〜東京レトロ散歩〜

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西口地下広場を見続けて40年「新宿の目」

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 新宿西口地下広場は昭和41年(1966年)11月に竣工した。
 当初は密閉型の地下広場として計画されたが、小田急が地下駐車場の事業主体になり、建築家・坂倉準三が設計を変更。
 中央に60mの大開口部を設けることによって地下広場に自然光と換気をもたらす斬新な構造になった。
 
 その西口地下広場から見えるスバルビルの地下1階、黄色い矢印で示した部分に「新宿の目」がある。

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 「新宿の目」は瞳の高さ2.4m、目全体の横幅7mという巨大なアクリル製のオブジェ。
  中央の瞳の部分と目頭、目尻の3カ所の内部で光が万華鏡のように屈折しながらゆっくりと回転する。

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 作者は家・彫刻家の宮下芳子氏。
 目の右下のレリーフには「DESIGNED BY YOSHIKO MIYASHITA 1969. 12. 27」とある。
 
 宮下芳子さんの公式サイト→http://www.latelier.co.jp/

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 実は「新宿の目」が完成する半年ほど前、この新宿西口地下広場では「新宿フォークゲリラ」と呼ばれるベ平連の学生らによる無許可の反戦集会が毎週末に行われ、手を焼いた警察は地下広場を「地下通路」と改称することで、道路交通法を適用して集会を鎮圧した。
 この出来事のすぐあとに設置された「新宿の目」には何かの意図があったのだろうか。

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 40年間、新宿の移り変わりを見つめてきた「新宿の目」。
  
 今日もその巨大な瞳の前をほとんどの人が無関心に通り過ぎて行く…
 

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都心の一等地に残る戦前の家並み・三田1丁目界隈

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 買い物客らで賑わう麻布十番を東に100メートルほど進み、首都高速の下を流れる古川(渋谷川の
下流)の小さな橋を渡ると、そこは昭和の面影を色濃く残す住宅密集地、三田1丁目。
 
 古川べりに古い家並みが立ち並ぶ。
 
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 かつてこのあたりは三田小山町と呼ばれた場所で、北側と西側を古川に囲まれ、南側は高台という地形のため、空襲の猛火からも奇跡的に免れた。

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 路地の突き当たりにある「小山湯」の建物は大正10年の建築。
 惜しくも2年前に廃業してしまったが、地方の温泉宿を思わせるレトロな建物は健在。

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 この地域もご多分に漏れず再開発が進み、古い街並みは数年前の半分になってしまった。

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 昔ながらの路地の向こうに巨大なクレーンがそびえ立つ。
  
 狭い一角にわずかに残った戦前の街並みも、消滅してしまう日が近いのだろうか。


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板橋の田園調布「常盤台住宅地」と「帝都幼稚園」

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 池袋から東武東上線で5つめの「ときわ台駅」は昭和10年(1935年)に「武蔵常盤駅」として開業。(昭和26年に「ときわ台」に改称)
 青い洋瓦に白壁の瀟洒な駅舎は開業当時からのもので、東武東上線で最も古い駅舎。
 原宿駅や田園調布駅と並んで、この頃の小規模駅の特徴をよく残している。

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 昭和30年代の「ときわ台駅」。
 駅舎は当時も今もほとんど変わっていないことがわかる。

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 北口の駅前には大きなロータリーがあり、その先に昭和10年(1935年)に東武鉄道が沿線開発事業の一環として、田園調布を模して開発したといわれる高級住宅地「常盤台住宅地」が扇状に拡がっている。

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 「常盤台住宅地」は当時提唱された「田園都市」構想をもとに設計された斬新な開発プロジェクトだった。
 住宅地内の環状道路は8メートルの道幅を確保しながらも、中央にプラタナスの植樹を施すとによって車の速度を規制し、住宅地としての快適性を追求している。

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 日本では珍しい「クルドサック」と呼ばれる独特の街路構造。
 住宅地内に居住者以外の車が入ってこないように突き当たり部分をロータリーにして、進入してきた車がUターンして出てゆきやすいように設計されている。

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 住宅地のランドマーク「ときわ台写真場」(旧常盤台写真場)。
 昭和12年(1937年)に開場した写真舘で、当時の建物は歴史的建造物として小金井市の「江戸東京たてもの園」に移築展示されている。

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 「江戸東京たてもの園」に展示されている「常盤台写真場」。
  現代でも通用しそうなデザインは高級住宅が立ち並ぶ常盤台にあってもひときわモダンな存在であっただろう。

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 大正時代に開園したその名も「帝都幼稚園」。

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 飾りタイルがレトロな門柱。

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 今はあまり見かけなくなった木造下見貼りの園舎は開園時からのもの。

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 相続税対策で取り壊された邸宅跡。
 跡地は切り売りされて、やがて小規模な建て売り住宅やアパートに変わってゆくのだろう。
 残念な気もするが、これも時代の流れか…

