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桑田、清原のPL打ち破った石田さん(横浜打撃投手)亡くなる・・・

この試合は確か延長戦で満塁弾を打たれPLが負けた?(間違ってないかな?)
KKコンビのファンだったのでショックな試合だったのを覚えています。

高校野球を好きで見てた時代にKKコンビがでてきて楽しませてくれたのが印象的。それに勝った取手二高石田、伊野商の渡辺智は凄いと思いました。
プロに入りあまり活躍は出来なかったようですが、打撃投手として頑張っていたようです。
とても残念でありません!ご冥福を祈ります。
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「桑田さん・清原 最強のライバル・石田さん死去に大きなショック」

 1984年夏の甲子園で優勝した取手二高(茨城)のエースで、大洋、横浜で活躍した石田文樹(いしだ・ふみき)現横浜打撃投手が15日、直腸がんのため横浜市内の病院で亡くなった。41歳だった。石田さんは、2年生エースの桑田真澄(現スポーツ報知評論家)、4番の清原和博(現オリックス)を中心に当時、高校野球史上最強とうたわれたPL学園を相手に決勝戦で好投。延長戦の末、県勢初の全国制覇を達成した。KKは3度出場した夏の甲子園で、一度だけ敗れた相手である石田さんの早すぎる死に大きなショックを受けた。

 あまりのショックに、つかの間、言葉を失った。桑田さんは、石田さんの訃報(ふほう)を耳にすると「そんな…」とつぶやいたまま、下を向いた。「早すぎる。本当に(病気は)怖い」

 1週間ほど前に知人から、石田さんが病床での生活を強いられていることを知らされた。今週中にお見舞いに行くつもりだったが、再会を果たすことができないまま訃報が届いた。

 石田さんとの思い出は、オリックス・清原と共に「KKコンビ」として活躍したPL学園時代にさかのぼる。1984年夏には、石田さんを擁する取手二高に、決勝で敗れた。「横浜で打撃投手をなさっていた時に“お前は(現役生活が)長いな”と声をかけていただいたり、お互いに高校時代を懐かしがったりしたんです」桑田さんは、石田さんの笑顔を思い出し、改めて死を悼んだ。

 KKは春夏通算5度も甲子園に出場。その間、深紅の大優勝旗を2度、手にしており、夏の甲子園で唯一、負けた相手が石田さんだった。それだけに清原にとっても石田さんは、忘れることのできない人だ。「石田さんと対戦したことを昨日のように覚えています。一度もゆっくりお話ししたことはありませんが、いつも心は通じ合えていたと思っております」とショックをこらえつつ思い出に浸った。

 「対戦した投手の中で、プロ野球を含めて数少ない心に残る投手でした。打撃投手になられても、横浜の4番打者(相手)に投げるなど、打撃投手でもエースでした。4番打者に投げるのがエースです」清原は、偉大な先輩へ最大級の賛辞を贈って、故人をしのんだ。


「桑田・清原を倒した男…石田大也さん早すぎる死」

 横浜打撃投手の石田大也(いしだ・ともや、本名・石田文樹=いしだ・ふみき)さんが15日午前1時40分、直腸がんのため横浜市内の病院で亡くなった。41歳だった。取手二高時代の1984年、夏の甲子園決勝でPL学園高2年の桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」を破り、日本一に輝いた“甲子園のヒーロー”の早すぎる死に、恩師は悲しみにくれた。

 「具合が悪いとは聞いていたが、こんなに早いとは思わなかったので、悔しい思いです。今日は試合ですが、まったく気分が乗りません。今日、朝、起きるのも辛かったです」

 恩師の木内幸男常総学院監督は16日午前、茨城県予選3回戦に臨む土浦市営球場で、教え子の早世を悼んだ。

 石田さんとは年に1回、4月3日に取手二高OBのゴルフ会があり、そこで顔合わせてきたが、今年は天候の都合で中止になり会えなかった。

 「体調が悪いという話を聞き、1カ月ほど前に見舞いに行く予定でしたが、急用で行けなくなってしまい、見舞いの品だけ届けました。すると翌日、電話があり、『大丈夫ですから、ありがとうございました』と元気そうな張りのある声でした。そこで噂ほどではないと安心したのですが、見舞いに行った人からの話だと、ベッドからは全く起きられなかったということです」

