姜維戦争前史-〜234年-
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215年 宕渠の戦い
234年 合肥新城包囲
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今回は、諸葛亮の第五次北伐(234年)と呼応する形で行われた呉の北進について考える。 これは、10万と号する孫権率いる主力と共に、陸遜、諸葛瑾らが襄陽、江夏方面に、孫韶、張承らが広陵、淮陽に出る、というものであった。 陸遜伝では、諸葛瑾と共に襄陽に出た事を嘉禾五年(236年)の事としているが、魏書明帝紀や、満寵など関連人物の伝、呉書の孫権伝等と照らし合わせると、嘉禾三年(234年)すなわちこの時の事とするのが良いだろう。陸遜、孫韶らはそれぞれ1万程度の戦力を率いていた事が、明帝紀に見える。孫権は号10万であるが、これは実数ではないだろう。恐らく半分の5万ほどだったと考えられる。総勢は精々6,7万であり、あまり大きな戦力を動員していなかった事が窺える。これは恐らく、襄陽、淮陽の二方面が陽動であり、あくまで合肥方面を主攻とした為、陽動となる方面には戦力節約の為大動員をかけなかったからであろう。合肥方面の5万というのは、これ以降も、呉が攻勢をかける場合に動員する戦力とほぼ同じであり、一方面で動かせる戦力の上限がこの程度だったのだろう。また、モルトケの言葉に、一人の司令官が率いる事のできる戦力は5万程度である、というものがあり、一方面に一司令官(今回であれば孫権)しか置かないのであれば、これ以上の動員は無理だろう。 曹叡にあっさりと主攻を見抜かれ、合肥方面が容易く防がれた事を考えると、この戦力の節約は失敗だったと言えよう。 孫権は10万と号する軍勢を船に乗せ、東興を経て巣湖へと進み、合肥新城へと向かった。234年5月の事である。 孫権は229年に東興に堤を築いていたが、合肥へ進行するに伴いこれを壊し、以後、合肥方面へ出る時は船団によって、巣湖を経由して前進していた。当時寿春に鎮していた征東将軍都督揚州諸軍事満寵は、合肥新城の防備を引き払い、寿春にて敵を待ち受けん事を願ったが、明帝はそれを許さず、あくまで合肥にて敵を迎撃するよう詔勅を下した。 国土は戦闘力を培い、絶えず生産するが、戦争の勝敗が決するような短い期間においては、国土の喪失は戦闘力の著しい弱化を招くものではない。しかし戦闘力が完全に打倒されてしまえば、それは取りも直さず防衛が不可能になるという事になり、国土の喪失を招く。故に、時として、我が戦闘力を保全できるのであれば、国土を一時的に敵手に委ねたとしても勝利を手にする事ができる。満寵の計画の真意もそこにある。敵軍を国土深くに招き寄せる、いわゆる内地へ向けた退却は、その効果について幾度も述べているので、ここでは省略する。満寵は詔勅を受け、今度は諸軍を率いて合肥の救援に向かわんと欲したが、汝南太守田豫は「諸軍を率いて救援に向かうのは呉軍の計略に乗る事となり危険である。今は進むに任せ、敵が撤退する時になってから救援の軍を出し、疲弊した所を破るべきである。」と進言し、それを明帝に報告すると、明帝は田豫の策を採った。 汝南は豫州である。当時の豫州諸軍事は恐らく趙儼であるが、田豫はこの戦役において満寵の麾下に入っていたような記述がされている。この戦役の前に、合肥へ向かわんと声を揚げた孫権に対し、満寵が揚州だけでなく豫州、兗州の軍を集結する事で意気を挫いたという記述がある。満寵は揚州諸軍事でありながら、豫州、兗州にも指揮権を持っていたという事であろうか?満寵は大軍を以って救援する事は叶わなくなったものの、合肥を救援する志は潰えておらず、少数の部隊を引き連れて合肥へと急いだ。満寵は合肥へと到着すると、数十名の奇襲部隊を繰り出して呉軍に焼き討ちを掛け、その攻城兵器の類を大いに焼き払い、また、孫権の甥の孫泰を射殺した。 当時、合肥新城は張穎が防御していたが、この戦力は、後の諸葛恪による合肥新城の包囲において守将の張特が僅か3千の兵しか擁していなかった事を考えると、この時の張穎も数千を超える兵を指揮してはいなかっただろう。満寵の救援が無ければ、良くても城中の兵の多くは死に、危機に晒されたであろうし、最悪、城が陥落していた可能性もあっただろう。満寵の働きは小さくは無い。 孫権は攻城兵器を焼かれた為に新城を強力に攻撃する事ができず、また、洛陽を出発した明帝率いる大軍が到着しつつあった為、兵を纏め帰還した。 またこの時、連携して攻勢に出ていた陸遜らとの連絡に用いていた伝令が敵に捕えられている。その事も、孫権撤退の一因となっているだろう。 孫権は、淮南に進出する際は必ず合肥に出ていたが、後年、その状況は少し変わってくる。 毋丘倹の乱に呼応した孫峻の北上は、鑊里、橐皋を経由して合肥を迂回し、或いは監視しながら、直接寿春へと迫っている。諸葛誕の乱でも、孫綝は同様の道を通って寿春への前進を行っている。 従って、少なくともその頃には、合肥は迂回可能な拠点であり、強行に攻略を推し進める場所ではなくなっていた事になる。 