姜維戦争前史-〜234年-

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219年 襄陽・樊城攻略戦

今回は、219年に行われた、関羽による襄陽・樊城の攻略戦について考える。この戦役も、多くの書籍やサイトで解説されているので、割愛可能な部分は割愛し、この戦役について私の考えた幾つかの点のみを述べる事とする。

関羽の北上時期

まずは関羽の北上時期についてである。

三国志魏書武帝紀によれば、于禁の派遣は219年秋7月の事とされている。これが、于禁に命令を下した時期なのか、或いは于禁が樊城近傍に到達した時期なのかは不明であるが、于禁伝によれば、漢水の氾濫以前に于禁が樊城近傍にて関羽と対していた事が分かる。
仮に、7月に派遣命令があったとし、于禁が洛陽より樊城に向かったとするならば、洛陽樊城間の約500kmの行軍距離を考慮すると、その到着は1ヶ月強かかる事になり、于禁の到着は8月になってからの事になるだろう。
漢水の氾濫が8月のいつ頃かは記されていないので、7月の記述が命令を下した時期とすることはできる。しかしながら、その場合、遅くとも7月上旬には于禁は出発していなければならないだろう。

関羽の策源である江陵と樊城との距離は約200kmである。この距離を前進するのには、10日から2週間かかる計算になるので、関羽の北上開始は、上記于禁に関する記述と併せて考えれば、遅くとも6月下旬であろう。

前進経路

関羽の北上が、どういった道路を用いて行われたのかを考える。
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于禁伝や龐悳伝、趙儼伝などに拠れば、関羽が大規模な船団を率いた状態で北上した事が分かる。その船団が漢水を占拠していた事を考えれば、少なくとも水軍は漢水を遡上して襄陽・樊城に向かったのだろう。
しかしながら、関羽は撤退に際して船団を伴わず、漳水に沿って陸路を通り麦城に入っているので、水路と陸路と二手に分かれて北上したと考えるのが妥当だろう。

ではこの船団は何処に消えたのだろうか?その答えは文聘伝に記されている。
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文聘伝には、文聘が漢水で関羽の輜重を攻撃し、荊城でその船団を焼いた事が書かれている。この攻撃は、208年に曹操が江陵に入って文聘を江夏太守としてから、220年に曹丕が帝位に昇るまでの間に行われている事は、その記述から明らかであり、漢水で関羽の輜重を攻めて船団を焼くというその内容を考えると、この襄陽・樊城からの関羽の撤退に際して行われたと見るのが妥当だろう。

満寵の進言について

219年秋、援軍の于禁が漢水に飲まれて関羽に降り、城外に配置していた龐悳も戦死すると言う事態に際して、樊城の諸将は、「関羽の包囲の定まらない内に撤退すべきである」と述べたが、満寵はその進言に反論し、山の水は早く引く事と、樊城を放棄する事の危険性を指摘して城を固守するべきであると述べた。

実際、これは満寵の言う通りだろう。
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この満寵の言を信じれば、関羽は郟の城下に別働隊を派遣している。また、関羽伝の記述から、陸渾、梁、郟の賊が蜂起し、関羽に呼応して陸渾から摩陂までの回廊状の地域を遮断していた事が分かる。関羽の派遣した別働隊も、この賊徒を支援するためのものだろう。

仮に曹仁が樊城を放棄した場合、関羽の猛烈な追撃を受ける事は明白であり、最悪宛城すら保持できずに荊州より追われる可能性もある。その場合、関羽は宛を越え、葉、博望の辺りまで進出する事となる。そうなった場合、東方を桐柏山に、西方を伏牛山に依託しながら、荊州の入り口において頑強に抵抗する事ができる。また、汝水上流にて蜂起していた賊徒及び関羽の派遣した別働隊と合流、或いは連携して防御する事もできるので、少なくとも徐晃の軍を撃退する事はできたはずである。

