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今日はまじめで、上手く表現できずにちょっぴり長いお話になるかも‥
東三河を舞台とした戦時中の子どもたちのお話。
『子どもというものはこうだったということ、
大人によって幸せにも不幸にもなるという実態を
知ってもらいたくて書いた。』 作者あとがきより
昨日、改めてこの本に書かれていることがそのまま事実なんだ‥と思いました。
1945年(昭和20年)8月6日 広島に原爆が落ちた日
毎年TVや新聞で報道されるし、これは誰もが知っていると思います。
広島被爆の翌日 8月7日 豊川工廠が空襲を受けた日
私の住む地域のすぐ傍、愛知県豊川市。
そこには日本最大の軍需工場があり、空襲を受け全滅しました。
1939年(昭和14年) 海軍最大の機銃弾製造工場である豊川海軍工廠設立
工廠というのは軍直轄の軍需工場のことだそうです。
百万坪の敷地に5万人の工員が働き、
1944年(昭和19年)3月『決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要綱』の閣議決定により、
4月から中等学校3年以上の男女全生徒が動員され、さらに10月からは低学年も動員の対象とされました。
1945年(昭和20年)8月7日 午前10時13分から約20分間
B29 124機、P51戦闘機 45機の戦爆連合軍により、250キロ爆弾3,253発、813トン投下
2,544名の死者のうち、452名が学徒だったそうです。
昨日、祖母と叔母(正しくは祖母の義理の妹ですが)に当時の話を聞きました。
昼食後の一休み、「明日は7日かぁ‥ あの日もこんな風に暑かったなぁ。」と祖母。
私も母も先月本を読んだばかりだったので、顔を見合わせました。
思わず「えっ!おばあちゃんおばさんも、あの日あの工場内にいたの?」と聞いちゃいました。
2人の口から話を聞くのは初めてでした。
毎日のようにアメリカの戦闘機が飛び交っていたので、空襲警報は意味をなさなさなかったそうです。
その日も警報は鳴っていたそうですが、名古屋に向かうのかなぁという感じ。
「即退避!」の号令を聞いたのは、爆弾が雨のようにザアザア音を立て始めたのと同時だったそうです。
祖母は事務所に用があり、そこで待たされていた時の出来事だったそうです。
頭陀袋も何も持たず、ただ防空頭巾をかぶり、近くの北口から松林の方へひたすら走って逃げたそうです。
叔母は工場内におり、爆撃の中を逃げ生き延びたそうです。
叔母の学校はとても厳しい学校で、普通女学生は事務仕事や軽労働に就くのですが、
お国のために労働するということで授業を中止し動員させているのだからもっと重要な労働に関わらせろと
学校側が工場に要求し、叔母を含む数人の女学生は、油まみれになって火薬を扱う仕事(?)をしていました。
工場側では酷すぎる学校だと言って、息抜きさせてくれることもあったそうです。
さて、空爆時のこと。
「即退避!」の号令に出入り口に向かったけど、爆弾が雨のように降る光景を目の当たりにし、
身体が硬直し立ち止まってしまい、「何やってるんだ!ばか者!」と怒鳴られてようやく動けました。
数メートル出たところで決められた持ち出し物を持っていないことに気づき、
生真面目にも一人とりに戻り工場に入った瞬間、外で爆弾が破裂。
逃げるために一旦正門を目指し走るも、(本人は「私ってよっぽどおかしかったのかね」と言いますが)
何故かここでも生真面目に決められた防空壕に入らなければと、また中へと引き返しました。
しかし、決められた壕は潰れ、どうしたらよいか分からずまたも立ち尽くしてしまいました。
「バカ野郎!死にたいのか!」と怒鳴り声とともに、大人の男性に腕を引っ張られ走り出しました。
そして他の壕に逃げ込むと同時に爆弾が真後ろで破裂。
背中に熱いものと衝撃を受け、自分で飛び込んだのか爆風で飛ばされたのか分からなかったそうです。
次の瞬間、真っ暗になり、壕の入り口は塞がってしまっていました。
奥には幼い低学年の子が2人泣きじゃくっていました。
壕の中にいた2人の男性が必死に砂をかき、ようやく拳1つ分の穴が開き、光を見て助かったとホッと一息。
「彼らが居なければ、泣きじゃくる低学年の子と3人、私たちは生き埋めになっていただろうね‥」
穴から見えた光景は、真っ黒の鉄の骨と立ち上る黒い煙。
襲撃が収まった後は、生き残った者で後片付けが始まったそうです。
バラバラになった手足が散乱し、何処もかしこも遺体だらけ。
「とにかく臭かった‥」
水でもかぶったかのようにびしょ濡れなのは、人間の身体から水分が出てくるから。
黄色くなった脂肪分のついた肉片が飛び散ったり‥
千両(地名:チギリ)に掘られた大きな穴に埋める為に運ばれる、リヤカーに山積みされた遺体‥
こんな顔がゆがむような事実を聞きました。
学生時代授業で聞き、色々な本も読み、史実としては知っていました。
その中を生き抜いてきた人が身近にいるということを、今まで以上に実感する話でした。
私が「おじいちゃんはよく戦争の話するけど、おばさん達の話は初めて聞いたよね。」と言うと、
「おじいちゃんは本当の意味での怖さを体験していないからよ」って言っていました。
やはり直撃を受けた人は何年経っても生々しく思い出して辛くなるので話したがらないようです。
叔母は終戦後も何年も精神的後遺症に悩まされたそうです。
走る人を見ると反射的に走り出してしまう、
地震や大きな物音がすると夜中でも飛び起きて家の外に走って逃げ出してしまう、
終戦直後はねずみの足音でさえも耳にすると走って逃げ出し、家の中では眠れなかったそうです。
他にもいろいろな話を聞きました。
話し終えて暫くした時の「何年ぶりかで口に出したけど、今でも昨日のことに目に浮かぶよ」という言葉が
心に重く響きました。
61年前の今日8月7日は豊川海軍工廠が爆撃を受けた日。
たまたま昨日は祖母と叔母からそんな話を聞いたので、今日はどうしてもこれを記事にしたかった。
残る戦争体験者も70〜80代。
こうして子や孫へと語り継がれなければすぐに風化してしまいますね。
やっぱり体験者に目の前で話してもらうのは、TV特集を見たり本を読む事よりも重みがあります。
小学生の頃、8月1日から15日までNHKで戦争体験者が語る番組が毎朝流れていたのを思い出しました。
今はそういう番組もかなり少なくなっているように思います。
そうそう、現在公開中の映画 『早咲きの花』 は愛知県先行ロードショーでした。 全国公開は新春です。
この映画は豊川工廠の空襲も取り上げられた反戦映画(?)です。
祖母達に「見たい?」と聞いたら、「また悩まされそう」 「辛すぎるから‥」と言ってました。
愛知県新城市の小学校では、6年生全員を映画館に連れて行ったそうです。
こうやって少しでも多くのことが多くの人に語り継がれていくといいなぁと願います☆
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