但し、呉軍が合肥新城に駐屯した記述は無く、合肥が呉の手に落ちたという事は無かっただろう。この、前進経路が変化した理由に、東興隄の再建という事があるだろう。東興隄が再び築かれた為、巣湖に船を入れることができず、陸路で合肥、或いは寿春へ向かう必要が生じた、という事であろう。 また、先ほどの張特の件から、合肥に恒常的に駐屯していた戦力は万を越える事は無かったと推測できる。数千規模の戦力のみで、しかも機動戦力として用いる事の困難な要塞守備隊のみの駐屯という事ならば、孫峻や孫綝が行ったように、合肥を迂回して寿春に迫る事は、そう困難でなかったと考えられる。翻って215年の合肥攻撃を考えてみると、この時も張遼や楽進が率いていたのは総勢数千である。従って、三国時代全体を通して、合肥に駐屯した戦力は大きくは変わらないと考えられるだろう。
そう考えるならば、孫権も合肥を力攻めする必要は無く、迂回して寿春へ向かう事もできたはずである。それを行わなかったのは、恐らく、前進による弱化の防止と、自らの選定した戦場で敵を待ち受ける有利の享受が理由だったと考えられる。 |
漢中攻略戦 補足
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以前漢中攻略戦について述べた時に、夏侯淵の武都方面への前進意図を、劉備の陽動に引っかかった夏侯淵の不明に求めたが、それが必然的な結果であった事を、今ここで示す。 三国志魏書杜襲伝には、曹操が杜襲に漢中の軍事を督させた時、その民八万余口を洛陽と鄴に徙させた事が書かれている。これは夏侯淵の敗死する前の事であるし、徙民を行うにはある程度の期間が必要であり、敵の攻撃晒されている中で行い得る事ではない為、劉備の北上に先立って行われた可能性が高いだろう。 八万余口と言うのは、晋代の漢中の口数に匹敵する、従って、この杜襲の徙民によって、漢中は既に空っぽになっていた。魏や張魯が戸籍として把握し切れていなかった民は存在していただろうが、戸籍上、漢中の人口は殆ど0に近かっただろう。 民が居ないという事は、そこから生産は生じないのであり、南鄭などに予め集積してあった物資を消費するか、後方より輸送されてくる物資を用いるかしか、軍隊を維持する方法は無い。張郃が巴を攻撃して民を移住させたものの、その数はたかが知れており、漢中の生産力が著しく低下していた事に変わりはない。 その証左として、蜀書周羣伝にも、劉備が漢中の土地は手に入れても、人は手に入らなかった事が記されている。 漢中の軍の維持において、後方からの輸送が重要性を高めていたという事は、物資輸送に用いるのに最も適した道路である故道と、その途中にあって一定の生産力のある武都郡の維持は、漢中の維持をも左右する重要な問題であったと考えて良い。 劉備の北上から曹操の漢中到着まで1年以上の月日を要している、とすれば、秦嶺を越える形の支援正面を漢中に展開する為には、少なくともそれに準ずる期間を要するだろう。 そもそも曹操すら、秦嶺を越える、桟道を用いた兵站は確立しなかった可能性もある。彼は斜谷より漢中に入り、陽平に駐屯している。従って、劉備が北上してから曹操が撤退するまで、魏の漢中における最重要拠点は陽平なのであり、武都を経由した輸送に依存していた可能性が高い。1年もの期間を、物資の補給が遮断された形で、数万もの軍が漢中で存在し続けられるとは考えにくい。従って、劉備が関城に入り、武都への前進を―例えそれが陽動だとしても―行った場合、夏侯淵は、武都を救援する為に陽平に入らざるを得なくなる。劉備が北上する以前より、魏にとって、南鄭を守る事よりも、陽平以北を守る事の方が重要な事だったのである。 解せないのは曹操の考えである。徙民は恐らく曹操の意図であろう。曹操の行った徙民が、夏侯淵をして陽平に入らせる事となり、それが劉備の漢中侵入を成功させ、結局曹操は、夏侯淵の死と漢中の放棄という結果を受け入れざるを得なくなった。 漢中を維持する気があったのなら、徙民など行わないほうが良かったし、漢中を捨てる気であったのなら、早々に夏侯淵を漢中から撤退させるべきであった。徒に漢中の生産力を低下させ、漢中の防衛を不可能なものにするような戦略状況を作り出し、それでいて未練がましく漢中まで出兵する。彼の行動は実にちぐはぐであった。 「漢中の司令官が夏侯淵でなく韓浩であったなら…」という意見も無意味なものである。徙民を行った時点で、劉備より漢中を守りきる事は不可能であったと見て良い。そしてその原因を作り出したのは、他でもない曹操その人なのである。 だが一方で、曹操にも徙民を行わざるを得ない理由もあった。漢中は長く張魯に支配下にあり、その住民には五斗米道が染み付いてた。従って、漢中の住民と張魯とを切り離さなければ、例え張魯が服しているとは言え、油断できないのである。この一見すると意図が不明な徙民は、その民と五斗米道とを切り離す為の処置だったのだろう。
曹操にとっての不幸は、漢中が宗教によって支配されていた事だろう。 |