被害を最小限に抑える事ができたのも、この満寵の進言に拠る所が大きいだろう。

樊城会戦

最後に述べるのが、樊城近傍において行われた、関羽と徐晃との会戦である。

この戦いで気を付けるべき事は、徐晃伝に記述されている偃城の戦いは、その後の四冢攻撃等も含めて一個の会戦とみるべき、という事である。
史記秦本紀の注に引く括地志に拠れば、偃城は安養県、すなわち樊城から三里(約1.7km)の距離にある。また、「張舜徽 主編,三国志辞典」に拠れば、四冢とは樊城近郊の集落である。
頭(或いは囲頭)については書かれていなかったが、四冢同様、樊城近郊の集落だろう。
つまり、偃城から四冢までは、その距離が数百mか、あっても1km程度であり、樊城の包囲を指揮していた関羽からも視認できた距離であろう。従って、この領域は一個の戦場とみなしてよく、偃城奪取から四冢突破まで一つの会戦とみなしてよいだろう。
会戦の経過
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関羽軍は、樊城の少し北にある偃城に軍を置いて警戒させ、四冢と頭を含む正面に軍を展開させていた。
徐晃は、塹壕を掘って偃城の背後に出んとする事で、偃城に駐屯していた兵の撤退させる事に成功した。
この偃城駐屯の意味はよく分からない。わざわざ兵を割いて偃城に駐屯するならば、偃城を利用する形で軍を展開する方が効果的に思う。また、徐晃が後方を遮らんとするだけで放棄したという事は、偃城の兵は少数であったのだろう。とするならば、哨戒以上の意味は無いと考えられる。
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その後―或いはそれ以前かもしれない―、徐晃は殷署、朱蓋らを増援に向かえて兵力を増強し、関羽の隊列より三丈(約7m)の位置まで迫った。
三丈では近すぎる。ここまで近付くと、戦端が開かれていて当然の距離になってしまう。三引(約70m)の間違いではないだろうか。ただし、三引とする場合、ここまで前進した時点で開戦の直前であり、殷署らは既に到着していたと見るべきだろう。
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関羽と対するに十分な兵力を得た徐晃は、頭の陣地を攻撃すると見せかけて敵を引きつけながら、四冢に戦力を集中する事でその突破を図った。
これは一会戦中の事であるので、「声を揚げた」とあっても、偽報を流したわけではなく、こちらの機動を悟られないように部隊を前面に展開する事で関羽の視界を遮り、頭への攻撃を派手なものとして注意を引きつけながら、予備となっていた徐晃の本隊が四冢に向かう、という形であろう。
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関羽は、徐晃の攻撃によって四冢に展開していた部隊が崩壊しかかっているのを確認すると、歩騎五千をを以って救援に現れたが、徐晃によって破られ敗走し、そのまま四冢より徐晃に戦列を突破され敗北した。
徐晃は関羽を撃破するとそのまま前進し、樊城の包囲陣地に攻撃をかけてこれを陥れ、見事、その包囲を解く事に成功した。
桓階伝、徐晃伝などに拠れば、関羽の戦力は大きく、徐晃の戦力は劣勢であり、その後の増援によっても、関羽を大きく上回るほどの戦力を得てはいないだろう。四冢に向かった関羽の部隊が歩騎五千という事を考えると、関羽は徐晃の陽動に引っかかり、予備の一部を頭の部隊の援護に投入してしまった可能性が高い。
また、関羽軍の一部には包囲を解かれる際に、漢水に追い落とされて死ぬ者も出た。
樊城の包囲は解かれても、未だ漢水を関羽の船団が占拠し、襄陽の包囲は続行されていたので、徐晃の攻撃による被害は、そこまで甚大なものではないと考えられるだろう。

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215年 宕渠の戦い

今回は漢中攻略戦の前哨戦ともいえる、宕渠の戦いについて述べる。この戦いを考える事によって、剣閣が突破された後に行われた、鍾会による姜維包囲作戦について、何らかの示唆を得られるかもしれない。

戦役の推移

全般状況
まず、この戦役の行われた直前の状況について考えてみる。

この宕渠の戦いは、劉備が益州を獲り、曹操が漢中を降した後、215年11月に行われた。
この頃蜀では、荊州を巡る呉との争いが再燃し、劉備自ら5万を率いて長江を降り公安に入るという事態となっていた。但し、三国志魏書武帝紀、呉書孫権伝、呂蒙伝などの記述から、孫権が合肥に出た8月には集結しているはずなので、少なくとも益州に劉備が不在だったという事は無い。

張郃の撤退と曹操の漢中からの帰還のタイミングの違いは分からないが、夏侯淵が漢中にあり、張郃が巴西に入り、蜀側では張飛が巴西に屯し、劉備が公安より益州に帰還し江州に入っていたのは間違いないだろう。

