ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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白煙上げる大涌谷、箱根

親しき友人達と小田原で集合し、新緑の箱根周遊の旅を楽しんだ。
 
小田原→(小田急)→箱根湯本→(箱根登山鉄道)→強羅→(ケーブルカー)→早雲山→(ロープウェイ)→大涌谷と乗り物を乗り継いで大涌谷へと来た。
 
冠ケ岳(1409)の北斜面で、ここだけ赤茶色の地肌を露出して、地面から白い蒸気を吹き上げ、温泉が湧き出ている噴煙地だ。
 
約3000年前箱根火山最後の水蒸気爆発を起こした爆発火口で、かっては地獄谷、大地獄谷と呼ばれていたが、明治6年(1873)明治天皇・皇后両陛下の箱根静養の際、名が不適当と言うことで、「大涌谷」に改められた。
 
ここでは温泉と地熱を利用した殻の黒いゆで卵「黒卵」を売っていた。
早速食した。
「1個で7年寿命が延びる」という触れ込みだが、確かにそんな気がするおいしさだった。
 
イメージ 1
大涌谷噴煙地風景
 
 
イメージ 2
大涌谷噴煙地風景
 
イメージ 3
温泉池で玉子を茹でている風景
 
イメージ 4
 
黒玉子
 
パンフレットによれば、温泉池の温泉の温度は80℃、蒸釜の温度は95℃〜100℃、
温泉池の中で、玉子を1時間ほど茹でる
この間に温泉に含まれている硫化水素と鉄分が結合して硫化鉄となり、それが玉子の殻に付着して黒くなる。
その後、温泉池から出して、更に5分ほど蒸釜で蒸して出来上がる
 

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木漏れ日で金環日食を観察 ケータイ投稿記事

イメージ 1

7時30分頃雲間からの金環日食を観察。
木漏れ日からも確かに観測出来た。
地面の木漏れ日も、太陽が欠け、やがてリング状になった。
九州南部から福島県北部までの広範囲に金環日食が見られるのは1080年以来932年振りとか。
それでも、世間の昨近の盛り上がりは予想以上。
もつられてテンションが上り、前日になって、ビッグ・カメラに観察用メガネを買いに行ったのだが、手に入れることが出来なかった。
それで、金環日食になった時、他所の人から借りてほんの少しだけ直接観察し、その外の間は、木漏れ日の変化を眺めていたのだった。
 
イメージ 2
 
金環日食を観察する人々
(於 名古屋 栄  セントラルパーク)
 

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後醍醐天皇を祀る吉野神宮、吉野町


村上義光(ヨシテル)の墓から緩やかな坂道を下りてくると、吉野神宮の前に着いた。その間約1kmだ。

吉野神宮は明治25年(1892)「吉野宮」として創建でされ、大正7年(1918)「吉野神宮」に改称された。

祭神は、延元4年(1339)吉野で崩御された後醍醐天皇。

吉野山丈六平に鎮座し、正面社頭から境内に入ると、大きな鳥居、手水舎、神門と続き、北面する拝殿、

本殿が建っていた。

現在の社殿は昭和7年(1932)改築されたもので、いづれも銅板葺の建物である。

我々が訪れた時は、時折参拝者が訪れる程度で、静寂としていた。

この後、吉野神宮から近鉄吉野神宮駅までは15分程度であった。



イメージ 1 吉野神宮社頭



イメージ 2 正面鳥居



イメージ 3 手水舎・神門



イメージ 4 拝 殿



イメージ 5

                               本 殿
 後醍醐天皇を祀る。  
後村上天皇がお作りになられたといわれ、吉水神社(明治7年まで吉水院)に奉安されていた後醍醐天皇の尊像もここに移されている。

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元弘の往時を偲ぶよすが・大橋や義光の墓、吉野町


金峯山寺黒門を過ぎると、普通は、吉野山ロープウェイで下るか、又は、七曲坂を歩いて下って帰ること

になる。

我々は、時間があるので、このまま尾根道の車道を進み、吉野神宮に向かうことにした。

緩やかな坂道が続いた。

観光コースから外れている所為か、歩いている人は殆ど見かけなかった。

途中、掘割に架かる大橋や村上義光(ヨシテル)の墓があり、大塔宮護良(モリナガ)親王が北条方と戦った往時の

よすがを偲んだ。

その他、美しい吉野山の風景と共に、芭蕉句碑、峰の薬師堂跡があり、綺麗に並んだ杉並木があったり

し、それらをうろうろ見ている内に吉野神宮に着いた。


イメージ 1 大 橋
尾根道を遮断するような形でつくった掘割に架かる橋
掘割は元弘3年(1333)大塔宮護良(モリナガ)親王が北条幕府に対し吉野城に立て籠もった時のもの。
現在は堀部分の空間を埋めた鉄筋コンクリート造となっている。


