全体表示

[ リスト ]

社会主義・共産主義と個人崇拝

社会主義・共産主義の国家では指導者に対する個人崇拝が盛んに行われるような印象があるのですが、私の思い違いでしょうか?

また、個人崇拝が盛んであるならばそれはなぜなのでしょうか?
よろしくお願いします。
 
暴力で政権を獲得&暴力で政権を維持=政権の正統性の確保が、普通のやり方では難しい→暴力や思想統制が必須=個人崇拝の強要となります。

 
《暴力で政権を獲得&暴力で政権を維持=政権の正統性の確保が、普通のやり方では難しい→暴力や思想統制が必須=個人崇拝の強要》

なるほど、政権の獲得の仕方が支配様式を規定するという仮説なのですね。しかし、これは一般的な法則としては成立しません。
スイス、アメリカなど例外があります。

暴力で政権を獲得しても個人崇拝が生まれるとは限りません。史実によって証明されています。

 
社会主義や共産主義国家では、通常は共産党の一党独裁であり、
議会にも本当の野党勢力は存在してません。

さらに、共産党は党の構造上、集中制をとっており、党のトップ(書記長や総書記や第1書記など)へのオープンな批判は、党内でもなかなか出来ません。

ですので、いったん権力を握った党のトップが長期的に権力を握ろうと、し始めると、それに敵対する事も難しく(・・・直ぐに左遷・粛清されてしまう) 国民の選挙によるチェックも働かず、議会の野党からのチェックもなく、 どんどん独裁的になっていける構造なのです。
 
 
一党独裁や集中制が、個人崇拝を生むという「説明」は、何事も説明していません。

なぜ、そのような制度が支配的地位を獲得したが説明されるべきことなのに、この「説明」は、それを前提に議論を組み立てているからです。

また、集中制は、支配の近代的型である合法的支配(官僚制)に共通してみられるもので、「現存社会主義」だけに固有のものではありません。われわれの社会においても一般的なものであり、ウェーバーも言うように、それは、私的企業においても、実に一般的なものです。もし、集中制が個人崇拝を生むなら、資本主義的企業のほとんどでカリスマ的経営者が出現していなくてはならないでしょう。

しかし、例えば、この日本は、カリスマ的経営者が少ないことで知られています。
 
さて、本題です。

いわゆる「現存社会主義国」(幸いなことに既にほとんど「現存」しなくなってきていますがww)において、個人崇拝が盛んに行われていることは、まぎれもない事実です。

その原因は、これらの国々の生産関係が、資本主義以前の社会の生産関係である人格的依存関係の性格を色濃く残しているからです。

資本主義以前の社会は、生産力の発展が不十分なために、他の共同体、他国、自然災害etc.に対抗する個々人の力は弱く、諸個人は、共同体を形成し、結束して事に当たる必要性が圧倒的に高い社会でした。そこでは、個々人の自主性、自立性は制限され、共同体全体の都合が優先されます。共同体全体の都合は、伝統的慣習や長老たちの権威によって代表されます。ウェーバーの言うところの伝統的支配です。

間違って「現存社会主義」と呼ばれてきた諸国(正しくは<国家資本主義>)は、先進諸国が資本主義の成熟期をかなり経過した後に、ようやく資本主義化を開始できた国々で、つまりは、上記の伝統的支配の状況の下で、かなり強引に資本主義化を進めざるを得ないことになっていたわけです。

再び、ウェーバーを参照すれば、資本主義化は、伝統的支配を合法的支配(官僚制)に転換させることですから、かの諸国でも伝統的支配を合法的支配に改める努力が一応は払われましたが、被支配者の側にそれを受け入れる土壌が十分に成熟していないために、支配を正当化するにあたって、非近代的な手段に訴えざるを得ませんでした。

これが、突出した個人の能力によって支配を正当化する「カリスマ的支配」(個人崇拝)です。これは、完全な矛盾です。合法的支配である官僚制への支持を取り付けるためにカリスマの権威を利用するのですから。

