「人間の建設」岡潔・小林秀雄 対談集
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「それでよいのだと思います。仕方がないということではなく、それでいいのだと思います。」 『人間の建設』 図書館本の忘備録。 『人間の建設』 小林秀雄(こばやし・ひでお)と岡潔(おか・きよし)の対話集。 小林秀雄は評論家。岡潔は数学者。 有り体にいえば雑談である。しかし並みの雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である。
↑文庫うらの謳い文句も奮っています^^ 表紙の岡潔の写真がいいのです。(ぶっちゃけ表紙の写真を見てうっかり手に取りました^^;) 「古武士?古武士なの!?」 刀剣じみた風貌です。 言動もとてもはっきりしていますね。ことばは短いです。そして迷いがありません。 むっちゃ格好いい。なんていうのかなあ。ポーズをとらないというか。悩んでるふりをしない潔さっていうか。 自分の生き方を、こう、決めちゃっているんですよね。決断してる。ゆるがない。 うーむ、こういう人はもう平成の世には出ないのかなあ。出たら出たで危険人物なのかも…。 うーむ、ちょっとさびしい^^;うーむ、うーむ。 とても素直な人で、「トルストイってイマイチ好きになれなかったけど、小林さんの話をきいたら偉い人のようだから見なおした…」的な、自分の知らないことを知った時の態度の素直さが、ほとんどあどけないくらいで。 とても正直でまっすぐな反応に胸がきゅんきゅんしました。 あー、こういう人って好きだわー。 と、久々に気持ちの良い御仁に出会って大満足なのでした。ツボです。 (あ、もちろん小林秀雄の「岡さん、トルストイを誤解しないで!すごいの、ピュアなの、まっ正直なの!」という熱烈アタックにもくらくらきましたが^^) 以下、個人的な抜き書き、忘備録。まとまっていなくてすみません…。 岡 トルストイは人としてたいへん偉いですか。 小林 偉いです。 小林 トルストイの目は、何とも言えない、健康で、明瞭で、廻り道や裏道が一つもないものです。 美しいと思いますね。あの目で思想問題もやったのです。 正直な明瞭な目でキリスト教というものを見て、一直線に進んだのです。 ああいう文章はドストエフスキーには書けません。ドストエフスキーにはああいう目がないのです。 横から見たり縦から見たり。ドストエフスキーという人は、病身で複雑な都会人でして…。 小林 (ドストエフスキーは)「無明」の極がトルストイよりもよほど濃いのです。 トルストイは「懺悔録」なんてものを書いていますが、ドストエフスキーには懺悔録なんか ないのです。 トルストイには痛烈な後悔というものがあるのですが、ドストエフスキーに言わせれば、 自分の苦痛は、とても後悔なんかで片付く簡単な代物ではないと言うかも知れません。 そこまでの「無明」があの人を取り囲んでいました。 そういうところがトルストイとドストエフスキーの違いです。 だからふたりの戦闘というものは違うのです。 トルストイは死ぬか生きるかのはっきりした戦闘をして、最後にやられるのです。 ドストエフスキーはもっと複雑で、うろうろ、ふらふら、行ったり来たりしている。 それが彼の宗教体系なのです。 岡 善人で努力家。トルストイを悪く言うのはやめましょう。 ・・・・・・・ 小林 「白痴」も、よく読むとあれは一種の悪人です。 岡 ムイシュキン公爵は悪人ですか。 小林 悪人というと言葉が悪いが、全く無力な善人です。 (ここのあたりのやり取りがすごく良くて…。岡氏が、とても心外だ、思ってもみなかった、というふうに「ムイシュキン公爵は悪人ですか?」と問いかける部分は、たまらない…。) 注:ムイシュキン公爵:ドストエフスキーの『白痴』の主人公。 知恵おくれだが、純真で人の心を武装解除してしまうような美しい魂をもった青年。 彼の存在がきっかけで、ゴキブリのように生き汚い商人・ロゴージンと薄幸の美女・ナスターシャ の魂は翻弄され、時に昇華され、最後には破滅へと疾走してゆく。 ( 個人的にも「白痴」は大好きな話なのです。本当に生きる為にはどんな汚いことでもするロゴージンが、ムイシュキンに向ける隠しようのない友情とか、ナスターシャがムイシュキンに向ける畏敬にも似た憎しみとか…。この三人の三角関係を軸にした恋愛小説(?)です。ロゴージンとナスターシャは、ムイシュキンの事を本当に掛け値なく愛しているんだけれど、同じくらいに彼を踏みにじって壊してしまいたいとも思っていて。嵐のように進んでゆく物語にハラハラしながらページをめくった記憶があります。 ムイシュキンだけが、最初から最後まで変わらずに穢れなくて、最後には穢れのないままに発狂してしまうのです。で、読んでいる方としては、なんだかほっとしちゃうんですよね。ああ、壊れてくれた、よかった、って。どんな感情かうまくは説明できないのですが、なにしろほっとしちゃいます。 ムイシュキンを見ていると「存在悪」ってあるんだなー、とつくづく思わされます。 って、かなり長くなりました。すみません^^;) ・・・・・・・ 小林 ピカソにはスペインの、ぼくらにはわからない、何というか、狂暴な、血なまぐさいような 血筋がありますね。ぼくはピカソについて書きましたときに、そこを書けなくて略したのです。 在るなと思っても、見えてこないものは書けません。あのヴァイタリティとか血の騒々しさ を感じていても、本当に理解はできないのです。それがわからないのは、要するにピカソの絵 がわからないことだなと思った。ぼくら日本人は、何でもわかるような気でいますが、実は わからないということを、この頃つよく感じるのですよ。自分にわかるものは、実に少いもの ではないかと思っています。 岡 小林さんにおわかりになるのは、日本的なものだと思います。 小林 この頃そう感じてきました。 岡 それでよいのだと思います。仕方がないということではなく、それでいいのだと思います。 外国のものはあるところから先はどうしてもわからないものがあります。 ・・・・・・・ 小林 (ピカソは)「無明」をかく達人である、その達人というものはどうお考えですか。 岡 それほど私はピカソを高く評価しておりません。ああいう人がいてくれたら、「無明」のあること がよくわかって、倫理的効果があるから有意義だとしか思っておりません。 ピカソ自身は、「無明」を美だと思い違いしてかいているのだろうと思います。 人間の欠点が目につくということで、長所がわかるというものではありませんね。 とうてい君子とはいえない。小人にはいるでしょう。 岡 (ピカソは)男女関係を沢山かいております。それも男女関係の醜い面だけしかかいていません。 あれが「無明」というものです。人には「無明」という、醜悪にして恐るべき一面がある。 人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする 本能を「無明」という。ところで、人には個性というものがある。芸術はとくにそれをやかましく言っている。 漱石も芥川も言っております。そういう固有の色というものがある。 その個性は自己中心的に考えられたものだと思っている。本当はもっと深いところから来るものである
ということを知らない。
つまり自己中心的に考えた自己というもの、西洋ではそれを「自我」といっております。仏教では「小我」といいますが、小我からくるものは醜悪さだけなんです。 こういうゆるぎなさって、作家さんには逆立ちしても持てないんじゃないかなあ、と思います。数学者ならではというか…。 そういう意味でも、とても面白い対談でした。 **** すごく古い本かと思ったら、文庫版は平成22年3月初刷でした。対話自体は1965年(昭和40年)ですが…。 これ、売れるのかなー?新潮社。でもありがとう、新潮社。 ☆☆☆ 『人間の建設』(岡潔/小林秀雄)新潮文庫 (税抜・362円)
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