素人(アマ)のひとりごと

銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血がにじんだように赤く、その香りは汗の匂いがする。

尾張のはじまり

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

三方ヶ原古戦場跡

今年最初の記事は、三方ヶ原合戦のお話からとしたい。
高天神城、二俣城を訪れた後、しめくくりは浜松城としたかったが、
時間の関係で三方ヶ原合戦跡だけにとどめておいた。
今回訪れたのは犀ヶ崖という、合戦の資料館もある場所だ。
 
イメージ 1
 
 
徳川家康の長い戦歴の中で、唯一の負け戦だったのが、
遠州三方ヶ原での、武田信玄との戦いだと言われている。
武田信玄は戦国時代にその名を恐れられたものの、
その生涯で勝ちえたのは甲州と信州、現在の山梨県と長野県で、
恐れられた割には領地そのものはそれほどでもない。
その信玄が人生の総仕上げに京に上るという、
織田信長、徳川家康が一番恐れていた事態が勃発した。
信玄は中山道を歩けば楽に京にたどり着けるのだが、
あえて遠回りして甲州を南下し、浜松の家康に攻め込んだ。
近畿圏内で信長と対戦した時、浜松の家康に背後を突かれないためである。
 
イメージ 2

三方ヶ原は現在の浜松北方の台地で、東名高速道路にも三方ヶ原PAがあるが、
実際に具体的にどの場所でどういう戦いが行われたかはよく分からないらしい。
合戦は武田軍の圧勝で、夕闇の中で徳川軍は退却し、浜松城に逃げ込んだ。
現在の浜松城の場所はその当時の浜松城とはやや違ったらしいが、
家康は浜松城内に篝火を焚き、闇夜に浜松城をライトアップさせた。
追いすがる武田軍は家康にまだ抗戦の意思があることを知り、
闇夜での攻城の不利を悟って攻撃をとどめた。
しかしこのとき家康は恐怖のあまり脱糞し、
浜松城の寝室に閉じこもっていたとも言われている。
 
イメージ 3

浜松城の近くに三方ヶ原古戦場跡として、犀ヶ崖がある。
崖と言ってもさほどの深さは無くきちんと整備もされている。
ここを覗き込んだだけでは、ここで何があったなんてことは想像もつかない。
ここにある三方ヶ原合戦に関する資料館は無料で入場でき、
ボランティアの方が合戦の模様を説明してくれる。

武田軍は日没後、前線部隊がこの犀ヶ崖に布陣していたが、
夜陰に紛れて徳川軍が鉄砲を打ちこみ、武田軍を壊乱させて、
多くの被害を出したと言われている。
しかし信玄は家康にとどめをさすことなく、浜松を後にし、
三方ヶ原の戦いの二ヶ月後、三河の野田城の攻城中に病没する。

信玄の進路を見ると、徹底して徳川領の城をつぶして回り、
甲府を進発してから野田城に至るまで三ヶ月以上を要している。
野田城を落とすにもそこから一ヶ月以上かかっているから、
本当は京に登るつもりはなく、家康の三河、遠州併呑が目的で、
浜松城を攻めて家康にとどめを刺さなかったのも、
のちに有能な家康を家臣にするつもりではなかったか。
いずれにせよ家康はこの戦いに負けはしたものの、
織田、豊臣期を通じて、信玄から逃げなかった武将として、
おおいに諸将から恐れられた。

新年はこの家康の出世談とも言えるお話からスタート。
喪中のため、新年のご挨拶は遠慮させていただくことをご了承ください。
 

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

岡崎信康と二俣城

高天神城を後にして、今度は浜松の北方にある二俣城に向かう。
距離にして40kmほど、一時間足らずの道のりだ。
二股城も駿遠の覇者、今川義元が桶狭間で討死して以来、徳川家康の勢力下にあった。
しかし地理的にも甲斐の武田氏に対しての前線基地でもあり、
武田信玄が西上しようとした時も、この二俣城で、激しい攻防戦が行われた。
 
イメージ 1

城郭は、天竜川が天然の外堀となっている。
城から釣瓶をおろして天竜川の水を汲めるから、少なくとも籠城側は水の心配がまったくない。
信玄はこれに苛立ち、釣瓶が落ちるあたりに筏を並べ、水を汲めなくしたと言われる。
 
イメージ 2
 
しかし西上の途中、信玄は奥三河の野田城の攻防戦中に病没し、
さらには長篠の合戦で織田・徳川連合軍が武田軍を大いに破った。
もはや武田家の自滅も時間の問題と言うある時、信長から家康に難題が持ちかけられた。
家康の正室の築山御前と、長男の信康を殺せという驚くべき内容である。
理由は築山御前と信康が共謀して武田と内通していた、というもので、
この二人が実際に武田家と内通していたかどうかは今となっては謎だが、
とにもかくにも家康が絶対逆らえない、信長からこの命令が来た。
徳川家は騒然となった。
 
