消費費用と性別分業
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消費費用は原則当人の負担であるべきである。消費費用の成果は、常に必ず消費を行う当人のものになるからである。
*ここでの消費費用は,貨幣の支出のことではなく,消費に伴う「手間と暇」,すなわち消費に伴う労働力の支出のこと。
しかし、現実には消費費用自己負担できない人々がいるのでそうした人々のために、誰かがかれらの消費費用を肩代わりする必要がある。
肩代わりの必要性の有無は、当人に消費費用を負担する能力があるかどうか(努力すればできるようになるかどうか)で判断すべきである。能力があるのに、その能力を他のことに使ってしまって、その分消費費用の支出を他人に頼るというのは問題がある。→負担に偏りが生じるし、結果的に当人自身が消費能力と労働能力のアンバランスに悩むことになる。消費活動は何一つできない「産業廃棄物」。
肩代わりを必要とする人々が存在するという理由のほかに、現代社会では生活の複雑化・水準向上の結果、個人や個々の家庭だけでは消費費用は負担しきれないものになっている。→ごみ問題。かつては庭で燃やしたり土に埋めたり。いまや量的にも質的にも自家処理では処理しきれなくなったゴミ。(一世帯あたりの排出量が膨大で自分の出したゴミを自分で処理しきれなくなっているし、いろいろな種類の物質がのゴミとなり、物質により適切な処理の仕方が違うから、分別してそれぞれに相応しい仕方で処理しなければならない。)
教育・社会化、広い知識と文化的柔軟性を持つことが求められる現代人の教育・社会化、親の知識や習慣の伝達だけでは充分ではない。多様な考え、多様な文化に触れる機会が重要であり、家庭の中だけでは解決できない。
社会の高齢化は、多くの人にとって介護を必要とする生活期間が長くなる可能が高まることを意味している。高齢者の長期にわたる介護は、多くの労力と専門知識を必要とし、個人や個々の家族だけでは十分な対応はできない。
消費費用をシングル(独身)であれ家族の一員であれ一個人が負担することには無理がある。その意味で、家族の中の誰かひとりが専門的担当者となること自体余り適切とはいえない。家族員の間ではできるかぎり不公平のない分担が必要。自分でできることは自分でやるのが適切。家事と職業労働の得意不得意が家族成員間で非常にはっきりしていて、なおかつお互いに合意できるのであれば役割分担もあり。しかし、ここの家族事情を無視して、一律に女性=家事/男性=職業と決め付けるのは不当。要は個人としての適性や希望に従うべき。
高齢化によって不足する可能性があるのは、消費手段Km1だけではない。それを消費するために必要な消費労働も不足する。したがって、この解決には、消費労働と生産労働を両立させることが必要となる。つまり、生産的労働と消費労働の双方の場面で両性の協力、共同参画が要請されるのである。「家事」との両立が可能であるような生産的労働の仕方が工夫されなければならない。
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はははっ、「消費労働」だなんて、渡辺某か角田某、大吹某たちみたいなカテゴライズじゃない?
こういう質料論だと形態論の一路神秘化まであと半歩もないかもねw
2012/1/31(火) 午前 9:28 [ バッジ@ネオ・トロツキスト ]
う〜ん,もともとルービンよりはコーンよりなので,質料論になっちゃうんですよね.でも形態論の神秘化は,自分でもいやだなぁ。
どうしてそうなっちゃうんですかね。また,どうしたら避けられますか。
角田さんについて,問題点があらわれている文献などあれば教えて下さい。
2012/1/31(火) 午後 2:34 [ 阿蘇地☆曳人 ]
生産的労働論争やサービス労働論争でも価値形成性次元と労働の本源的規定次元の両方で大混迷があるのご存知でしょ?
ま、有井行夫氏が株式会社論・所有理論で指摘した20世紀的理論態度が問題領域を問わず広く浸透しているということなのでしょうけれど。
角田さんなんて、そういう有井氏の指摘自体まで歪めて他人のプライオリティーを簒奪しちゃってるけどね(例えば『「資本」の方法とヘーゲル論理学』P.239など)
生産的労働の質料論を誤ると形態論もたんなる物象化論になるってことです。
事物の本質は過去にではなく、未来にこそあるということなのかなw
2012/1/31(火) 午後 7:58 [ バッジ@ネオ・トロツキスト ]