アダージョ 神々の黄昏
すこし仕事が忙しくなって心が何かぎすぎすしてくる。そんなときすごく聞きたくなるクラシックがある。
いえね、ぴんが深い瞑想に入るときに一番心に含むような心地いい音楽が『アルビノーニのアダージョ』なんだよね。
音楽の中に埋没してもいけないけれど、自分の心の爆流たる、止まらざる思想(おもいふけること)にながされてもいけないんだ。
ただただ、清い旋律に巻かれるように感応すれば、私の中の私に元から備わる神妙のエッセンスが引き出されるように、私自身にしまい込まれた引き出しから、汲めど尽きない愛のエッセンスがズラズラズラーっと、流れ出してくるんです。
人がインターフェイスのようになって、宇宙と地球につながれたパイプのようにこの世の存在がぐるぐると環流してるのを、時々は、こうして、ボクの体を振るわせ、ひとしずくの涙をもって教えてくれます。
人の感涙は何も感情が死に絶えたような魂の静寂の時に、驚くほどの涙を引き出すんだよね。それは、あたかも、人の暖かさも生きている喜びさえも消し去った白い雪原に顔をのぞかせる植物のつぼみに似ているね。
これを世界の春と教えはしないものを、人は魂を律動させてこの天然自然の実に遅々とした生命の音曲(おんぎょく)を喜びの予感と知るのです。
人いがいの、ガイアの生きとし生けるものは、神々の愛を受けて、人に寄り添生きることで自らの幸福を築いている。だから、ヒトを幸福にしようと想っているのです。その愛と美貌のマドンナの宝石を人は汚すことで、今、せめられているのです。
『生きる喜びは人の喜び』というように、見えにくいこの世の白い世界に平和と静かなる愛と、穏やかに・・・・そしてゆるやかに・・・・
天然自然の神々の時間のように、わたくしと私の隣人の境界を流れゆく神々達のアダージョよ
このたそがれゆくしじまの中で神々のアダージョに私はゆっくりと包まれていきます。
人もまた、愛の支え無き人生を歩むことなど、出来はしないのです
草花がなぜ人に愛されるのか? それは、人に幸福と安らぎを与えたいと望んで生まれてくるから。人に寄り添うことで幸福にいたる生き物たちを人は無視してはならない
ああ神々の黄昏、神々のアダージョは、こんなにも激しく愛の情熱をほとばしらせるのか、山本陽子さんの歌声を聞いていると人にまつわる生き死もまた、音楽の旋律なのだろうと感じます。
赤ちゃん誕生にとってもまた妙なる生命の音曲を発して知らしめるんです。その、麗しい人の美しさよ
生きるはじめのその終わりには、生きる最期のその望みの果てにも、人は、それでも愛の救いをもとめようと、天に向かって手をさしのべる。
生きるとは、生き延びるという大自然の生命に果たされた神々の愛に仕掛けられたいきるものたちの、それぞれの運命は、神々に寄り添って生きる故に、ただただ厳しい。
人においてをや、なにを信仰するかによって人の道が別れ行く。
神々から遠ざかれば遠ざかるほどに、人の魂の呼吸を止めるこの喧騒と世知辛さは人の義理もない欲望の果てなのだろう
人の望みの安らぎと幸福、その苦しみと悲しみの果てに、みな至るという幸福の故郷に誘われたいというのなら・・・・神々の黄昏、神々のアダージョを聞くのです。
人の愚かな黄昏を聞くことよりもこうして神々のアダージョを聞く度に、悩み尽き果てぬこの世の人の愚かしさに導かれるように、どうやら、人はこの苦界をくぐりゆかねば、人の世の喜びもこの世の常春へとたどりゆかむものなのでしょうか?
わたしはこうして、ただゆるやかに、そして、ただただ、しのびよるような愛の予感のようにゆっくりと、神々の黄昏・・・・深い瞑想の中で眠るとしよう。
哀愁のアダージョ(ダニエル・リカーリ)
蓮の花は、実と華を同時に身につけるという。尊い教えのそのように
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