イメージ 3

信康の居城は岡崎城だったが、家康はこの二俣城に信康を幽閉し、やがて切腹を命じる。
介錯しようとした服部半蔵は、悲しみのあまり刀が抜けなかったという。
この事件は家康37歳、信康20歳の時の事件で、家康の心に深い傷を負わせたようだ。
家康は晩年になっても信康の事を思い出すことが多かったらしく、
関ヶ原の合戦の折りにも、「信康が生きていれば、任せておけばいいものを」と、
しきりに愚痴をこぼしたと言われる。
 
イメージ 4

家康は、信康の居場所を転々と変え、最後にこの二俣城に移したが、
家臣達がこっそり信康をどこかに逃がすことを期待していたとも言われる。
家康は家臣にはっきりと命令を出す人ではなく、大まかな指示を出して、
あとは家臣にすべてを任せておくタイプの大将だった。
この時も信康を姿の隠し易い二俣城に送り込んで、家臣に空気を読ませようとしたが、
家臣はくそまじめに信康を見張り、家康はあきらめざるを得なかった。
二俣城の北側、清瀧寺に、信康の廟所がある。
 
イメージ 5

しかし信長がいかに暴君とはいえ、また、原因が武田家への内通であっても、
家康に妻子を殺せ、とまで命令を出すとは、ちょっと考えにくい。
かりに家康が信長と縁を切って、武田と共同戦線を張っても、
武田家はもはや滅亡寸前、信長にとっては怖るに足らずかもしれないが、
家康の三河兵の強さは誰よりも信長自身がよく知っており、
姉川の合戦でも壊滅寸前の織田軍を救ったのは、三河兵の奮戦のおかげだった。
さらに家康が北条か上杉と連合でもすれば、必死で近畿一円を切り取ったばかりの信長は、
すぐに負けることは無いにしても、再び泥沼にはまり込まざるを得ない。
 
イメージ 6
 
実際には当主の家康と、息子の信康のそれぞれの家臣団で争いが生じ、
その内紛に信長が乗っかった、と考える方が、分かりやすいように思う。
家康の家臣たちが信康と彼の家臣団を疎んで「武田家と内通したという噂まで出てますぜ」
という調子で家康に直訴したか、またはそれが信長の耳に入ってしまったのだろう。
とくに家康の若年のころから仕えた酒井忠次や大久保忠世などは、
積極的に信康の切腹を支持したようで、江戸期になってから徳川家の旗本の間で、
この時の酒井忠次の行動を批判する声も出たらしい。
 
イメージ 7

信康が腹を切る事が無ければ二代将軍の座には彼がついて、
実際の二代将軍だった秀忠も、後世の記録に目立った記述は残らなかったに違いなく、
さらには江戸幕府も現在の日本さえも、様相が違うものになっていたかもしれない。
そんな事を考えながら信康の廟所の前を歩いていると、
信康の廟所を見守るかのようにそこだけ赤々と紅葉が残っていた。
 
 

閉じる コメント(49)

閉じる トラックバック(1)

御斎峠(おとぎとうげ)

京都からの帰り道は寄り道しながらのんびりと走り、
高速料金が半額になる12時過ぎに神奈川に到着させることに。
国道1号線を走って逢坂山を越え、滋賀県に入ってから瀬田川沿いを南下し、
途中、東側に道を折れて、まずは信楽を通過。もちろん信楽焼で有名なあの信楽。
道を走っていると、焼き物のお店でこの狸の大軍(((( ;゚д゚)))アワワワワ
 
イメージ 1
 
信楽からさらに南下し、目的地は伊賀上野。
伊賀と言えば「伊賀の影丸」といった忍者ものの物語や漫画を連想する。
女子サッカーなでしこジャパンの宮本ともみ選手が、伊賀フットボールクラブくノ一の所属。
くノ一とは「女」という字をばらした忍者の隠語で、女忍者の事、
伊賀上野市は街おこしとして伊賀と忍者を切り離せずにチーム名につけたのだろうが、
なでしこにくノ一が居るなんて、洒落としてはなかなかイキではないか。
 
 
イメージ 2
 
信楽から伊賀上野に出るのに、御斎峠(おとぎとうげ)を通過した。
本能寺の変で織田信長が亡くなった時、徳川家康は信長の招きで堺見物をしていたが、
堺から京の信長のもとへ向かう途中で、この変報に接した。
謀反を起こした明智光秀は当然京を占領しており、家康がこのまま京に入れば、
間違いなく家康は光秀にとらわれ、殺されるだろう。
変報を聞いた場所は、現在の枚方市あたりだったと言われるが、
家康一行は京を避けて進路を東にとり、伊賀の山々を越えて、近畿を脱出することにした。
そのときに家康たちが通過したのが、この御斎峠と言われている。
 
