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What Kind of Day Has come?

資本主義の行き詰まり
 
資本主義社会の基本原理の持続が不可能になっていることは、もうはっきりしています。
 
資本主義社会の基本原理とは、第一に、「価値を優先する生産」言い換えると「生産のための生産」、第二に、経済主体は自分の所有物をまったく基本的には他人にとやかく言われることなく自由に処分できるという「私的所有ルール」です。
 
こういった基本原理持つ資本主義の経済システムは、生産した物が自然や人間にどのような作用をもたらし、人間の欲求をうまく満たしてくれるかどうかという、使用価値の観点よりも、生産した物がいくらで売れるかという価値の観点が決定的な局面では優先されてしまう傾向があるそういう経済システムです。また、雇用リストラに見られるように、企業の拡大や存続のために、人間の生活が犠牲にされるシステムです。生活に必要な物を手に入れるために生産を行っているはずが、生産に必要な要素としての人間をつくりだす手段として生活が行われ(労働力商品の再生産のための家族生活)、生産の必要に生活を合わせなければならないような、生産のために生活があるようなシステムです。
 
現代は、これに代わる新しい社会原理に立脚する社会システムの必要性がジワジワと感じ取られるようになってきている時代です。
 
社会主義とは何か
 
資本主義に対する批判は、資本主義の誕生とほとんど同時に生まれ、伝統的には社会主義と呼ばれてきました。マルクスは、資本主義を根本から分析してその構造を明らかにし、その上で、資本主義に変わるシステムの可能性を資本主義そのもの中に発見しようとしました。彼は資本主義批判の伝統にのっとって、この新しいシステムを社会主義と呼ぶこともありましたが、実際には、「協同組合的社会」とか「アソシエイション」の名で呼ぶことが多かったのです。マルクスの理論を採用する者としては、新しい社会システムの名称は、「アソシエイション社会」がよいと考えます。いずれにしても、ここで確認すべきことは、ただ一つです。「社会主義社会」とか「アソシエイション社会」と呼ぶことのできる社会は、資本主義に替わる社会、資本主義とは別の社会であり、資本主義とは別の原理に基づく社会でなければならないということです。
 
間違って「社会主義」と呼ばれてきた国家資本主義
 
ところで、アソシエイションといわゆる「現存社会主義」との関係ですが、これはまったくのところ似て非なるものであると言わざるをえません。ソ連、東欧、中国、キューバ、北朝鮮といった国々の社会システムは、社会主義の名に値しないものだと思います。なぜなら、さっき確認したように、社会主義というのは本当なら資本主義の基本原理を否定した社会でなければならないのに、これらの国では、僕らの思い込みに反して資本主義の基本原理はまったく否定されていなかったことが明らかになっているからです
 
社会主義とは、積極的内容はともかくとして、非資本主義社会の一つである以上、資本主義の基本原理の否定でなければならないのに、これらの国々では、資本主義の基本原理である資本−賃労働関係も、商品生産関係もまったく取り除かれていなかったからです。ただし、そこで成立した資本−賃労働関係は、普通の資本主義とはだいぶ違ったものでした。なぜならこれらの国々では個人としての資本家ほとんど存在せず、代わりに国家機構それ自体が資本家の地位を占めていたらからです。このような特殊な資本主義は国家資本主義と呼ばれます
 
 世界経済の先端部分が資本主義としての爛熟期に入って帝国主義化していく段階になっても、ようやく資本主義の入口にたどり着くか着かないかという遅れた状態にとどまっていた国々が、植民地化を避け自力で資本主義的発展を実現する唯一の道として、残されていたのが国家資本主義化の道です。そもそも、商品生産も賃労働も存続している社会が社会主義であるはずがないのです。遅れたロシアでは、本当の意味での労働者国家は成立せず、政治的には労働者・農民国家として、経済的には国家資本主義としてスタートするしかありませんでした
 
 この国家資本主義が官僚支配に傾き、最終的にはこの官僚層によって国家権力が横取りされて独裁的な「現存社会主義」が成立したのです。このことは、政府や役人に頼らずに労働者たち自身が物事きめ実行していく自治・自主管理を維持強化することが、アソシエイション社会実現のためにいかに大切かを物語っています
 
政府の失敗と市場の失敗を同時に乗り越えるために
 
国家資本主義の破綻も、普通の資本主義におけるケインズ主義の破綻も、環境問題におけるエコファシズムの危険も、「政府の失敗」と呼ばれているものにほかならないのですが、これは要するに資本主義の基本原理を維持したままでは、どんなに国家介入を強めてもこの基本原理それ自体から吹き出す矛盾を抑え込むことなどできないということの証明ではないでしょうか。だからといって、やはり資本主義の基本原理を維持して市場に全てを任せればいいかというとそうもいかず、ここでもやはり「市場の失敗」が待ち構えているのです。私的個人がそれぞれの独自の判断で行動する結果、全体的な見通しを誰一人として持つことができないために恐慌や環境破壊など多くの人が望まない結果を避けることができないという市場メカニズムの限界はすでにいやというほど明らかにされています
 
「私」でも「公」でもない「協」の関係、これが次の社会の基本原理となるべきなのです。国家資本主義は、全て経済問題を企業や個人に対して国家が命令を下すという方法で解決しようとしました。これに対し普通の資本主義は、私的個人がそれぞれの独自の判断で自分の利益を第一に追求する市場メカニズムに重きをおいてきました。両者の限界が明らかになった今、第3の手法、自主規制・自主管理が脚光を浴びつつあります。この自主規制・自主管理は私的・排他的関係と違い、共同的・公共的な関係ですが、個々人の自発性に立脚したものです。
 
資本主義社会では、人格的自由と並行して、生活の社会化が進展していますが、これは、生産の社会的性格の現れです。大工業は、多数の労働者の共同労働で運営されており、個々の資本(企業)の内部では、すでに計画経済が実行されています。企業活動の社会的影響力(例えば、環境問題)に対応するために、一国的規模さらには世界的規模での経済活動の全体的調整の必要性が意識されるようになって来ています。言ってみれば、私たちが気づかないうちに、経済の組織は(生産と労働の共同体)になって来ているのです。しかし、これはまだ本当の共同体ではありません。なぜなら、資本主義経済は、人間同士の関係から独立した仕組み、物と物とが人間の都合などお構いなしに勝手に結びついて出来上がっている仕組みのようになってしまっているからです。かつての共同体は、個人を自分の支配下に置き、個人を固定的地位に縛り付けていました。全ての個人に人格的自由が認められる資本主義社会を経験した僕らは、このような古い共同体を再び作ることはないでしょう
 
新しい共同体は、自由な諸個人に支配されたものとなるでしょう。そうなったときに、経済の組織は、人間から離れて勝手に動き回るのではなくなり、人間同士が協力して自覚的に制御する関係として現れるのです
 
 
 











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草莽崛起(The Rising Multitude)

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