市場の威力と〈私民〉民主主義
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分散的意思決定が一元的な暴力に帰着しちゃうのはどっちも一緒。
市場における人間の抽象化(ホモ・エコノミクスへの還元作用)の究極の根拠は環境的自然(非有機的身体)を商品へと加工する私的労働である。
私的労働は、環境的自然に対して「財」「資源」「生産要素」、その他何と呼んでもよいが、自己の排他的圏域に属するものとして関係行為する。ここから合成の誤謬が生じる。
ハイエク等々が指摘するように分散的意思決定の世界では、完全情報の入手は困難だから、市場を前提したまま、それを求めるのは合理的でない。いわゆる「市場社会主義」は、極端な場合には、この事実を否定して、不完全な情報を完全情報だと強弁する理性の傲慢に陥ることになる。
そこで、マルクスの「あらかじめの合意」が活きてくる。
対象に即して適正な規模(おそらく対象に即して極小が最適)で「あらかじめの合意」を図り、「合意」に即して「合意」参加者が関係行為する。
共同契約栽培など。
無数の群小的な「あらかじめの合意」をボトム・アップ的に「一大協定」へと構成できるだろうか?
ボトム・アップのイメージより、連鎖反応のイメージの方が現実的か?
客体的な連関の中に自己を媒介的に置き入れる
市場に即した「経済」把握は、分散が前提となる。主体が分散している以上、対象も分散的に配分され、必要に応じて集積・結合されるものとして扱われる。
しかし、主体はともかく、対象はそもそも分散していない。初期賦存状態を自由に変更可能なものとみなす前提が、実は強すぎる仮定ともなっている。
有機的に連関したものを、相互に独立・分散していてばらばらに取り扱うことが可能なものして扱う私的労働が、問題の発生源なのだ。
そして、これに対応した社会的意思決定の様式が、〈私民〉民主主義であり、これは、アローが証明したように、社会的意思決定を不合理性の袋小路に追い込むものとなる。
(内容的には、すでに書いたことの繰り返しです)
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