素人(アマ)のひとりごと

銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血がにじんだように赤く、その香りは汗の匂いがする。

明治10年

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とうかん掘通り

以前、明治維新早々に、西郷どんが住んでいた日本橋小網町の屋敷跡、というのを探した。
その時書いた記事は、ちょっと場所が違っていたらしい(^^ゞ


いや、間違ってはいないのだが、ある一点を歩いて「ここ」と断定するのは、いかにも旅行で石碑を探すやり方なのである┐(´д`)┌
当時の旗本屋敷というのはこんにちでは想像出来ないほど広い。
西郷どんが住んでいたのは旗本の酒井雅楽頭の中屋敷あとで、現在の日本橋小網町ほぼ全域のようだ( ゚Д゚)ヒョエー


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現在、とうかん掘通りというのがある。
この通りが文字通り「とうかん掘」という堀だったらしく、現在は影も形もない。
堀の東側すべてが酒井屋敷だったが、現在のとうかん掘通りだけでも200mはあるだろう。
酒井家は、徳川家が松平家の頃から血縁もあり、徳川家の重鎮だったが、気の遠くなる屋敷の広さだ。


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この画像がとうかん掘り通りで、左側に酒井屋敷があった。
右側は安藤屋敷があったが、安藤家も松平の頃からの家臣で、安藤屋敷の西側は日本橋川になる。
インターネットもテレビもなかった明治のころ、この界隈を歩く大男が西郷どんであるとは、誰も気づかなかったらしい。
当時これほど有名な人であったのに、実物を見た事がない人が多いというのが何とも面白い。



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とうかん掘りは、東西に流れる箱崎川から北へ流れ込んで、その箱崎川は、とうかん堀に並行して流れる日本橋川から流れ込んでいた。
箱崎川にかかる橋を汐留橋と呼んでいたらしいが、今は箱崎川は埋め立てられ、その上を首都高が走る。
日本橋界隈は、江戸の中心地だっただけにいろんな名所、名勝があったのだが、現代の東京の中心地である限り、原形をとどめることが許されない。
しかしこの首都高があるおかげで、私は雨の日でもほとんど傘をささずに、駅から会社まで歩けるのである。
昔の風景をしのぶ前に、現代で生活していることを実感するなあ┐(´∇`)┌


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上野公園と彰義隊

大河ドラマ「篤姫」では、江戸城の明け渡し後、
スムーズに明治を迎えられたかのような印象だったが、
実際には東日本各地で戦火があがった。
お膝元の江戸では、上野の山に旧幕臣達が立てこもり、
官軍に抵抗を続けていた。
この上野に立てこもった旧幕臣が、彰義隊である。
当時は現在の上野動物園、公園などの一帯すべてが寛永寺の境内で、
彰義隊が立てこもると、要塞と化した。



旧幕臣といっても旗本よりも、幕府直轄領の農民なども多かったようだ。
江戸市中を歩く官軍兵士を、彰義隊が大人数でよってたかって殺すという事件も多発した。
天璋院篤姫もこの彰義隊の動向には頭を痛めていたようだが、
官軍参謀の西郷どんが彰義隊の挑発に乗らず、官軍兵士をよく統率していた。
江戸城の明け渡しよりも、このあたりが西郷どんのすごいところなのである。


官軍が戦闘態勢に入ると、彰義隊は上野の山に立てこもり応戦の体勢をとったが、
江戸市中を戦火で焼失したくない官軍としては、思うつぼでもあった。
火災が起こらぬように、戦闘も雨の日を選び、長州藩の大村益次郎の指揮のもと、
官軍は上野の彰義隊を攻撃した。
一日で上野は没落し、官軍の勝利となった。


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上野の西郷どんの銅像は有名だ。
西郷どんは明治10年の西南の役で賊名を着ることになったが、
明治22年に明治天皇から賊名を解かれ、西郷どんの朋輩である吉井友実らが献金して、
銅像を建立した。
しかし西郷どんの奥様は、この銅像を見て「全然似ていない」と言ったらしいが(;・∀・)ハッ?
鹿児島の城山のもとにある西郷どんの銅像は、陸軍大将の服を着て、表情も少しコワイ。
が、上野の銅像は天皇のおひざ元だけに、賊名を着ていたことを案じてか、
隠居当時のラフないでたち、表情も温和だ。


