたけしが、「よく考えると、他人の努力を端から見ていて、その結果を見届けて一緒に喜ぼうなんて、おいらたちはムシがよすぎたのかもしれないね」という内容の発言をした。
まったくその通りで、たけしもいいことを言うことがあるのだ。
僕は、スポーツに感情移入することを潔しとしなくなったのかもしれない。
これがスポーツ観戦に興味が湧かない原因の全てではないだろう。
だけど、大きな柱であることには間違いなさそうだ。
今は亡きナンシー関が、「メダルを取って来い」も「感動させてくれ」も、どちらもエゴと切り捨てた――この主張を、八柏は「慧眼」であると評価する。
そう、たけしの言葉を借用すれば「ムシがよい」ということなのだ。
いまや「感動」や「涙」さえも、消費社会の一翼を担う存在になってしまった。
映画「男たちの大和」がヒットした背景も、こうした文脈で位置づけると分かりやすいかもしれない。
それにしても、「世界の中心で愛を叫ぶ」がぜんぜん世界を舞台にしていなかった訳は、むしろ今の若き男女は自分と相手の関係こそが世の中に全て(=世界)ということなのだろうか。
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この著者の言う「世間」や「世界」って一体どこのことをさしているの…? その昔代ゼミで受講していたけれども、あなたが叫んでいることは単に偏った歴史観でしかなかったことに大学入ったらすぐ気づいた。私は日本と日本人が単純に好きだ。逆差別に脅える人達もいるんだってこと。特に差別問題などは一方的な見解を鵜呑みにするべきではない。
2011/6/24(金) 午後 2:57 [ boocowakkyboorin ]