ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

東海紀行

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ここからも出て行った英霊たち・草薙隊之碑、豊田市


桶狭間の古戦場址から帰るとき、Zさんに大津陸軍少年飛行兵学校跡へ行ってきたことを話した。

そのことから特攻隊の話になり、とうとう豊田市猿投にある「草薙隊之碑」を見に行くことになった。

Zさんは、国道一号線を岡崎方向に走り、知立を過ぎたあたりで左に折れ北上していった。

やがて豊田市猿投町に入った。

あるところで、内陸部にもかかわらず、道路は平坦で一直線となっていた。

Zさんによれば、この辺りは戦時中特攻隊の基地だった海軍の飛行場があった為とのこと。

後で分ったことだが、そこは名鉄浄心駅から(車で)5分ぐらいの所であった。

草薙隊之碑はそこにある小公園の隅にあった。

「草薙隊之碑」と自然石に深く彫られた碑と側に銘文碑があり、前には「為万世 開太平」と

記された32cm砲弾が左右に供えられていた。


イメージ 1


銘文は次のようであった(片仮名は平仮名に変えた)。

此の地は 昭和17年4月1日開隊 昭和20年9月2日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり。

昭和20年春 当地に於いて神風特別攻撃隊草薙隊編成され、4月5日、12日の両日各20機の

九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出、菊水1号、2号、4号作戦にに参加。

同月6日、12日、28日の3次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦に突入す。未帰還28機 戦死56名。

彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎えるにあたり有志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人

本碑を建立し草薙隊の忠烈を永く後世に伝へんとするもの也。 昭和47年4月吉日 豊田海友会

なお、碑前の32cm砲弾は、長さ1m、直径32cm、重さ450kgある。

日清戦争時、世界最強戦艦といわれた清国の「定遠」、「鎮遠」に対抗するため、日本海軍の海防艦「松

島」、「橋立」、「厳島」に搭載した主砲砲弾。

砲弾に書いてある文字は、終戦の詔勅の中ににある「萬世の為に太平を開かん」と言う言葉からとられた

もの。

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合戦の戦死者を弔う長福寺・桶狭間古戦場3、名古屋市


おけはざま山のほぼ西に位置する「桶狭間古戦場公園」から南に200mほど歩くと長福寺が建っていた。

和光山天沢院(ワコウサンテンタクイン)と号し、天文7年(1538)善空南立(ゼンクウナンリョウ)上人によって創建された西山浄

土宗の寺院である。

寺伝によれば、永禄3年(1560)桶狭間の戦の時、上人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者とな

って率先酒食を提供し、その労をねぎらったとある。

本尊の阿弥陀如来像は、今川義元の茶坊主・林阿弥が義元供養の為納めたものと伝わる。

又、寺宝に、今川義元と家老・松井宗信の木造を所蔵する。

合戦当時、桶狭間は原野と畑が広がっていた。そして桶狭間古戦場公園東側から長福寺前には小川が流れ

ており、合戦の際、人馬の血と雷雨で真っ赤に染まり、馬の鞍鎧などが流れたので、鞍流瀬川(クラナガセガ

ワ)と呼んでいたそうだ。

しかし、今はすっかり宅地化が進み畑地が僅かに残るだけであり、戦死者の霊とも謂れるほど源氏ボタル

が飛んでいた鞍流瀬川も昭和61年(1986)埋められて姿を消している。

イメージ 1 瀬名伊予守氏俊陣所跡
古戦場公園から長福寺に向かう途中に碑が建っていた。
永禄3年5月17日義元の家臣・瀬名氏俊隊約200名が先発隊として着陣。
村上、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と大将今川義元が19日昼食する時の本陣を設営した。
陣跡の竹やぶを、里人は瀬名氏俊を偲び、「セナ薮」、「センノ薮」と呼んでいた。
昭和61年(1986)池の堤防工事により薮も取り壊され、今は竹を僅かに残されている。




イメージ 2 「桶狭間古戦場由緒地跡」碑
長福寺寺標の石柱の後に建っていた。
哀れな戦死者を寺の阿弥陀如来に託す為、鞍流瀬川に浄土橋を架け、極楽往生を願った。
昭和61年(1986)の区画整理で鞍流瀬川も浄土橋も姿を消した。