張郃派遣の理由は、(恐らく)既に徙民が決まっていた漢中の生産力を確保する為の、巴から漢中への徙民である。また、張郃派遣に先立って降伏していた、巴の蛮族である朴胡らの救援の意味もある。
武帝紀では張魯の降伏は11月の事とされているが、これは少し違うだろう。張魯は漢中より逃走する際に、朴胡らを頼ったのであるから、彼らが降伏した9月には、既に張魯降伏の意思は曹操に伝えられていたと考えられる。従って、11月と言うのは、実際に張魯が曹操を詣でた時を指しているに過ぎない。
これは、張郃の侵入が戦いの契機と考えられる事が多かったと思うが、実際そうではないだろう。先に動いたのは劉備か、或いはほぼ同時と考えられる。劉備はこの時、黄権の勧めに従い巴に入った張魯を出迎えるべく軍を繰り出している。この劉備の巴への侵入が、張郃の派遣を招いたのであろう。張郃の目的は、あくまで徙民と朴胡らの救援である、曹操に益州攻略の意思が無かった以上、劉備の進入がなければこれほど早くに張郃の南下は行われなかったであろう。

むしろ、巴西住民の漢中への徙民こそ従であり、主たる目的は朴胡らの救援であった可能性もある。劉備の攻勢で巴の維持が不可能になった為、巴の放棄と徙民が決定されたのかもしれない。
武帝紀の、「遂に巴中を拠した」という記述からも、この戦いによって劉備が巴より朴胡らを一掃した事が窺える。

宕渠の戦い
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張郃は米倉道より巴へ進入すると、徙民の為に軍を各地に分遣しつつ、宕渠へと軍を進めて劉備に備えた。劉備は張飛に命じて巴西より宕渠へと軍を進ませ、張郃を迎え撃たせた。
この軍の分遣には、徙民の他に、表向き朴胡らの救援に軍を動かしたように見せて、劉備を惑わす、という目論見もあったのかもしれない。
この戦いで劉備は江州より全く動いた様子が見られないが、理由はよく分からない。或いは、曹操が巴の放棄を決定しており、張郃の目的が徙民にあるという事を読みきれなかったのかもしれない。巴の各地で抵抗する朴胡らの蛮族への対処に軍を割かれたのか、張郃さえ破れば良いと考えて張飛の軍を増強するに留めたのか、或いはその両方か。
黄権伝には、張飛伝や先主伝に見られない朴胡と杜濩の撃破に関する記述がある事から、少なくとも、朴胡や杜濩を撃破するべく動いていたのは確かだろう。

張郃は宕渠より更に前進し、蒙頭、瓦口において張飛と対峙した。
この瓦口の辺りは、中国歴史地図集に拠れば、流江水と消水とが宕渠水に流れ込む地である。瓦「口」という名は、そういった意味もあったのかもしれない。
張郃は恐らく、左翼(西翼)を南北に走る山に、正面を東西に走る河川に依託し、敢えて前進せず、できるだけ多くの時間を稼ぐ為に防御を行ったのだろう。張飛伝に見える、対陣が五十日余りに及んだという記述からもそれが分かる。

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動いたのは張飛であった。張飛は精鋭1万を以って迂回を敢行し、張郃を撃破するべく機動を開始した。
この事の詳細は記されてはいないが、戦場が狭い山道になった事を考えると、宕渠より更に北に移り、漢昌の辺りになったと考えられる。恐らく張飛は、張郃が左翼を山地に依託し、防御の効果を倍加していた事を逆手に取ったのだろう。
張飛は東へ大きく迂回し、張郃と宣漢への間を断ち切ると共に、張郃の退路である米倉道への道、すなわち漢昌に到る道路を塞ぐ機動をとった。
迂回は敵軍を迂回する事で戦場を自身の都合の良い場所に移すと共に、敵に正面の転換を迫るものである。従って、奇襲同様その機動を秘匿できればできるほど、その効果は高まる。張郃が防御に用いていた山を逆に利用するとは、機動の秘匿に都合が良い、という意味である。
張郃は急ぎ撤退するも、狭隘な地形に拠り防御する張飛を破る事ができず、僅か十余人を率いて間道へ逃げ、南鄭へと帰っていった。
わざわざ狭隘な地形によって戦力差を補ったという事は、張飛の軍勢はこの会戦の段階で1万より更に減っていた可能性もある。その場合、途上の宣漢の救援に軍を回し、張郃に巴での退避を許さなくさせた、という事だろう。
私見
張飛は大勝を博しているように見えるし、実際にもそうであろう。しかし、彼にも問題がないわけではない。
朴胡らが結局曹操の下へ逃げる事ができたのは王平伝に見え、張魯らも曹操に降っている。張飛が瓦口で徒に対峙を続ける間に、徙民も少なからず行われたはずである。
張郃は敗れたとは言え、その目的をある程度は達成しているのである。勝ったように見えて実は痛みわけだった、この後、劉備が夏侯淵よりも張郃を重視したのは、この戦いに起因しているのだろう。大胆に前進する張郃に惑わされ、その意図が巴の維持ではなく、その放棄と徙民にあった事に気付くのに時間を要してしまったという事が、劉備をして張郃を恐れさせる結果になったと考えられる。

