素人(アマ)のひとりごと

銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血がにじんだように赤く、その香りは汗の匂いがする。

旅の玄人(素人)

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小諸城跡(懐古園)散策

GWに小諸へ行ってきた。
小諸そばならわざわざGWに行かずとも、いつものことだろう、
と思われるかもしれないが、小諸そばではなくて、ほんものの小諸。
ほんものの小諸って言い方もまたヘンだが、要するに長野県小諸市に行ったのである。
 
 
 
山下達郎さんのライヴで長野市に行ったことは先日お話したとおりだが、
上信越道で長野へ向かう途中、群馬県との県境を越えて、20kmほどのところに小諸市はある。
そもそも小諸は小室と書いて、狭隘な平地の事をさすらしく、
雨で見えなかったが北に浅間山、南には八ヶ岳に挟まれた山間の地で、
冬は雪が多くない割には寒さが厳しく、夏は比較的涼しいところだ。
小諸インターチェンジを降りるとものすごい雨がたたきつけるように降ってきたが、
市内を車で走るうちに、雨はやんだ。
 
イメージ 1

とりあえず、懐古園に向かってみる。
懐古園とは小諸城跡の公園で、島崎藤村の詩でも有名。
城郭は石垣がいい感じで残されており、
地方の市が持つ城跡公園としては素晴らしいと感じる。
 
イメージ 2

室町時代のある時期まで小室氏が居たらしいが、
明治維新を迎えるまでにこれだけ支配者が変わった土地も珍しく、
歴代城主の一人ひとり、名前をあげるのも煩わしい。
それだけめまぐるしく変わった支配者の中でも、武田信玄が特に嫌われた。
信玄は信濃の山間部に点在する各勢力を併呑するのにその生涯が費やされ、
信玄一代の功績としては、得た領地が現在の長野、山梨、静岡の一部で、意外に少ない。

だからと言って信玄の能力を過小評価するのは信玄にとって酷な話で、
信濃と言う土地はそれほど攻略が困難な土地だったということだと思う。
しかし信玄は、小諸も含めた佐久平を制するのに、かなり強引なこともしたようだ。
平成の今でも信玄を嫌う風潮は続いてるようで、懐古園の中には信玄の「し」の字もない。
現在の小諸城の城郭は、信玄の家臣である山本勘助が作ったと言われるが、
かろうじて武田氏の名残として、山本勘助が使ったと言われる鏡石がある。
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 6
 
つい先日まで桜が咲いていたらしく、城内には桜の花びらが散り、
雨にぬれた提灯が、祭りの後、という感じだ。
城郭の雰囲気と言い、遠くに千曲川を望める展望台といい、
観光名所としては実にいいところだという気がするが、
司馬遼太郎さんもこの懐古園を訪れ、いや訪れようとしたのだが、
「街道をゆく・信州佐久平のみち」で、面白いことが書いてある。
小諸城の城内は、懐古園という公園になっている。その前の広場に古い機関車が置かれていて、まわりに大衆食堂が軒をならべ、どういうわけかパチンコ屋並みの大音響で音楽が拡声放送されていて、足がひるんでしまった。
ともかくも大衆食堂の一軒に入ると、こういう店における時代の象徴ともいうべき仏頂面の女の子がテーブルを拭いていて、声をかけてもふりむきもしなかった。
私が訪れた時には音楽などは一切流れておらず、
静かな城跡公園と言う感じがしたのだが、この司馬さんのメッセージが影響したのか。
しかし、司馬さんはよほど腹立たしかったのか、
このくだりのあと、お店に対する批評が3ページくらい続く。
このお話が発表されたのが1979年だから、当時の飲食店事情と、
こんにちのそれとが大きく変わったことを痛感する。

こんにちでも店員の愛想が多少悪い店が無いわけではないが、
対応が悪そういう噂はあっという間に広がるようになっているから、、
それを恐れてどこのお店でも、マクドナルドやデニーズのような愛想を振りまくようになっている。
私の場合は対応が悪いと思ったお店に対しては、
記事は書いても名前だけは伏せておくことにしているが、
いずれにしてもお店としては、いろいろやりづらい時代と言える。
逆にいえば司馬さんの頃のお店というものは、名所で人さえ集まれば接客などどうでもよく、
おおらかな時代だった、とも言えるのだが。
 