イメージ 2 芭蕉句碑
芭蕉の句碑と称するものが道脇に2つ立っていた。
一つは全く文字が分らず、他の方は達筆過ぎて何が書かれているのか分らなかった。
因みに、芭蕉は貞享元年(1683)と元禄元年(1688)の二度吉野を訪れている。



イメージ 3 村上義光墓への標石
左側の道脇に建っていた。
標石に従って杉林の中に入るとすぐに村上義光(ヨシテル)の墓があった。



イメージ 4 イメージ 5
                              村上義光廟所
石柵に囲まれた中に義光の墓石である宝篋印塔と、柵の右外に忠烈碑が建っていた。
石柵正面の向かって左側にはミニチュアの鎧が奉納されていた。
村上彦四郎義光は信州埴科の人で、早くから大塔宮護良親王に従って北条幕府と戦ったが、元弘3年(1333)吉野城が落ちる時、大塔宮の身代わりになって蔵王堂二天門の高櫓の上で腹をかき切って果てた。
その義光の首を検分した北条方が大塔宮でないことを知り、ここに捨てられたのを里人が弔って墓としたものという。
太平記によれば、義光の首は京都へ持っていかれたので、ここには胴体が埋葬されたのであろうか?
忠烈碑は天明3年(1773)大和高取藩士内藤景文が義光の戦功を讃えて建てたもの。
なお、義光の子・義隆も、父と共に死のうとしたが、大塔宮を護って落ち延びるように諭され、高野山に向かう途中、追いかけてきた敵と戦い討ち死にし、義隆の墓が勝手神社の南西1kmの所にあるそうだ。


村上父子が敵を防ぎ、うち死しけるその間に、宮は危ふき死を遁れさせ給ひて、高野山へぞ

落ちさせ給ひける

さる程に、二階堂出羽入道、村上が宮のまねをして腹を切ったりつるを実と心得て、その頸を

取って京都へ上せ、六波羅の実検に晒しければ、あるにもあらぬ頸なりと申しけれな、獄門に

懸くるまでもなくて九原の苔に埋もれけるこそ無慙(ムザン)なれ。(「太平記」巻第七)



イメージ 6 峰の薬師堂跡
義光の墓を過ぎ杉林が途切れた道脇に標石が立っていた。
明治初年まで瓦葺の大きなお寺があったが、廃仏毀釈で取り壊され、本尊の薬師如来は行方不明となり、
石造不動明王は如意輪寺の境内に移され、今も近畿36不動尊の第三十番難切不動尊として厚い信仰を受けているそうだ。


イメージ 7 杉の並木
道路沿いに、幹が垂直に剪定された杉が綺麗に並んでいた。

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歯の痛みに霊験ある関屋地蔵尊、弘願寺、吉野町


銅鳥居から黒門に向かっている途中、左手に「関屋地蔵尊」を幟を立てたお寺があったので覗いてみた。

弘願寺といい、元は金峯山寺の末寺山之坊であったが、現在真言宗高野山派の末寺である。

弘願寺の門を入ると、左手に小さな厨子形の地蔵堂があり、そこに安置されている石仏が関屋地蔵尊と呼

ばれるお地蔵であった。

お地蔵様は、像高約1.2m 大きな舟形光背を背に、右手に錫杖、左手に宝珠を持っ分厚い半肉彫りの立像

で、眼はやや細めでかすかに笑みをたたえていた。

明治初年関屋桜のほとりにあったものを移したもので、古くから除災招福、病難消除、とりわけ歯の痛み

に霊験あるとのことであった。


イメージ 1 弘願寺



イメージ 2 イメージ 3
                         地蔵堂と関屋地蔵尊
光背の右側に「為供養法華経千部施主」、左側に「永正12年(1515)乙亥八月十五日」とあり右側の行に法名らしき文字が見える。頭上にも7個の梵字が刻まれていて、恐らくいずれかの結縁衆が法華経一千部読誦供養の記念に現世安穏・極楽往生を願って造立したのだろう、と説明してあった。

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