イメージ 3 義元首検証之跡
長福寺境内の大杉附近で林阿弥が首検証を命じられ、後供養した所。
供養杉は伊勢湾台風で枯れ、2代目の杉である。



イメージ 4 桶狭間合戦供養塔
境内中央に建っていた。



イメージ 5 徳安風生翁句碑
供養碑の近くに置かれていた。
徳安風生は東大卒後逓信省に入り、同省次官に栄進した一方俳人としてもその才能を発揮し、ホトトギス派の重鎮として活躍した。
日本芸術院会員、勲一等瑞宝章叙勲 昭和54年(1979)没
昭和24年(1979)頃当寺を訪れ、今川義元の木造に供えた「額の花」を読んだ句
木像に そなへて暗き 額の花

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ここにも義元最後を伝える地・桶狭間古戦場址2、名古屋市


再び国道1号線に出て、名古屋方面に約500m行った「桶狭間」から南に入りる。

約1km行った「幕山」で左手(東方向)に入ると、桶狭間古戦場公園があった。

田楽坪とも言われ、織田軍に急襲され、討取られた今川義元最後の地といわれている。

園内には「今川義元馬つなぎのねずの木」、「首洗いの泉跡」、「駿公墓碣(スンコウボケツ)」などがある。

また、戦450年を記念し、桶狭間に意たる史跡を配したジオラマ公園となっていた。

「信長公記」などの記述に拠れば、今川義元は、永禄3年(1560)5月12日駿・遠・三の2万5千余の兵を率いて

駿府を出発、5月18日には沓掛城に入り、翌19日8時ごろ大高城に向け出発した。

先発の瀬名氏俊が設営した「おけはざま山」の陣地に入り、今朝方落城させた鷲津・丸根砦の戦果を聞き

ながら休息していた。

昼頃、天気が急変し、雷雨となり、落雷により今川本体は大混乱状態になった。

他方、織田信長は19日4時ごろ清洲城で、鷲津・丸根砦が今川軍の攻撃を受けた報告を聞き、幸若舞の「敦

盛」を舞い、直ちに出陣した。 清洲城を出た時は主従僅か6騎。

8時ごろ熱田の宮に到着し、戦勝祈願する。その頃には千人余となっていた。

10時ごろ善照寺砦に着く。本陣をここにありと見せかけて、3千人余となった軍勢を雷雨の中を今川本陣

近くの釜ケ谷に進めた。

雨が止むや間髪をいれず今川軍に突撃した。

今川義元は織田信長家臣・服部小平太を切り倒すなどして応戦したが、最後は毛利新介に首を取られた。


イメージ 1 桶狭間古戦場公園入口



イメージ 2 近世の曙
槍を持つ織田信長と弓を手にする今川義元の像が建つ。



イメージ 3 「今川義元戦死の地」碑
「今川義元戦死の地」碑と共に「駿公墓碣(スンコウボケツ)」が置かれてあった。
「駿公墓碣(スンコウボケツ)」は田楽坪の「ねず塚」に埋められていたのを昭和28年(1953)偶然発見された。
造られた年代は不明。当時の村人が敗軍の将を弔うことをはばかり墓石を埋めてひっそりと供養したものと思われる。


イメージ 4 今川義元馬繋ぎのねずの木
碑の後の枯れ木。
着陣した今川義元が田楽坪の泉で水を飲む為に馬を繋いだ木と言い伝えられ、田の中の「ねず塚」として残されてきた。
この木に触れると熱病にかかるとの言い伝えがある。


イメージ 5 今川義元首洗い泉跡
義元の首級をこの泉で洗い清めたといわれている


イメージ 6 桶狭間古戦場田楽坪の碑
今川家臣松井左衛門宗信(遠州二俣城主)の子孫松井石根(イワネ)が昭和8年(1933)古戦場址を訪れた時に揮毫し、郷土史家・梶野孫作が建碑したもの。


イメージ 7 大田錦城詩碑
大田錦城は江戸後期の儒学者。
文政3年(1820)旅の途中、桶狭間を訪れ詠んだものとされる。
桶狭間を過ぎ  大田錦城
荒原古を弔う古墳の前 
戦い克って将驕る何ぞ全きを得ん
快風雨を吹いて昼晦の如し
驚破す奇兵天より降るかと