しかも、個人崇拝は、一時的なものとして成立する場合が多くそのままでは、持続性を持ちにくいものとなっています。そこで、慣習化や世襲化を通じて持続性を持たせることから、伝統的支配が形成されていくのです。

つまり、国家資本主義諸国では、

伝統支配⇒合法的支配の導入(行き詰まり)⇒カリスマ的支配⇒(慣習化・世襲化)⇒伝統的支配⇒合法的支配の導入

という循環が起こっていると考えられます。しかも、この過程の全体を通じて、社会の客観的な傾向としては、合法的支配への移行が、常に追求されていて、その時々の支配の型は、あくまでも合法的支配を導入する手段として位置付けられているということです。

国家資本主義では、このような循環を繰り返しつつ、合法的支配の定着が徐々に進んでいくものと考えられます。

官僚制の失敗が、国家資本主義体制それ自体を脅かし、近代化のとん挫の危機が迫ってくると、カリスマ的支配が出現して官僚制を抑制してでも、国家資本主義への被支配層の帰依・崇拝を回復させようとした事例の典型は、中国の文化大革命です。このとき毛沢東への個人崇拝は、一時的なもので、ただちに四人組による長老支配へ移行、その後結果的には、合法的支配へ向かっての変化が徐々に進行しています。

このように、「現存社会主義」(国家資本主義)は、資本主義から資本主義後の社会への移行期ではなく、資本主義以前の社会から資本主義への移行期であるため、近代以前のカリスマ的支配、伝統的支配から、十分離脱できていないので、個人崇拝が頻繁に発生します。
 

 





イメージ 1


草莽崛起(The Rising Multitude)

閉じる コメント(4)

Yahoo!アバター

転載させて下さい。

2012/2/19(日) 午後 2:22 [ 短足おじさん ]

顔アイコン

ありがとうございます。

お願いいたします。

2012/2/19(日) 午後 6:25 [ 阿蘇地☆曳人 ]

顔アイコン

個人崇拝については、もっと端的に商品生産(商品交換)にそくしてその物質的基礎の崩壊が説明されるべきだと思いますがねぇ・・・・私的所有者としての相互承認と人権、民主主義(つまりは個人崇拝の否定)の関係についてですよ。 削除

2012/2/20(月) 午前 9:35 [ バッジ@ネオ・トロツキスト ]

顔アイコン

確かに、個人崇拝が、「問題」として意識されるということは、すでにその否定が始まっていることですから、「現存社会主義」でもその物質的基盤は、崩壊しつつあると言うことまで書かないと不十分ですね。

ありがとうございます。

2012/2/20(月) 午前 10:09 [ 阿蘇地☆曳人 ]

コメント投稿
名前パスワードブログ
投稿

閉じる トラックバック(1)

トラックバックされた記事

イデオロギー狂者が社会性を持たない国/繰り返される非常識

      あさま山荘事件から半世紀たつらしい。イデオロギー闘争史なんかを読むと、「あさま」世代だけでなく、どの世代の活動家にしても「非常識なヤツばっか」という印象を持つ。 共産党員の暴走しかり、よど号事件しかり、理念の結果としての反社会的活動(法的意味のみならず倫理的な意味においても)がもたらした、日本社会全体との対立構造が、最終的に彼らの理念そのものに対するマジョリティーの忌避を生む。   戦後日本...

2012/2/22(水) 午後 9:56 [ 浸食すること桜の如く ]

トラックバック先の記事

  • トラックバック先の記事がありません。


.

人気度

ヘルプ

Yahoo Image

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
  今日 全体
訪問者 67 54160
ブログリンク 0 37
コメント 0 944
トラックバック 0 144
検索 検索

標準グループ

ケータイで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

URLをケータイに送信
(Yahoo! JAPAN IDでのログインが必要です)

開設日: 2009/12/21(月)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.