とは言え、張郃が失った軍勢もまた少なくない。やはりこの戦いにおいては、張飛をこそ褒めるべきであろう。

追記(2007年9月20日)

華陽国志は巴志にばかり気をとられ、劉先主志の確認を怠っていた事に気付いたので、これを確認したところ、この宕渠の戦いについても記述があった。

そこでは、劉備は張飛を蒙頭へ派遣したのではなく、自ら張飛らを率いて蒙頭まで進出して張郃を防ぎとめている。張飛が担ったのは迂回だけであった。
また、張飛が張郃を破った場所も、「陽石」と明記されている。

確かに、劉備は江州に留まっていたとするよりも、自ら蒙頭まで進出したと考えた方が、状況を考えれば自然である。
陽石に関しては、現在場所を把握できていないが、この場所によっては、内容が大きく変わる可能性もあるだろう。

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234年 合肥新城包囲

今回は、諸葛亮の第五次北伐(234年)と呼応する形で行われた呉の北進について考える。

これは、10万と号する孫権率いる主力と共に、陸遜、諸葛瑾らが襄陽、江夏方面に、孫韶、張承らが広陵、淮陽に出る、というものであった。
陸遜伝では、諸葛瑾と共に襄陽に出た事を嘉禾五年(236年)の事としているが、魏書明帝紀や、満寵など関連人物の伝、呉書の孫権伝等と照らし合わせると、嘉禾三年(234年)すなわちこの時の事とするのが良いだろう。
陸遜、孫韶らはそれぞれ1万程度の戦力を率いていた事が、明帝紀に見える。孫権は号10万であるが、これは実数ではないだろう。恐らく半分の5万ほどだったと考えられる。総勢は精々6,7万であり、あまり大きな戦力を動員していなかった事が窺える。これは恐らく、襄陽、淮陽の二方面が陽動であり、あくまで合肥方面を主攻とした為、陽動となる方面には戦力節約の為大動員をかけなかったからであろう。合肥方面の5万というのは、これ以降も、呉が攻勢をかける場合に動員する戦力とほぼ同じであり、一方面で動かせる戦力の上限がこの程度だったのだろう。また、モルトケの言葉に、一人の司令官が率いる事のできる戦力は5万程度である、というものがあり、一方面に一司令官(今回であれば孫権)しか置かないのであれば、これ以上の動員は無理だろう。
曹叡にあっさりと主攻を見抜かれ、合肥方面が容易く防がれた事を考えると、この戦力の節約は失敗だったと言えよう。