イメージ 5
 
懐古園の前にあるお店は限られているから、
そのお店ってこれしかないだろう、ってところがあるのだが、
なにぶん30年以上前の話で、その間たたんだ店もきっと一つや二つで無く、
そのお店が司馬さんが入ったお店かどうかは分からない。
司馬さんはそのお店で食べた蕎麦だけは美味しかったものの、
懐古園には入る気になれず、そばを食べたあと、帰ってしまわれたそうな。
私はと言えば、小諸そばなら毎日のように東京で食べてるので、
国道18号線に出て、昼ご飯を食べるところを探すことにした。
 

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勝海舟と東京スカイツリー

勝海舟、といえば、べらんめえ調で話す破天荒な幕臣、
というイメージだが、実際にもそういう人だったらしい。
勝は、現在の行政区画で言うと墨田区の生まれで、
地元の有名人ってことなのだろう、墨田区役所に勝の銅像がある。
 
イメージ 1
 
勝家は徳川家の中でも小身の旗本だったが、
勝海舟の父、小吉は勝家に養子に来た人だった。
小吉の祖父は越後の人で、武士の身分ではない。
盲目の人だったらしいが、この時代、
盲人は高利貸しを生業とすることが許されていた。
小吉の祖父は高利貸しで財を築き、その金で武士の身分を買うことを考えた。
金で武士の身分が買えるのか、と、疑いたくなるような話だが、
多額の金とともに養子を迎え、金を受け取った養父母は隠居して身を引く。
そういう例がけっこう多くあったらしい。
勝の祖父にあたる平蔵が「男谷(おだに)」氏として、武士になる。
 
一方、勝の父、小吉は三男だったため、勝家に養子に出された。
少年時代の小吉は本所界隈の悪童どもと喧嘩を繰り返し、
悪童どもに一目置かれていた、などと自慢していたらしいが、
武士の子が悪童を喧嘩をするなど、下町の風景そのまんまという感じで、
息子の海舟が幕臣ながらべらんめえ調だった背景も、なんとなく見えてくる。
 
イメージ 3
 
現在の墨田区。シンボル的な存在がこのアサヒビール本社ビルだが、
スカイツリーも加わって、かなり賑やかな風景になった。
 
さて、勝家の小吉、貧乏旗本であることには変わりがない。
正月の餅を買う金もなかったと言うくらいだが、ある年の暮れ、
親戚の家から餅をやるから取りに来い、と言ってきた。
息子の麟太郎、のちの海舟がその使いに行くのだが、
麟太郎少年、風呂敷に入れ背負った餅を、両国橋で落としてしまう。
当時の両国橋は日が暮れると、真っ暗だった。
麟太郎少年は暗闇の中を手さぐりで餅を拾ったが、
2つ3つか拾ったあとに、そういう状況がいまいましくなり、
ひろった餅を全部、隅田川に投げ捨ててしまったという。
あまりにいまいましかったものだから」というのは、
海舟の談話集である「氷川夜話」によるものだが、
なにやら落語のようなお話で、いかにも下町の江戸っ子らしい。
 
イメージ 2
 
東京スカイツリーと勝海舟、といきたいところだが、
区役所の建物がこの位置なので、いいバランスで撮ることが出来ない。
この勝の銅像は、勝の生誕180年を記念し、平成15年に建立されたたしい。
その当時はスカイツリーの話もちゃんとまとまっていなかったのかもしれないが、
出来れば東京スカイツリーと仲良く写真撮影出来るところに建ててほしかったが。
 
 

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隅田公園と東京スカイツリー

東京スカイツリーのふもとにいても首が疲れるだけなので、
とにもかくにも浅草を目指して歩くことに。
途中、隅田公園を通過する。
隅田公園と言えば、漫画「巨人の星」で、少年時代の星飛雄馬と、
早稲田実業時代で巨人軍入団前の王貞治が、草野球で対決した舞台。
剛力彩芽ちゃんもびっくりですな(^_^;)
現実の話として、王さんは中学時代にこの隅田公園で荒川コーチと出会い、
それまで右打ちだったのを左打ちに直され、打撃開眼したという。
 