この西郷どんの銅像近くに、彰義隊士のお墓がある。


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寛永寺の本堂は、現在の上野動物園のあたりにあったらしいが、
この戦闘で寛永寺はほとんどが焼失した。
徳川家の菩提寺であることから、徳川慶喜も鳥羽伏見の戦いの後で、この寛永寺で謹慎した。
現在本堂は、上野中学校の隣にある。
天璋院篤姫のお墓もここだ。


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生麦、生ハム、生ビール

初めて神奈川に住んで、道を走ってだか電車に乗ってだかか忘れたが、初めて「生麦」という地名を目にした時、本当にあったんだ、などと変に感心したものだった(;・∀・)具体的に何があったか知らないにしても、「生麦事件」はどんなに勉強嫌いの人でも聞いた事くらいはある歴史上の出来事だろう。


生麦村、現在では神奈川県横浜市鶴見区になる。
古い写真を見ると現在と比べようも無い。


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今では国道15号線が走り、街全体がコンクリートで固められている。
箱根駅伝のルートでもある。


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現在は生麦事件跡のすぐ後ろに、キリンビール横浜工場がある。
先日ブログ友達の方とビール工場見学の話が出たが、もうここは入口からしてビール好きが寄って集まりたくなるムード。


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この事件は薩摩藩主の実父、島津久光が、大勢の薩摩藩士を率いて京、江戸に幕政改革を迫るために出向いた帰りに起こった。
出向いた、と簡単に言っても、参勤交代以外で大名が江戸に出てくることはありえない。
ましてや大名が京都に立ち寄る事は、江戸幕府開府以来御法度だ。
次々と慣例、規則を破った久光だが、彼自身そもそも藩主の実父と言うだけで大名ではない。
出発前に西郷どんが久光に面と向かって「あなたが出て行ったところでどうにもならない」と批判し、久光の逆鱗に触れるのであるが、まったく西郷どんの言うとおり。
京都の公家衆にも江戸の幕府高官にもほどほどにあしらわれてしまう。
寺田屋事件はこの久光の上洛のときに起こるのだが、生麦事件は江戸からの帰路に起こった。


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生麦事件現場から旧東海道の東京方面を見ている。
島津久光の行列は画像の向こう側からこちらに向かってきたのであるが、こちら側から久光の行列に向かって4人のイギリス人が騎馬で向かっていった。横浜に絹問屋をひらくリチャードソン一行だった。
彼らは日曜日でもあり、横浜から川崎大師に向かっていた。
日本では大名行列を横切る者は切り捨てられるのが風習、いや法律と言ってよかった。
このとき日本に在住する欧米人はこの風習を知らないはずがなく、現にこの事件の直前にあるアメリカ人が久光の行列に出会い、馬から降りて敬礼して事なきを得た。あとで彼らは生麦事件の話を聞き、当然の報いだ、と語ったという。


この当時の街道の狭さは一番最初の画像のとおりである。
騎馬のイギリス人と久光の行列がすれ違えるはずがない。当然、行列先頭の侍は「おりろ!」と怒鳴ったが、彼らは構わず行列に割り込んだ。騒ぎを聞いた久光側近の奈良原喜八郎、海江田武次が抜刀し、行列の先頭に走った。


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一説では駕籠から久光が「斬れ」と奈良原に命じたともいわれる。
奈良原は行列の先頭にたどり着くや否や、馬上のリチャードソンを斬り下げた。
血煙が行列の中頃から見えたらしい。
あと男二人が斬られ、女性一人は無事だったが、三人は馬を走らせともかく逃走した。
深手を負ったリチャードソンは、松並木の下でとどめを刺された。
日本では武士の情けの行為であるが、イギリスからは残虐な行為として逆に反感を買った。