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孫権は10万と号する軍勢を船に乗せ、東興を経て巣湖へと進み、合肥新城へと向かった。234年5月の事である。
孫権は229年に東興に堤を築いていたが、合肥へ進行するに伴いこれを壊し、以後、合肥方面へ出る時は船団によって、巣湖を経由して前進していた。
当時寿春に鎮していた征東将軍都督揚州諸軍事満寵は、合肥新城の防備を引き払い、寿春にて敵を待ち受けん事を願ったが、明帝はそれを許さず、あくまで合肥にて敵を迎撃するよう詔勅を下した。
国土は戦闘力を培い、絶えず生産するが、戦争の勝敗が決するような短い期間においては、国土の喪失は戦闘力の著しい弱化を招くものではない。しかし戦闘力が完全に打倒されてしまえば、それは取りも直さず防衛が不可能になるという事になり、国土の喪失を招く。故に、時として、我が戦闘力を保全できるのであれば、国土を一時的に敵手に委ねたとしても勝利を手にする事ができる。満寵の計画の真意もそこにある。敵軍を国土深くに招き寄せる、いわゆる内地へ向けた退却は、その効果について幾度も述べているので、ここでは省略する。
満寵は詔勅を受け、今度は諸軍を率いて合肥の救援に向かわんと欲したが、汝南太守田豫は「諸軍を率いて救援に向かうのは呉軍の計略に乗る事となり危険である。今は進むに任せ、敵が撤退する時になってから救援の軍を出し、疲弊した所を破るべきである。」と進言し、それを明帝に報告すると、明帝は田豫の策を採った。
汝南は豫州である。当時の豫州諸軍事は恐らく趙儼であるが、田豫はこの戦役において満寵の麾下に入っていたような記述がされている。この戦役の前に、合肥へ向かわんと声を揚げた孫権に対し、満寵が揚州だけでなく豫州、兗州の軍を集結する事で意気を挫いたという記述がある。満寵は揚州諸軍事でありながら、豫州、兗州にも指揮権を持っていたという事であろうか?
満寵は大軍を以って救援する事は叶わなくなったものの、合肥を救援する志は潰えておらず、少数の部隊を引き連れて合肥へと急いだ。満寵は合肥へと到着すると、数十名の奇襲部隊を繰り出して呉軍に焼き討ちを掛け、その攻城兵器の類を大いに焼き払い、また、孫権の甥の孫泰を射殺した。
当時、合肥新城は張穎が防御していたが、この戦力は、後の諸葛恪による合肥新城の包囲において守将の張特が僅か3千の兵しか擁していなかった事を考えると、この時の張穎も数千を超える兵を指揮してはいなかっただろう。満寵の救援が無ければ、良くても城中の兵の多くは死に、危機に晒されたであろうし、最悪、城が陥落していた可能性もあっただろう。満寵の働きは小さくは無い。

孫権は攻城兵器を焼かれた為に新城を強力に攻撃する事ができず、また、洛陽を出発した明帝率いる大軍が到着しつつあった為、兵を纏め帰還した。
またこの時、連携して攻勢に出ていた陸遜らとの連絡に用いていた伝令が敵に捕えられている。その事も、孫権撤退の一因となっているだろう。

孫権は、淮南に進出する際は必ず合肥に出ていたが、後年、その状況は少し変わってくる。
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毋丘倹の乱に呼応した孫峻の北上は、鑊里、橐皋を経由して合肥を迂回し、或いは監視しながら、直接寿春へと迫っている。諸葛誕の乱でも、孫綝は同様の道を通って寿春への前進を行っている。
従って、少なくともその頃には、合肥は迂回可能な拠点であり、強行に攻略を推し進める場所ではなくなっていた事になる。
但し、呉軍が合肥新城に駐屯した記述は無く、合肥が呉の手に落ちたという事は無かっただろう。
この、前進経路が変化した理由に、東興隄の再建という事があるだろう。東興隄が再び築かれた為、巣湖に船を入れることができず、陸路で合肥、或いは寿春へ向かう必要が生じた、という事であろう。

また、先ほどの張特の件から、合肥に恒常的に駐屯していた戦力は万を越える事は無かったと推測できる。数千規模の戦力のみで、しかも機動戦力として用いる事の困難な要塞守備隊のみの駐屯という事ならば、孫峻や孫綝が行ったように、合肥を迂回して寿春に迫る事は、そう困難でなかったと考えられる。翻って215年の合肥攻撃を考えてみると、この時も張遼や楽進が率いていたのは総勢数千である。従って、三国時代全体を通して、合肥に駐屯した戦力は大きくは変わらないと考えられるだろう。
そう考えるならば、孫権も合肥を力攻めする必要は無く、迂回して寿春へ向かう事もできたはずである。それを行わなかったのは、恐らく、前進による弱化の防止と、自らの選定した戦場で敵を待ち受ける有利の享受が理由だったと考えられる。

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漢中攻略戦 補足

以前漢中攻略戦について述べた時に、夏侯淵の武都方面への前進意図を、劉備の陽動に引っかかった夏侯淵の不明に求めたが、それが必然的な結果であった事を、今ここで示す。

三国志魏書杜襲伝には、曹操が杜襲に漢中の軍事を督させた時、その民八万余口を洛陽と鄴に徙させた事が書かれている。これは夏侯淵の敗死する前の事であるし、徙民を行うにはある程度の期間が必要であり、敵の攻撃晒されている中で行い得る事ではない為、劉備の北上に先立って行われた可能性が高いだろう。

