指導力問題
権力の介入による他者排斥の企早稲田大学の研究紀要を見ていて、上野昌之氏の「近代アイヌ差別の発生についての研究」が目にとまった。
「差別が実体化するには段階的な構造化が行われる。民族的または人種的な差別の場合、差異にもとづく他者認識の変化が差別に大きく影響しているものと考えられる。 まず、差異により自他の識別が行われる段階がある。個別的なかかわりのもとで差異を好奇な目で見、視覚的に顕著な特性をクローズアップするのものである。奇異な視線で眺望するものであり、いちがいに差別性を伴うものとは言えない。次に異質なものと認識する段階がある。自他を対比し他者の質的な異なりを問題視し異端とする。 さらに次段階へ進むと差異を動員し他者の異質性を価値づけていく。異端視される他者は優劣により価値づけられる。ここにおいては権力が介入し、劣等に位置づけられた他者を蔑み、攻撃の対象とする。自らの優越が確信され、他者を差別し犠牲にすることにより自己正当性は強化される。差別は自らの優越性を確認し利益を得る行為ゆえ、他者の存在を否定し排除することが目的化される。他者の抹消が目論まれることにもなる。」 上野氏は、差別をこのように発生すると説く。彼はアイヌ差別を時代を追って考察し、次のように結論を結んでいく。 「差異には本来それ自体差別性はない。しかし差異を手段化することで差別は生み出される。ある集団が擬集力を高め、構成員の結束を求める時、特定のカテゴリーに属するものを排除することで、その目的を図ることがある。差異に伴う偏見を助長し組織化させることで、差異に意味づけを行い、特別に忌み嫌うものに変化させ、差異を持つものを排除、攻撃の対象とする。言い換えるならば差別の対象とするのである。」 〜人種差別は人種間の差異を取り上げ、一方的に他者に否定的な価値づけをおこない、自己の利益を求める行為である。これは人種間にとどまらず、他のカテゴリーの差別に対しても当てはまることである。 理由づける差異は必ずしも現実のものである必要はなく、他者を否定的に扱うものならばかまわないのである。自己の利益のために行われる他者に対する攻撃は暴力性を伴うものである。他者の存在の否定・排除が行われることになる。 否定的に価値付けられた差異は、差別者の意図を離れ、それ自体が差別の要件になる。 つまり差異が被差別者の属性とされ、被差別者はアプリオリに差別される存在となる。アイヌが民族的差異をもとに差別される構造はここにある。 人種的な差異は些細なものであるにもかかわらず、大事として作り上げられていく。他の動員された差異も差別をするために持ち込まれた差異にすぎないものである。そして、差別が作られるのは、その差別という排除に何らかの目的があり、それにより差別するものが利益を得ることができるためである。アイヌを差別することによる利益とは国民国家建設、つまり近代日本が天皇を頂点としたヒエラルキーを保持し、常に野蛮を意識することで、限りない文明化を推進することであった。アイヌという明らかな他者を作り出すことで、他者ではない”われわれ”という 意識を高揚させ日本という近代国家建設をおこなったのである。 換言すれば、アイヌにおける差別性とは近代日本国建設に付随したスティグマと考えられる。権力の介入による他者排斥の企図により、劣等に位置づけられた他者を蔑み、攻撃の対象とするようになる。 読んでいて、つくづく「指導不足教員」のシステムとだぶるものがあるな、と思った。実際、対象教員を教師集団や教委の中においても、差異はそれほどある訳ではない。結果として判定は、集団から忌み嫌われ攻撃の対象とされ、存在を否定・末梢される事において、上記のような差別と何ら変わらない。この制度で利益を得ているものとは、教委・管理職という輩である。他者を貶めて自分達が高揚できると考える者がいたのだと思う。権力を振るう教委の部長あたりが最も悪質である。そして今の日本では元々被差別者であったBKあたり、あるいは団体と言われる組合あたりが画策して権力を持とうとし、公権力に圧力を加えることがある。市内学校・教委の対面保持の為に、危険な対象者を隔離して、全体の存在の安全を図る為に、この制度は発動される。危険と思われた私自身にも大きな責任があったとはいえ、事の発端は私の場合喘息と風邪を患って異常な状態で勤務していた事だった。加えて女管理職の執拗な妨害と排斥もあった。直情的に物を言った事も災いした。いわば、私にとって、この制度はパワハラ以外の何物でもなかった。今になっても、あの学校では悪い噂をよく耳にする。あの学校では最近、保護者との関わりの中で辞職した教員までいる。
現在では、実際私の職場にあっても私という存在を抹消することにより、私の仕事の成果をかすめ取る主事がいた事を見ても、自分の利益の為に制度や犠牲者への評価を追認していくのである。一度このシステムにかかると、どれだけ頑張っても這い上がるのは困難である。それならそれで、権力や圧迫者に対して挑戦することも考えるが、差別者というのは被差別者の反抗を許さないものである。
最近、職場の女が口角泡を飛ばして私を侮蔑する。もう、その声を聞いただけで不愉快になるので同じ所にはいられない。A→Bならば、何故Bになったのか、Aについて色々考えるものであり、Aという差異を見つけてBだと確信していった様子がよく分かる。普通ならば許せても、BであればAが許せないのである。これは大変である。誰もが持っているAを除去する事など出来ない。
よく忍者の悲哀というものを自身にだぶらせて考えることがある。個人としては優れた忍者と並みの武士では忍者の方が強くても、存在としては忍者は日陰の存在でしかなく、表に出ることは決して許されない。IT技術や知識は忍者の技とは違うものであるが、高度なネット技術は素人から見れば魔術のように見えるもので戦国時代の忍者の技に共通したものがある。そういう技術・知識は教員の資質とは無縁のもので、教員としては評価されないものだ。戦闘に従事した武士にあっても、先鋭的な武術はことさら必要ではなく、むしろ、権力を持つ者として、それ以外の多様な資質が要求される。
先週の大河ドラマで貴族が平氏に向かって言う言葉も胸にこたえた。
「たかが武士ふぜいの出来る事など限られたものだということを思い知れ!」
権力を持った者は相手を支配する為に、他者の力を制限するのである。市役所職員であれば、役職・予算権などが権力の属性になっている。加えて情報の掌握もそうだろう。ところが、HPの重要機密を私が握っている為に、不愉快と危機感を感じている者がいることは確かである。加えて、いくら予算編成に関わろうとも、実際に公金を運用配分していくのは骨の折れる仕事なので、私に仕事が回ってくるので外から見れば私が完全に運用しているように見えてしまう。ここに私が在職していると、たえず情報の主導権・権力争いが生じることは間違いない。彼らは私を排除・否定・無視したいのであり、用無しにして追い出したいのである。
時々、新聞でも公務員の不祥事が目に止まることがある。私的に資金を活用して公務に使った事で、たかが1000円の金でも処罰される。何故、予算要求しなかったのかが問われるのである。が、日ごろから予算編成で仲間に入れられていない場合は、そうするしかない場合もあるのだ。
私なども、そういう失態をするように仕組まれているような気がするから、業務の中では注意している。
自分達は他人の印鑑を無断で使うくせに、他人が起案をせずに活動することには目くじらを立てる。これはもう、食うか食われるかの戦いである。しかし、日頃から仲間に入れていない者が出来る事は、摩訶不思議な方法でたぶらかす事しかないような気がする。彼らが大きな予算で権力を持とうとするなら、その予算の決議を阻止するしかない。 |
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