 取手二高の3年生の夏は、実は石田さんは肩が痛くて、全く投げられなかったという。試合もほとんど出られず、それでも練習だけは続けていた。甲子園入りしても練習禁止を命じ、しばらく休むと肩の調子が奇跡的に元に戻った。「エースの石田が投げられるという喜びで、チームが一丸となった。石田に勝たせてもらった甲子園でした」と振り返った。

 石田さんは茨城県出身。木内監督率いる取手二高では甲子園に春夏3回出場し、3年の夏、決勝でPLと対戦。8−4で初優勝し、茨城初の優勝旗を持ち帰った。秋の国体でも優勝し、負けなしで卒業した。

 翌年、大物ルーキーと期待され早大教育学部に進学。秋季戦から出場を期待されたが、前期試験の休みが明けた7月ごろから練習を休みはじめ、秋のシーズン中に帰省。86年1月、早大を中退して日本石油(現・新日本石油)に入社した。

 88年、大洋(現・横浜)にドラフト5位で入団し、6年間で1勝0敗の成績。94年の戦力外通告後も、打撃投手として横浜一筋に活躍。制球力の高さを買われ、主力相手に投げることが多かった。今年3月のオープン戦期間中に直腸がんが判明し、4月に摘出手術。週1回の抗がん剤治療を続けながら現場復帰を願い続けていたが、すでに転移は進行していた。
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15日未明に直腸がんで亡くなった元横浜投手の石田文樹さんは、プロでは25試合に投げて1勝と、大成はできなかった。しかし、1984年夏の高校野球で茨城・取手二高のエースとして全国制覇を果たした雄姿は、野球ファンに鮮烈な記憶を残した。
 木内幸男監督に率いられたチームは、伸び伸びとしたプレーを展開。桑田真澄、清原和博を擁し、圧倒的な力を誇っていた大阪・PL学園を、決勝で8−4(延長10回)と打ち破った。まな弟子の悲報に、木内さんは「悔しい気持ちでいっぱいです」と肩を落とした。
 現役引退後は打撃投手としてチームを支えた。今春のキャンプ中に体調を崩し、手術を受けて復帰を目指していた。同期入団で親しかった石井琢は「チームのために頑張ってくれていた。つらい」と沈痛な面持ち。横浜はその死を悼み、15日の広島戦(横浜)で喪章をつけてプレーした。

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いつもお世話になっている者です。
まだ小学生だった昭和58年夏、親の母校が全国大会で勝ち進み、地元は盛り上がっていた時に、決勝で1年生のKKコンビ率いるPLに負けてしまいました。。アポロさんには申し訳ないですが以来、私はアンチPL(KKコンビ)なんです。なので翌年、このPLを破った取手二高を讃えたものです(苦笑)
この前、新聞神奈川県版の高校野球特集の記事で、石田選手の息子さんが県予選に出ていたそうで、一部そのエピソードが載っていました。

高校野球も全代表校が出揃いましたが、実は4年前に非常勤講師をした学校が、このたび出場する事になりました!急病の代講ゆえ、半年くらいしか居なかったのですが(^^;
ちなみに講師仲間の1人は、現任高が春に引き続き出場が決まり喜んでいます。

2008/7/30(水) 午前 1:00 [ kou*h*_h*_tsur*iy* ]

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コメントありがとうございます。息子さんが涙を流してましたね。
年齢が近いのもあって残念でなりません。

2008/7/31(木) 午後 8:36 [ aporo34gou ]

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