 
イメージ 1

公園内ではのんびりくつろぐ人が。
東京スカイツリーの出現で、経済的にはうるおうものの、
人の多さに辟易し、ここでくつろぐ人も多いのではなかろうか。
公園内に、水戸藩邸跡がある。この公園の敷地は、水戸藩邸の下屋敷だったらしい。
 
イメージ 2

下屋敷というのは、江戸城に近い藩邸が上屋敷、遠いと下屋敷となり、
身分上では下級の武士が、寝泊まりするところでもある。
水戸藩は、初代藩主が徳川家康の十一男、頼房(よりふさ)で、
紀州藩の初代藩主、頼宣(よりのぶ)は家康の十男、
尾張藩の初代藩主、義直(よしなお)は家康の九男である。
この三藩を「御三家」と呼んだ。

家康の遺言により、将軍家に後嗣が絶えた時は、
尾張家か紀州家から養子を出す、というのが決まりとなっていた。
水戸徳川家からはなぜ養子を出すことにならなかったのかは謎であるが、
水戸藩主は将軍補佐が役目とされ、参勤交代をしなくてもよかったいう特例もあり、
この辺は現代では理解できないバランス感覚が存在していたのだろう。
 
最後の将軍、徳川慶喜は水戸徳川家の出身だが、彼は一橋家に養子に出されている。
一橋家は、徳川御三家とはまたちがった「御三卿」で、一橋家、田安家、清水家がそうであるが、
尾張徳川家にも紀州徳川家までもが後嗣を出せない場合、この御三卿から出すことになっていた。
慶喜の実父、徳川斉昭はかなりアクの強い人だったようで、慶喜を一橋家に養子に出したのも、
慶喜に将軍継承のチャンスがあることを見越してのことだったに違いない。
 
イメージ 3

江戸時代には、本所一帯は墨田川から水をひいて、庭の池などに使っていたらしい。
水戸藩邸も、その水を利用した広大な庭があったようだ。
現在ではわずかにその面影がある庭園があり、その庭園から東京スカイツリーが見える。
 
イメージ 4

この藩邸は慶喜も気に入り、彼はたびたび遊びに来たと言われるが、
その慶喜が大嫌いだった、勝海舟の銅像が、この隅田公園近くにある。

そのお話は、またこの次に。
 

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東京スカイツリー

私の場合お休みはカレンダー通りだが、ゴールデンウイークが始まった。
まずは3連休、とりあえずどこかへ出かけようと言うことで、
やはり手っ取り早いのは東京スカイツリー。
 
 
イメージ 1
 
東武鉄道伊勢崎線の業平橋駅が東京スカイツリーの最寄駅、
最寄駅というよりも駅の上にスカイツリーが立っていると言う感じだが、
この業平橋駅が、今年の3月17日から、東京スカイツリー駅に改名された
業平橋とは隅田川にかかる吾妻橋の別称で、業平橋駅がその別称を伝え続けてきたが、
この駅名変更で、業平橋の名称は地上から消えることになる。
こういう名称変更って好きじゃないなあ。
スカイツリーが出来たからと言って、歴史から業平橋の名前まで消してしまう必要は無いし、
そういう理屈なら、日比谷線の神谷町駅も、東京タワー駅にすりゃいいだろう。
この信号も、やがては東京スカイツリー駅になるんだろうか。
 
イメージ 2
 
しかし、見上げると、実に高い。
スカイツリーを見たいなら最寄駅に行くのが当たり前だと思ったが、
オープン前の今、登ることが出来ないのであれば、首が疲れるだけと、
現地に着いてみて、初めて分かった(;・∀・)ハッ?
 
