無題
布教の形。 よく来るキリスト教の、或る宗派の訪問には辟易する。
何故なら、聖書を片手に説教する形でやってくるからだ。
聖書をヌット目の前に突きつけて、ひとつの項目を
読み上げ、「どうだ!」と言わんばっかりに話を始める。
大体、布教をするなら、説教する項目を記憶してから
来るべきではないのか?
いちいちチページを繰って、文章を示して説明するのは
聖書に依存している姿を如実に示しており、自信のない
信仰心を表している。
それは、「錦の御旗」を先頭に進んだ明治維新の官軍のようだ。
信仰は、聖書を掲げて威張り散らすことではない。
聖書の意を戴して、その本意を咀嚼理解して説明する
ことではないのか?
私は、聖書にある「あらゆるものには時がある。殺すにも
時がある。」などという言葉に反発する。
そして、このようなとき反対質問をするが、的確な回答を
得たことがない。
|