龍馬暗殺の謎
|
坂本龍馬暗殺については、いまだに刺客が誰であったかがあきらかでない。 明治になってから、当時、京都見廻組だった渡辺篤が、自分が刺客だった、と述懐したらしいが、話のつじつまが合わず、今ひとつ決め手となっていない。 慶応3年11月15日、龍馬は河原町の近江屋の二階に中岡慎太郎とともに居た。 十津川郷士と名乗る男数名が二階に駆け上がり、龍馬と中岡を切り伏せた。 龍馬は北辰一刀流免許皆伝の腕前、刺客側もかなりの緊張があったに違いない。 しかし龍馬はその時丸腰で、刀を取る間もなく斬られてしまった。 龍馬はその場で落命したが、中岡はその後意識を戻した。 数日後、中岡は傷の悪化で亡くなるのだが、その間に言い残した事が刺客の手がかりとなった。 刺客は「こなくそ」と言って襲い掛かってきたらしい。 「こなくそ」というのは伊予言葉で、新撰組の原田佐之助が伊予出身であることから、新撰組の仕業であるという疑惑が高まった。 しかし新撰組局長の近藤勇は土佐の後藤象二郎と懇意で、大政奉還についても後藤から聞かせられ納得していたらしいから、新撰組の仕業である可能性は低かった。 しかし当時は新撰組の仕業とされ、板橋で近藤勇が捕縛されたとき斬首に処せられたのは、板橋での官軍幹部に土佐系の者が多かった事による。 最近になって、龍馬暗殺の糸を引いていたのが薩摩藩という説もある。 龍馬が主張するところの無血革命、つまり戦争はいっさい起こさずに新しい日本を作るという案に対し、あくまで武力による革命をもくろむ西郷どん、大久保どんが龍馬を邪魔に思ったから、という理由からだろう。 しかし武力討伐を行うなら、兵力寡少な薩長は、猫の手も借りたいくらいだった。 そういう状況で、商社であるとともに軍隊である海援隊の総帥の龍馬と、龍馬とは逆にあくまで武力による倒幕を考えていた中岡を殺すとは、どうも考えにくい。 ただ龍馬、中岡らは脱藩していたにせよ、彼らの母藩の土佐を、薩摩藩首脳は快く思っていなかったようだ。 土佐藩の場合は、藩主の山内容堂の態度が最後まで公武合体の態度で、同盟関係の薩摩藩は振り回され続けていた。 それで薩摩を不快にさせていた事などもあって、そういう説が出たのだろう。 龍馬の潜伏先だった近江屋、そのすぐ向かいに中岡慎太郎の寓居がある。 |