イメージ 4
 
しかしオープン前とはいえ、けっこうな人出。
こうしてテレビ局のスタッフも通りゆく人たちをカメラに収めていた。
 
イメージ 3

夕方のニュースを見てると、ゴールデンウイークが始まった、ということで、
この東京スカイツリー界隈の映像が映った。もしかして私も映ってる??
と、思ったが、そういう映像は見当たらなかった。
よくよく考えたらこっちがカメラの後ろから写してるんだから、テレビに映るわけないな(^_^;)
 
 

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家康が居る久能山

由比宿を後にし、1号線は走らず、薩多峠を車で超え、静岡市内へ。
車を海沿いに向かって走らせたが、三保ノ松原を見るにはいま一つのお天気、
ここは徳川家康の廟所である、久能山へ向かう事にする。
 
イメージ 1
 
到着したのが午後3時半頃。
社寺仏閣を訪れるには、時間としては遅かったか。
久能山の麓の、土産物兼飲食店の駐車場に500円を払って車を止めたが、
お店の人から、下山する頃にはお店は閉まってます、と念を押された。
階段を見上げると、下山する頃には店が閉まるどころか日が暮れそうな気が(;´瓜`)
 
イメージ 2

とにもかくにも、階段を登る。
そう、人生とは重き荷物をしょって階段を登るようなものなのである。
(BY IEYASU TOKUGAWA)
 
イメージ 3

途中、南に広がる駿河湾を見渡してみる。
家康は晩年を駿府で過ごしたが、駿河は温暖なところで、
ここに住んだら長生きできそうだ、と、言ったらしい。
実際この日も、神奈川よりも、4、5度は暖かかったように思う。
家康は、少年時代をこの駿府の地で過ごし、
今川家の連中からは、三河の厄介者として扱われ、
あまりいい思い出が無いはずなのだが、
天下の主になってわざわざこの土地に住んだのは、
少年の頃の思い出を懐かしがる余裕も出来たということか。
 
イメージ 4

家康は、死の三か月前、当時では珍しい、鯛の天ぷらを食べてから体調を崩したと言われるが、
この席では多くの家臣も同伴して、鯛の天ぷらを食べたらしいから、食当たりでは無い。
残された記録の症状からすると、どうやら胃がんであったようだ。
しかし家康の聡明なところは、この症状に慌てることなく死を悟り、
息子の秀忠や家臣を枕頭に呼び寄せ、遺言というよりも、
自分の死後についての引き継ぎと言っていい作業をやってのけたことだった。
 
石段を上り、家康の廟所に着いた。
 
イメージ 5

ここで家康が眠っているのかと思うと、不思議な気がする。
家康が作った徳川幕府が二百年以上続き、
この徳川家の体質が、よくも悪くも今の日本人の原型となった。
徳川幕府ではどんな役職も責任者を二人置き、一人に責任が集中することを避けた。
これは一人に重荷を背負わせることを避ける思いやりとも言えるが、
幕末に日本との国交を結ぼうとした列強国は、常に責任者が誰なのか分からないことに当惑した。
平成のこんにちでも責任を取らない政治家が多いのはその名残と言えなくもない。
しかし未来はどうあれ、家康によって、戦国時代は終息した。
 
イメージ 6
 
家康が亡くなったのは元和2年、4月17日午前10時であったと言われる。
家康の周到さは、自分の死後、すぐさま埋葬するように指示していたことだった。
家臣たちはすぐに埋葬と言うのはどうか、と躊躇したが、
二代将軍秀忠の指示によって、埋葬が実行された。
埋葬の模様は、司馬遼太郎さんの「覇王の家」から引用させていただく。
家康の遺体は、その日が暮れきってから、駿府城を出、星ひとつない闇の中をゆき、やがて久能山の杉木立の坂を登った。棺をかつぐ者は四人の譜代衆である。本多正純、松平正綱、板倉重昌、秋元泰朝であった。そのあとに、土井利勝、成瀬正成、安藤直次、中山信吉の四人がしたがった。密葬は秘事であるがために、この八人のほかは山に登ることができない。ただ僧天海と僧崇伝それに榊原大内記だけが例外としてつき従った。
この夜の久能山は霧のような雨期が満ち、八人の譜代衆は濡れそぼちながら、かれらをして大名たらしめてくれた男の棺をかつぎ、守り、その棺に、榊原大内記がたえず長柄の傘をさしかけてゆるゆるとすすんだ。久能山は武田信玄がきずいた小さな城があり、家康の世になってから城番をおくだけのかたちになっていたが、この山城そのものが、この夜から家康のねむる廟所になった。

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