佐藤春吉「M. ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提」より(2)
マルクス主義特有のすべての「法則」の発展構成は,……理念型の性格を備えているということにある。この理念型を実在との比較に用いる場合には,索出手段として卓越した,それどころか唯一無二の意義を発揮すること,同時に,そうした理念型が経験的に妥当するものとして,あるいはそれどころか,実在の(ということは実は形而上学的な)「作用力」「発展傾向」などと考えられるや否や,いかに危険になるかということは,かってマルクス主義的概念を取り扱った人なら,だれでも知っている」(ウェーバー 『社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性』, p.141)。 佐藤氏の解釈は,不正確ではないだろうか。ウェーバーは,理念形を実在的なものとは考えていないので,彼のいう法則は「現実の諸連関の特定の諸側面に認められる」ものではない。ここがマルクスとウェーバーの決定的な違いだ。ウェーバーの場合,法則は大法則であれ,「経験的規則性」であれ,実在的なものではない。それは,あくまでも観念的な構成物であり,実在的なもの,現実的なものとの対比によって実在の個別性を索出する手段なのである。
マルクスにとっては普遍的なものも十分に実在的なのであり,個別的なものは普遍性を欠いては存在しえない。リンゴ一般としての普遍性を持たない「あのリンゴ」など実在しない。認識の目的が抽象的に普遍的なものの抽出に自体にはないという点は,マルクスの場合でも全くその通りだ。しかし,マルクスの場合,普遍的なものは個別的なもののうちに実在している。対象を普遍的なものと個別的なものの統一としてとらえることがマルクスにとっての概念的把握である。
ウェーバーにとっての「歴史法則主義」は,観念的なものの実在視として,批判の対象となっている。他方,マルクスにとって「歴史法則主義」は,実在的なものの観念化,実在的なものから生命を奪うものとして批判されるべきなのである。
こうした立場は,それ自体として成り立つものであるし,現に主流派経済学やいわゆる論理実証主義やそのバリアントとしてのフランクフルターは,みなこのような立場に立っている。しかし,こうしたものとマルクスの思想を架橋しようとする佐藤氏の試みは失敗に終わるだろう。ウェーバーを持ち出して新味を出そうとしても,結局それはフランクフルターの二番煎じ,しかも,失敗の二番煎じに終わるほかはないだろう。
マルクスは,「関心に応じて自由に探査可能な個別の諸事実連関をとりだし,そこから出発する」こと,それ自体を否定はしない。むしろ,当座の出発点がそれ以外にありえないことをヘーゲルとともに承認する。しかし,マルクスは,この点では,またもやヘーゲルとともに,その出発点選択の正しさが批判的に吟味されなければならないことを主張する。「人間の立場」に照らして,人間の存在原理に即して出発点の正当性が吟味されなければならない。労働する主体としての人間の存在原理に即して,出発点の選択が,意識に先行する非有機的身体と環境的現実との実在的な関係における対象の切り出しに対応しているかどうかが問われなければならない。これのみが恣意的な対象設定を避ける唯一の方法だからである。
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