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代官山ヒルサイドテラスに今も残る旧家と古墳

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 おしゃれな街、代官山の旧山手通りに面して建つヒルサイドテラスは建築家・槇文彦氏の設計によって昭和41年(1967年)から平成10年(1998年)まで、実に30年の年月をかけて建てられた低層の都市型複合建築群。洗練されたデザインは建築学的に非常に高く評価されてる。
 
 そのヒルサイドテラスA棟の裏に見える大きな瓦葺きの建物が、もともとこの土地の地主であった朝倉氏の邸宅「旧朝倉家住宅」。

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 ヒルサイドテラスの一帯は目黒川に沿った段丘上に位置し、弥生時代後期からの人里であった。
 
 敷地内にある案内図には「旧朝倉家住宅」の他、古墳時代末期の円墳「猿楽塚」の記載が見える。(赤字はあとから記入)

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 「旧朝倉家住宅」は渋谷区議会議長や東京府会議長を務めた朝倉虎治郎によって大正8年に建築された邸宅で、震災や戦災も免れた大正期の貴重な和風建築として、平成16年に国の重要文化財に指定された。
 
 朝倉家は明治2年に精米業を始め、米穀販売や土地経営により発展してきた富豪で、現在もヒルサイドテラス内に一族が居住し、子孫がヒルサイドテラスの経営に当たっている。

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 「旧朝倉家住宅」の庭園のはずれに小さな出口があり、「猿楽塚古墳」への案内表示があった。

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 ヒルサイドテラスの建物内を矢印に従って進むと、やがて森に覆われた高さ5m、直径20mほどの
小山が現れた。
 これが「猿楽塚古墳・北塚」。
 
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 さらに、20メートルほど離れた朝倉家の私有地内にもう少し小さな土盛りがあり、こちらが「南塚」と思われるが、私有地のためか案内表示はない。

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 北塚に戻って鳥居をくぐり、石段を登る。

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 頂上は意外に広く、大正時代に建立された「猿楽神社」が鎮座している。
 昔は頂上からの見晴らしが素晴らしく、江戸時代には「我が苦を去る」という意味から、「去我苦塚」
と呼ばれ、お弁当持参の人々で賑わったらしい。

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 「猿楽神社」にお賽銭をあげ、世界平和と景気回復を祈願して下界を見下ろすと、代官山のしゃれた街並みが垣間見えた。

猿楽塚古墳
所在地:渋谷区猿楽町29-10 ヒルサイドテラス内
交通:東急東横線代官山駅から徒歩3分
  :東急東横線・地下鉄日比谷線中目黒駅から徒歩7分
  :JR線・地下鉄日比谷線恵比寿駅から徒歩10分

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お顔だけ残った大仏様「上野大仏」

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 上野公園の中ほど、上野精養軒の手前に大仏山と呼ばれる小さな丘がある。
 ここは、関東大震災で頭部が落下して大破するまで大仏様が立っていた場所で、今は丘の頂にパゴダと呼ばれる仏塔が建ち、大仏様の顔だけがレリーフとなって保存されている。

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 丘を登ると、正面に見えるのが大仏パゴダ。
 パゴダとはミャンマー様式の仏塔のことで、「釈迦の住む家」であるとされている。
 明治8年に撤去されるまでは大仏殿がこの場所に立ち、文字通り「釈迦の住む家」があった。

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 パゴダの左手を見ると、おお!ありました!お顔だけの大仏様。
 
 この場所に最初に大仏が建ったのは寛永8年(1631年)、粘土に漆喰塗りの釈迦如来坐像だった。
 その後、万治年間 (1660年) に青銅製の釈迦像となり、元禄11年 (1698年)には大仏殿も建立された。
 その後は火災や地震の度に修復を繰り返してきたが、関東大震災で頭部が落下。
 そして、昭和15年(1940年)には戦況の悪化による金属供出令で顔面をのぞく頭部、胴体が軍に供出され、上野の大仏様は消えてしまった。
 しかし、昭和42年(1967年)関東大震災の50回忌にあたり上野観光連盟が願主となって大仏パゴダを建立。
 昭和47年(1972年)寛永寺に保管されていた顔面部がレリーフとして安置され現在のお姿となった。

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 明治初頭の写真には二層の大仏殿(右側)が写っている。
 左の小さな建物は今も残る「時の鐘」。

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 大仏殿が取り壊され露座となった大仏様。

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 関東大震災によって頭部が落下した大仏様。
 胴体に貼られたおびただしい紙は、震災による行方不明者を探す張り紙。

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 鎌倉の大仏と比べて男前に劣るといわれていたそうだが、こうしてみるとけっこう端正なお顔だち。
 よく見ると唇にはうっすらと紅が塗られている。

 幾多の困難を乗り越えてとうとうお顔だけとなってしまった上野の大仏様。
 いつの日かまた、この地に堂々としたお姿を見せる日が来るのだろうか。

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