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東海の雄・今川義元が倒れた桶狭間古戦場址1、豊明市


名古屋の中心「栄」でZさんの車に拾ってもらう。

そこから、名古屋市の東南端の桶狭間古戦場まで約1時間半ほどかけていく。

この間、Zさんの講釈を聞かねばならなかった。

桶狭間の戦は、永禄3年(1560)5月19日尾張に攻め込んだ、東海の雄・今川義元が、織田信長に急襲され戦

死した戦である。

この結果信長が天下布武の道を歩む第一歩となった。その桶狭間古戦場はどこかについて諸説ある。

今川方2万5千、織田方3千が入り乱れた戦であるから、名古屋市緑区と豊明市の境の境にある「桶狭

間山」を中心に相当広い範囲と考えられる。

ただ、今川義元が討取られたところに限定すれば、桶狭間山の北に位置する「現 豊明市」側と、南に位

置する「現 名古屋市緑区」側が、夫々古戦場址を主張しているとのことだ。

国道1号を南に下り、名鉄「中京競馬場前」駅からすぐ近くの「豊明市」側に、まずよってみた。

桶狭間古戦場伝承地は、四阿を設けた小公園となっており、遺跡は、その小公園と道を挟んだ向かいの高

徳院に広がってあった。





イメージ 1

                            桶狭間古戦場
昭和12年(1937)史跡指定、標柱は昭和16年(1941)10月建立



イメージ 2 弔古碑
文化6年(1809)津島の神官氷室豊長が建てたもの。
碑の表面は桶狭間の戦を回顧するとともに往時を偲ぶ詩。
裏面は古戦場が放置され荒れ果てているのを嘆き、その由来を明らかにするとの建碑の主旨が彫られている。


イメージ 3 七石表一号碑
七石表は明和8年(1771)尾張藩士人見弥右衛門桼(アツシ)、赤林孫七郎信之により建立
一号碑は今川上総介義元戦死所、2号は(高徳院境内)は松井宗信戦死所、3号以下は武将5人、名は不詳


イメージ 4 今川義元の墓
ここは塚であったが有松の住人・山口正義が主唱し、明治9年(1876)この墓を建てた。
碑陰記によれば、弔古碑が建てられた後、通りかかった旅人が義元の墓と間違えて香華を手向けたりしていた。
この為、改めて周辺を整備し、義元の墓を建てたという。
近くに、義元の馬を繋いだという「駒つなぎのねず」の枯れ木がある。



イメージ 5 今川義元仏式の墓
高徳院側の竹やぶにあった。
今川義元300回忌の万延元年(1860)に建立。
方形の石柱に笠と蓮華弁を模した台座が付く「墓塔形式」であるため「仏式の墓」と呼ばれている。



イメージ 6 徳本の名号石
高徳院側の竹やぶにあった。
徳本行者(文化文政頃の江戸浄土宗の高僧)がこの地を訪れて、戦死者の霊を弔うために建てたもの。
円筒形の小塔で、「南無阿弥陀仏」の6字が刻まれている。


イメージ 7 高徳院
山号は香華山、真言宗の寺院
境内の奥に、桶狭間古戦場史料館と霊宝館があるが、どちらも閉館中だった。


イメージ 8 今川義元本陣跡の碑
本堂前に建っていた。
今川義元直系19代芹沢一郎が建立したもの。
側に大きなタブの木が生えていたが、この木は明治39年(1906)皇太子殿下来山の際、奥保陸軍大将が記念植樹したもの。


イメージ 9 景樹歌碑
香川景樹は和歌の桂園派の巨匠。
自分の歌風を広めようと意気込んで江戸に出たが、迎えられなかった。
文政元年(1818)失意を抱いての帰路、桶狭間を通った。
信長によってこの地に没した義元の気持ちを汲み、自身の心に引きあてて詠んだ一首。
跡とへは 昔の時の こゑたてて
 松にこたふる かせの悲しさ
写真は高徳院境内のものだが、小公園にも建っていた。

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久し振りに味噌カツ、名古屋市


今年何回目になるのだろうか?名古屋へ来た。

多分今年最後になるだろう、と思いながら名古屋駅のフォームに降りた。

名古屋駅から地下街を通って、向かいのミッドランドスクェアに行って見ると地下一階から吹き抜けにな

っている広場に約8mほどのLEDのツリーが立っていた。

この後、名古屋の中心地「栄」に出た。地下街の中心にもクリスマスのオブジェが飾られていた。

最近はジングルベルなどのクリスマスソングのBGMは一時期より押さえられているものの、この様なもの

を見ると年末、クリスマス時期を実感する。

原子力発電所が止まり、電力不足、節電といわれる御時勢だが、まだまだ大丈夫と意を強くした。

そんなことを思いながら、近くの食堂にて久し振りに味噌カツを食べる。

ソースの変わりに味味噌を使っただけものだが、これにて今年最後の名古屋を堪能した。



イメージ 1 ミッドランドスクェアのツリー




イメージ 2 栄地下街のオブジェ




イメージ 3 味噌カツ

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