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2009年2月11日

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田豫の離脱と孝

田豫は劉備の元を離れる際に母の老齢をその理由としたが、これを劉備から離れる為の名目であるとか、田豫の離脱が劉備を見限ったからであるとか考えるのは馬鹿げた事であろう。

この時、公孫瓚は界橋の戦いに敗れ、冀、幽の地で袁紹と一進一退の攻防を繰り広げていた。また、豫、徐州と幽州とを結ぶ青州の地では、袁紹の長子袁譚が、公孫瓚側の青州刺史田楷を攻撃していた。こういった状況にあって劉備と共に豫州に留まっては、永久ではないにせよ故郷に戻る事ができなくなってしまう可能性が大きい。故郷に戻れなくなれば、置いた母に尽くす事もできなければ、若し老母が亡くなったとしても、それを弔う事すらできなくなるだろう。
郷挙里選における孝廉の重要性に見られるように、当時にあって孝は最も重視されるべき価値基準であった。劉備の元に残り、母の死に目にも逢えず、葬る事もできないとなれば、彼の郷里における名は大いに失墜するだろう。名士を抑圧した公孫瓚が田豫の任用をためらい、幽州の田氏を代表する名士となった田疇に対する使者に田豫が選ばれた事を考慮すれば、田豫と田疇とに何らかの繋がりがあり、田豫自身もまた名士に属する人であったであろう事は想像に難くない。彼の基盤であったろう郷里の名声の失墜は、彼の大いに恐れるところであったと考えられる。
仮にそういった損得の勘定を抜きにしても、孝が重視された世界、幼少より孝をよく学ぶ世界においては、我々が思っている以上に孝心というものが人々の心に根付いているものである。田豫の母へ尽くす事を願う感情、内より来る孝の精神を止められるものではなかろう。史書より読み取れる田豫の善良な性質は、彼の孝心を真なるものとするには十分である。
いずれにせよ、田豫が恐れたのは何よりも孝を損なう事であって、劉備に対する好悪の情ではない。母に対する孝が、主君に対する忠を上回っただけの話である。

これと対照的なのが姜維であろう。彼は―それが意図したものでなかったにせよ―母への孝を棄てる事となった。母に対する孝ではなく、漢に対する忠を選び取ったわけである。孝と忠のせめぎあいは、三国時代全体を通して行われている。鄭玄の学問をよくした彼の、この孝に対する態度は、何かを考えさせる。

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