八万余口と言うのは、晋代の漢中の口数に匹敵する、従って、この杜襲の徙民によって、漢中は既に空っぽになっていた。魏や張魯が戸籍として把握し切れていなかった民は存在していただろうが、戸籍上、漢中の人口は殆ど0に近かっただろう。
民が居ないという事は、そこから生産は生じないのであり、南鄭などに予め集積してあった物資を消費するか、後方より輸送されてくる物資を用いるかしか、軍隊を維持する方法は無い。張郃が巴を攻撃して民を移住させたものの、その数はたかが知れており、漢中の生産力が著しく低下していた事に変わりはない。
その証左として、蜀書周羣伝にも、劉備が漢中の土地は手に入れても、人は手に入らなかった事が記されている。

漢中の軍の維持において、後方からの輸送が重要性を高めていたという事は、物資輸送に用いるのに最も適した道路である故道と、その途中にあって一定の生産力のある武都郡の維持は、漢中の維持をも左右する重要な問題であったと考えて良い。
劉備の北上から曹操の漢中到着まで1年以上の月日を要している、とすれば、秦嶺を越える形の支援正面を漢中に展開する為には、少なくともそれに準ずる期間を要するだろう。
そもそも曹操すら、秦嶺を越える、桟道を用いた兵站は確立しなかった可能性もある。彼は斜谷より漢中に入り、陽平に駐屯している。従って、劉備が北上してから曹操が撤退するまで、魏の漢中における最重要拠点は陽平なのであり、武都を経由した輸送に依存していた可能性が高い。
1年もの期間を、物資の補給が遮断された形で、数万もの軍が漢中で存在し続けられるとは考えにくい。従って、劉備が関城に入り、武都への前進を―例えそれが陽動だとしても―行った場合、夏侯淵は、武都を救援する為に陽平に入らざるを得なくなる。劉備が北上する以前より、魏にとって、南鄭を守る事よりも、陽平以北を守る事の方が重要な事だったのである。


解せないのは曹操の考えである。徙民は恐らく曹操の意図であろう。曹操の行った徙民が、夏侯淵をして陽平に入らせる事となり、それが劉備の漢中侵入を成功させ、結局曹操は、夏侯淵の死と漢中の放棄という結果を受け入れざるを得なくなった。
漢中を維持する気があったのなら、徙民など行わないほうが良かったし、漢中を捨てる気であったのなら、早々に夏侯淵を漢中から撤退させるべきであった。徒に漢中の生産力を低下させ、漢中の防衛を不可能なものにするような戦略状況を作り出し、それでいて未練がましく漢中まで出兵する。彼の行動は実にちぐはぐであった。
「漢中の司令官が夏侯淵でなく韓浩であったなら…」という意見も無意味なものである。徙民を行った時点で、劉備より漢中を守りきる事は不可能であったと見て良い。そしてその原因を作り出したのは、他でもない曹操その人なのである。

だが一方で、曹操にも徙民を行わざるを得ない理由もあった。漢中は長く張魯に支配下にあり、その住民には五斗米道が染み付いてた。従って、漢中の住民と張魯とを切り離さなければ、例え張魯が服しているとは言え、油断できないのである。この一見すると意図が不明な徙民は、その民と五斗米道とを切り離す為の処置だったのだろう。
曹操にとっての不幸は、漢中が宗教によって支配されていた事だろう。

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212年? 関羽の北進

今回もむじんさんのブログでの議論をもとに述べる。

三国志蜀書先主伝において、劉備は劉璋に支援を要求する際、「関羽が青泥で楽進と対峙している」と述べている。また、楽進伝においても、赤壁の戦いの後、関羽と楽進の間で軍事的衝突があった事が述べられている。
この衝突は、赤壁の戦い〜楽進の合肥駐屯までに行われた出来事である。文聘伝の尋口の戦いと同時期、或いは同じものと考えれば、文聘の江夏太守就任後であるので、赤壁の戦いで曹操が敗れた後の事となる。
楽進の合肥駐屯が212年冬〜213年の濡須攻撃の直後だとすれば、212年内には、この戦役は終結している。