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いずれにせよこれが原因でのちに薩英戦争が錦江湾で勃発する。
しかし外国の軍事力の強大さを薩摩藩は思い知る結果となり、ひそかにイギリスと結んで倒幕の道を歩み始めるから、世の中何がきっかけで何を産むかわかったものではない。
しかしこの時は大久保どんも小松どんも頭を抱えた。
イギリス人を斬って捨てるとは、幕府に申し立ての仕様がない。


ビール工場が妙に心に残った。
今度はぜひとも工場見学をしたい♪
今夜は生ハム、生ビール( ゚Д゚)ウマー


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天保山公園

今日の「篤姫」のエンディングで鹿児島の天保山公園が紹介されていた。


先月の鹿児島行きでこの公園を訪れたが、調所広郷と坂本竜馬の像を見ただけで、公園内の散策はしなかった。
よって画像は2枚だけ┐(´∇`)┌


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天保山は甲突川が錦江湾流れ出たところに出来た人口の山だ。
洪水が起こるたびに改修を繰り返し、その時に出た土砂が積み重なってできたものらしい。
薩英戦争ではこの天保山から薩摩軍の大砲が火を噴いたが英軍には一発も当たらず、逆に英軍の砲弾で粉砕されてしまった。


篤姫では、この天保山での軍事訓練中に島津斉彬が倒れたが、猛暑の中で飲んだ井戸水のコレラ菌が原因だったといわれる。
西郷どんなどは島津久光の母であるお由良とその一派による毒殺と疑っていたようだが、当の久光は今日のドラマでもあったように異母の兄である斉彬をむしろ無邪気なまでに尊敬していたし、状況から考えても毒殺は無理だっただろう。


一方篤姫は、夫である将軍家定の急死によって22歳の若さで未亡人となり、天璋院と名乗ることになる。
天璋院篤姫の本当の活躍はこれからといったところだが、故郷の薩摩も大きく変化する。


井伊直弼による安政の大獄が始まっている。
一橋慶喜擁立派はことごとく弾圧され、大名クラスの者は謹慎、蟄居、家臣クラスの者は刑死になることが多く、その余波で長州藩の吉田松陰も犠牲になる。
島津斉彬は急死したため、矛先が当然側近だった西郷どんに向けられるのだが、西郷どんが刑死になることを危ぶんだ薩摩藩では西郷どんが死んだ事にして、墓まで作ったうえで島流しにして隠した。
その西郷どんの島流しの間に、大久保どんが頭角を現し、島津久光のもとで力を発揮し始めるのである。


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あんみつ姫は篤姫への対抗馬か??

あんみつ姫と篤姫の第一回が同じ日に放映?
なんか偶然でないものを感じるが、まあそんな事ぁいい┐(´∇`)┌


篤姫の第一回を観た。宮尾登美子さんの原作は読んだ事はないが、ドラマとしてはなかなか面白い展開だと思う。


今回は、しょっぱなが薩摩島津家のお家事情から始まるから、よほどの歴史オタクでないと、事情が分かりづらいところも多い。私自身も説明しろと言われると、克明には説明できない。若かりし頃の西郷どんの時代背景がなんとなく分かるだけである。


ただ面白いのは、高橋英樹。


今回は島津斉彬役で登場しているが、かれこれ20年近く前、同じ薩摩を舞台にした「翔ぶがごとく」では、島津久光役だったのである。役柄的には立ち位置が正反対なのに、ぴったりハマっているところが面白い。


さらに注目は瑛太演ずる、肝付尚五郎。最初、肝付尚五郎って薩摩にいたっけ?って思ってたら、後の小松帯刀なんですな。すっげーいい役やないの。ウォーターボーイズから躍進したなあ、おい!


玉木宏も坂本竜馬役だし、ウォーターボーイズ組、頑張ってるなあ。ってか「のだめ」組って感じもするが(´ー`)


桜島は何度かの噴火で、幕末のときとはかなり形が変ったらしいが、それでも現在の桜島と、CGで映し出された幕末の鹿児島の街がいいなあ。島津斉彬が渡っていたのは高麗橋でしょうか、西田橋でしょうか。あの景色見てるとまた鹿児島に行きたくなりましたぜ。

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