イメージ 5

伊賀越えは少人数での行軍で、落ち武者狩りなどに悩ませられ、
家康の生涯の中でももっとも苦労した退却戦だった。
しかし伊賀の郷士たちは家康に恩を感じているものが多く、
家康たちが伊賀に入ってからは、伊賀郷士たちが家康らを守りながら先に進んだという。
なぜ伊賀郷士が家康に恩を感じているかのお話はまた次の機会に。
 
イメージ 3
 
御斎峠は伊賀を見下ろすうえで最高の場所と言われているらしい。
家康の時代にあったかどうかはわからないが、今は展望台があり、
そこから伊賀盆地を一望することが出来る。
 
イメージ 4
 
けっこう疲れる階段だった(;・∀・)ダダイジョウブ・・・?
今の御斎峠はむかしの御斎峠とはすっかり姿を変えてしまっているらしいが、
ここからの眺めはなかなか素晴らしい。
 
 

閉じる コメント(35)

閉じる トラックバック(0)

朽木越え

敦賀から京都へ向う道は、「朽木越え」にした。
信長が金ヶ崎から退却する際に通った街道とされている。
司馬遼太郎さんは、「街道をゆく・湖西のみち」で、こんな事を言われている。
(―織田信長は)
と、私は信長とこの朽木街道について考えた。
(その魅力の最大なものの一つは、元亀元(一五七〇)年四月、この街道を猛烈な勢いで退却したことにあるのではないか)
とおもうのである。
信長のおもしろさは桶狭間の奇襲や、長篠の戦いの火力戦を創案し、同時にそれを演じたというところに象徴されてもいいが、しかし、それだけでは信長の凄味がわかりにくい。
この天才の凄味はむしろ朽木街道を疾風のごとく退却して行ったところにあるであろう。
 
信長は若狭廻りで朽木越えに入ったはずだが、
私はいったん琵琶湖に出て、信長とは逆廻りで朽木越えに。
この朽木越えは昭和のある時期までは信長の時代を彷彿させる街道だったが、
京都のドライバーは京都から敦賀や若狭に抜ける場合にはたいていこの道を使い、
そういう交通事情もあってか、今ではバイパスがずどんと通っている。
バイパス沿いに旧道は残され、わずかに昔の面影を残している。
 
イメージ 1

こんにちの行政区画で言うと、滋賀県高島市野尻に朽木氏の館跡と、資料館がある。
訪れた時間が夕方5時頃だったので、資料館はもうクローズされていた。
朽木氏は近江佐々木源氏の支流で、古くからこの朽木谷に館を構えていた。
 
イメージ 2

足利十二代将軍義晴が京の混乱で近江へ逃げた時、巡り巡ってこの朽木谷に逃げ込み、
朽木氏が義晴を保護したという経歴もある。
が、当時の信長は近畿地方をあらかた制していたものの、
この近江と敦賀の国境ともいえる山奥に領主がいたとは知らなかったらしい。
朽木越えへの道と、朽木氏、当時の領主は朽木元綱だったが、
これらを信長に教えたのは、戦国期きっての悪党と言われた松永久秀だった。

松永久秀がどう悪党だったかは話が長くなるので省くが、
かれは戦国の激動期に京都を支配していたので、
京からさほどの距離でもないこの山奥に朽木氏がいることを知っており、
京都北東の八瀬から途中越え、さらに朽木越えを走れば、
敦賀や若狭などの現在の福井県に抜けることも知っていた。
館跡は資料館の隣に整備されている。
 
イメージ 3

しかし信長も、この悪党の言うことを聞くには多少なりとも警戒が要る。
松永久秀は朽木元綱と手を組んで、信長の首を落とすことも可能なのである。
このあたりの風景も、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の文章をお借りする。
松永久秀は庶民からのしあがって、おのれの謀才一つで大名にのしあがったが、最後まで食えぬ男でいれぱいいのに、このように息せき切って山坂を往来するなどは、すでに焼きがまわっている証拠とみていい。久秀はもはや老い、信長という新興の大勢力の下で、おのれの余生を安穏に送ろうとふと思ったことが、この善人大活劇といった一幕になったに相違ない。
信長が、山中から朽木谷に降りてくると、安曇川渓流に沿う街道上に、朽木元綱とその郎党が武装してあらわれた。
その武装が信長をよほど驚かせたらしく『武家事紀』にそのことがわざわざ書かれている。信長のそぱにいる松永久秀は、田舎者め、とおもったであろう。飛ぴ出して行ってその物騒な姿はなんです、すぐ平装に着かえてきなさい、と元綱のために叱りつけると、元綱もあわてて道服に着かえ、ふたたび路上にあらわれ、信長に拝礼した。信長は、やっと安堵した。
イメージ 4
 
