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今回考えるのは、劉備による益州平定戦の一局面である、雒城での攻防についてである。
212年に葭萌を出て以来、各地で敵の降伏を受け入れながら、怒涛の進軍を続けていた劉備であったが、雒城において劉循の抵抗に遭い、成都を目前にして1年にも亘って前進が停止してしまった。この前進停止は、単に雒城が堅固だった為に起こったのだろうか?それとも別の理由があったのだろうか?
三国志蜀書先主伝には、この怒涛の進軍において、劉備が軍を分け属県を平定した事が記されている。これは恐らく、諸将の降伏を受けて軍が肥大化してしまった為、広正面を取り分進しなければ、迅速な前進が困難となったからであろう。正面が広がった為、前進途上の梓潼郡と広漢郡(当時は全て広漢郡に属した)の諸県は自ずと平定されたと思われる。
雒城は北面は洛水が流れ、西には汶山の峻険な山々がそびえ、東側も、決して険しくは無いものの、山が南北に走り通行を阻害している。
河川近傍又は沿岸に築かれた城塞が、特に前面に河川の流れる城塞が非常に堅固である事は、かのクラウゼヴィッツも名著「戦争論」において述べている。実際、雒城が高い防護能力を有していた事は疑いようが無いだろう。
この雒城を攻略するに当たり、劉備が採りえた作戦は、大きく分けて以下の三種になるだろう。
作戦案1
一つは、東側の山を迂回し、大渡より雒城と成都の間に進出する案である。その場合、雒城にある程度の戦力を置き、劉循を牽制すると同時に、勝機に臨んで雒城を突破する部隊とすべきであろう。
これは劉循の連絡線を遮断し、雒城の突破を容易にする事ができる反面、成都に尚存在する3万余の戦力との挟撃に遭う恐れも有る。内戦は必勝の原理では有るが、同時に敵に包囲されるリスクをも含んでいる。敵を迅速に撃破できなかった場合、包囲殲滅される危険が発生する為、この作戦は少々危険である。
作戦案2
もう一つは、強引に雒城を突破し、そのまま成都まで前進するというものである。
これは下策と言える。堅固な城塞を力押しで突破するので、相当な被害が見込まれるであろうし、運良く突破できても、劉循はそのまま成都まで後退して劉璋軍と合体し、却って敵の抵抗力を高める結果を呼びかねない。単純な直接アプローチは、戦況を劇的に変える事はできない。
作戦案3
最後の作戦案は、最も有効であり、実際にも行われたものである。
葭萌を出て成都に向かうに当たり、その途上、特に緜竹や雒城で大規模な抵抗が行われるであろう事は、劉備も予測していた事だろう。
緜竹においては、李厳の降伏によって抵抗を受けずに進む事ができた。
当然、劉備もその対策は考えてあったはずである。それこそが、開戦と共に行われた、諸葛亮らの益州進出である。
彼らは長江を遡り、江州まで前進した後、軍を分けて進み、それぞれ成都へと前進している。
趙雲が江陽へ、張飛が巴郡へ向かった事以外、彼らの前進経路は記されていない。
恐らく、張飛は巴郡より葭萌方面へ向かう事で劉備の連絡線の安全確保を、趙雲は抵抗の少ない南方より直接成都へ向かう事で劉璋の牽制を、そして諸葛亮は、涪水を遡り、シ県を通って大渡より雒城の後方に進出したのだろう。
このようにする事で、万全の態勢を保ったまま、劉循の連絡線を断ち切り孤立させ、雒城を容易に突破すると共に、益州の郡県の殆どを平定する事で劉璋に絶望感を与えるという、戦況を理想的に推移させる優れた作戦を採る事ができる。
援軍到着のタイミングからして、全て予定通りの作戦であっただろう。さすがは曹操が好敵手と認めた人物である。この益州攻略戦に関しては、鮮やかな手並みを見せたと言っていい。
唯一の誤算は、参謀として従軍していた龐統が流れ矢で死んでしまった事だろう。例え連絡線を断ち切ったとしても、堅固な城塞を攻略するのは困難な事であると言える。
連絡線遮断によって城塞の放棄が行われるのが理想では有ったが、単に相手の士気を下げただけで、劉循の後退を促すには至らなかったのだろう。敵の分断までに時間を掛けすぎた為、悠長に降伏を待ってはいられなかったのが、龐統の、そして劉備の不幸と言えよう。
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