開戦までの状況

先主伝における劉備の発言がブラフであるとも考えられるが、何の根拠もないでたらめとも考えにくい。劉備の発言の頃には終息していたとしても、彼の益州入りから葭萌での反転までの間に、関羽と楽進の対峙があったと考えるのが妥当だろう。
従って、この戦役の時期は、211年か212年という事になる。
劉備が益州入りしてからの事とすると、荊州に残った諸軍は近い内に益州で作戦しなければならない為、軽々しく大規模な行動を起こせない。とすると、この北進は関羽らの方から仕掛けたものである可能性は低い。
劉備が益州に入ってからも行動を開始することを躊躇していたのは、荊州での曹操軍の圧力が弱まらず、そこから大軍を送り込めそうにない為、手勢1万と劉璋から借りた兵のみで当たる事になるのを憂慮しての事かもしれない。曹操の濡須攻撃は、間接的に劉備を支援した事になろう。
また、楽進は(恐らく)尋口で文聘と共に関羽を破った後、荊州南郡の諸蛮族を降し、劉備の任命した臨沮県長杜普、旌陽県長梁大を破っている。この事から、関羽の北進に呼応して荊州の諸蛮族が蜂起したか、そうでなくとも関羽に対して友好的なスタンスを採っていた事が分かる。
この蛮族は、柤中近辺の蛮族であろう。
関羽らが積極的に攻勢に出た可能性が低い事、荊州南郡の諸蛮族が関羽らに対して友好的だった事を考えると、この北進は、もともと南郡の諸蛮族が曹操勢力に対して反抗し、それを支援する形で関羽が北上した、と見た方が良いだろう。
また、突発的な事であり、入念な準備のもとに行われたわけではないので、関羽軍の規模もそれほど大きくないと考えられる。

臨沮と旌陽の県長任命が、この北進と時を同じくしての事なのか、或いはそれに先立っての事なのかは明記されていないが、王基伝注にある司馬彪の戦略に、襄陽から沮水に出る道の険しさが書かれており、 また、旌陽は江陵の近傍にあるので、北進に先立って二県は劉備勢力の手に落ちていたと考えられる。
従って、討たれた臨沮の県長と旌陽の県長は、臨沮県、旌陽県それぞれで討たれたのではなく、柤中蛮を支援する為に北上していた所を討たれた可能性もあろう。

戦役の推移

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関羽は、荊州の諸蛮族から劉備勢力に味方する旨を告げられた為、彼らを支援する為北上した。
関羽が前進に用いた道は分からない。臨沮県長らが柤中支援の為に北上するならば、関羽の方は主交通線である当陽経由の道、或いは漢水を遡る水路を用いたのかもしれない。
関羽は襄陽西北にある青泥まで進出すると、楽進が現れた為これと対峙した。
青泥は襄陽西北三十里(約12km)の地点にあるらしい。この機動は、漢水を渡河する為の迂回であった可能性がある。
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襄陽が関羽の圧迫を受けている事を知ると、江夏太守文聘は漢水の線まで進出して、関羽の後方を襲う姿勢を見せた。
江夏から出て襄陽を救う場合、直接襄陽に出るよりも、関羽の背後に迫った方が効果があると考えられる。無論、直接襄陽に向かった可能性もある。
この動きを受け、関羽は撤退を開始するが、楽進の追撃と、退路上の文聘に挟まれた為、尋口にて捕捉・攻撃され、撃ち破られて敗走した。
「張舜徽 主編,三国志辞典」によれば、尋口の位置は安陸の西南とある。しかしながら、この内容が何をもとにしてのものか不明な上、安陸西南では戦役の推移と合わず、且つ、河川の合流点を示すであろう地名とも合致しない。この場所については、調査と考察をよくする必要がある。
楽進は勝ちに乗じて、荊州南郡の諸蛮族を降し、更に杜普、梁大を討つと帰還の途に就いた。

私見

どうにも分らない事が多く、雲を掴むような感じである。

そもそも、尋口の戦いがこの時であったのかも分からないので、或いは、楽進が関羽を破った事と別々の戦役である可能性もある。

楽進伝には、関羽と共に蘇非という人物も敗れている。この蘇非が蘇飛と同一人物であるならば、これは孫家との共闘であった可能性もあり、そうなれば、この戦役は劉孫が連携し、自発的に仕掛けたものである可能性が高くなる。
或いは、蘇非が蘇飛と別人だったとしても、関羽が文聘の抑えとして派遣した別将の可能性もある。
何れにしても、記述に乏しくはっきりとした事は言えない。

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