かくして信長はこの朽木谷に宿を得られたわけだが、
旧街道沿いに信長が泊まったと言われる場所がある。
信長は朽木元綱に守られ、無事に京へ帰ったが、
このことがあって朽木元綱は信長傘下の大名となった。
 
イメージ 5

豊臣政権下では所領が倍ほどにも増える幸運に見舞われたが、
関ヶ原では、東軍についたのか、西軍についたのか、ちょっとはっきりしないところがあって、
結局は小早川秀秋の裏切りとともに大谷吉継軍に攻め入ったことなどが、
徳川方にはあまりいい印象を与えなかったようだ。
それでもこの朽木谷の領地を失うことなく、明治維新を迎える。
 
出典:司馬遼太郎「街道をゆく・湖西のみち」
 
 

閉じる コメント(9)

閉じる トラックバック(0)

敦賀金ヶ崎城跡

知多半島から車を走らせ、名古屋を縦断し、次の行き先は福井県敦賀市。
愛知県から福井県というのもずいぶん距離があるように思えるが、
福井県の西端の敦賀市までは150kmほどの道のり。案外、近い。
敦賀を散策し、琵琶湖の西を走って京都に入るという魂胆
 
イメージ 1
 
敦賀入りする前に、北陸道の賤ヶ岳SAで休憩。
ここから浅井城跡は目と鼻の先で、
大河ドラマの出演者とは別の人が浅井三姉妹に
 
イメージ 2
 
そして滋賀県名物、サラダパンが販売されている。
サラダパンとは、たくあんをマヨネーズで和えて、
コッペパンにはさんだもの。
滋賀県北部の隠れた地元人気商品だったが、
島田紳助の番組で紹介されると、
出演者ほとんどがこのサラダパンにダメだし
しかしこの不評ぶりが逆に多くの人の興味を誘い、
一時は注文してから数カ月待ちの状態が続いた。
まあたくあんにマヨネーズだから特別美味いものでもないが、
味を知ってしまえば、たまに食べたくなる味だ。
 
イメージ 3

そして敦賀インターで降りて、敦賀市内へ。
地図では目の前に敦賀湾が広がっているはずだが、
敦賀湾は半島に囲まれており、海の方角を見ても山しかない。
そして敦賀での最初の目的地、金ヶ崎城跡。
ここまで来て、やっと海が見えた。
 
 
戦国期、越前(こんにちの福井県から石川県あたり)は、
土豪から守護代にのしあがった、朝倉氏が支配していた。
が、戦国末期には、尾張、美濃で頭角を現した織田信長と真っ向から対立、
永禄13年(1570年)4月、信長は越前に攻め入り、
朝倉氏の前線基地ともいえる金ヶ崎城を、またたくまに攻め落としてしまう。
このとき信長は、近江の浅井氏に妹のお市を嫁がせ、同盟関係を強化していた。
浅井氏を敵に回すと、当時の信長の本拠地である岐阜から京へ向かう道が寸断され、
この越前攻めも、浅井氏の領地を通らないことには不可能なのである。
 
ところが、この越前攻めの真っ最中に、浅井氏が裏切った。
三方を山に囲まれた狭隘な敦賀の地に織田軍は滞留していたが、
その敦賀に向かって、浅井氏が兵を繰り出したというのである。
信長は浅井氏を信じ切っており、だからこそ越前攻めが可能だったわけだが、
浅井氏の裏切りによって、前提条件が根本から覆った。
前方には朝倉軍が待ち迎え、後方から浅井軍に挟み撃ちされれば、
織田軍は敦賀湾に落ちるしかない。絶体絶命である
 
イメージ 4

このとき妹のお市は両端を縛った「小豆袋」を信長に陣中見舞いとして送り、
「両端をふさがれた」謎ときとして、浅井氏の裏切りを知らせたと言われるが、
謎ときとしてもちょっと難しすぎて、いかにも作り話っぽい。
私が信長なら、
「おー、市が小豆を送ってくれたで、
ぜんざいでも作ろまい」
ってなりそう。まあ信長がそんなアホなわけないのだが
とにもかくにも、この浅井裏切りの報に接し、
織田軍団の総退却戦が始まるのだが、そのお話はまた次回。

閉じる コメント(13)

閉じる トラックバック(0)

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.

人気度

ヘルプ

Yahoo Image

  今日 全体
訪問者 312 562683
ブログリンク 0 101
コメント 49 40745
トラックバック 0 433

ケータイで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

URLをケータイに送信
(Yahoo! JAPAN IDでのログインが必要です)

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

開設日: 2006/8/10(木)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.