アソシエーション論の基本概念

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

アソシエーション社会における社会的分業の特徴

マルクス派アソシエーション論の基本概念 Vol.9

アソシエーション社会では、直接的に社会的労働が行われるため、商品、貨幣、市場は存在しない。しかし、市場社会でしか暮らしたことのない人間にとって市場のない生活というのは、全く想像しがたいものであろうが、次のような証言は参考になるだろう。
 
(1)「経済の領域において、ボランティアやNPOなどが果たす役割が大きくなってきている。このように、個人の自発的な参加と人的つながりがベースになって成立している経済システムは、ボランタリー経済と呼ばれる。そこでは、市場においても流通可能な財やサービスが、無料あるいは低価格で提供される。このシステムは、政府による『公』、市場を通じた民間部門による『私』の領域に対して、『共』の領域と位置づけることができる。」(大野正英「ボランタリー経済の可能性」―麗澤大学モラロジー研究センターのHP―)
 
(2)「『脱市場化』の徴候も顕著になっています。①需要者と供給者とのリアルタイムのマッチングが可能となる→②両者をつなぐネットワークがさまざまな情報の交換チャンネルとして使える→③両者間で、ただ価格情報を流すだけではない、さまざまな形での関係が生まれる→④ネットワーク上のコミュニティが創出される。/こうして、従来の市場による交換を超えた『協創パートナー型』とも呼ぶべき関係が構築され、より多様な人々の価値観や文化を包括する双方向の情報のやりとりがなされます。ここでの関係は、市場による交換ではなく『2以上の対等な関係にある当事者が市場によらずにやり取りすること』として定義される『互酬』の関係です。『交換』が、市場での個人の合理的な私利に基づいて構築される関係であり、『再配分』が、財・サービスの動きを中央(政府)がコントロールする関係であるのに対し、『互酬』は、個人の合理的な計算に基づく取引でも、政府による強制・指示によるものでもないことから、一般的には第3の関係として位置づけられていますが、人類史的にはこちらがベーシックです。」(三ヶ本万州夫「脱市場化と互酬性」―言論サイト「るいネット」への投稿―)。
 
(3)「私は、日本でも最近盛んになりつつある地域通貨の試みは、ここまで論じてきた社会的連帯関係の問題として捉え返すことができるのではないかと考えている。「地域通貨」という呼び方は既存の貨幣経済の存在との関係から生まれたものだと思われるが、「地域通貨」の実際は「通貨」と呼ぶには必ずしも適していない のではないか。「地域通貨」として表されているものは、単なるモノやサービスの交換関係ではなく、人と人の結びつきそのものである。それがお互いに目に見 える関係になっているのであり、人と人の関係が「物と物の関係」として物象化してはいないのである。」(松尾眞「環境政策論講義ノート 第3章」)
 
(4)「LETSと貨幣とのちがい/ LETSは貨幣を脱物象化している。LETSは労働交換制であるが、その国の通貨とペッグ[1]させることで、貨幣の価値尺度機能を労働交換の基準としている。計算貨幣としてLETSは機能しているが、しかし、それは流通手段でも支払手段でもない。LETSの赤字はサービスか生産物かを問わず労働提供によって補われねばならない。/ LETSを発生させることが可能なのは支払決済システムが存在するからであり、そして、この支払決済システムの内部でのみ機能するLETSは市場をもたない。ここで市場とは相互に独立した商品生産者が商品を交換する場である。/■ LETSと信用制度とのちがい/ 信用制度における支払決済システムは私的資本の所有物であり、なおかつそこで取引される貨幣は資本が商品化したものである。/ LETSにあっては支払決済システムの提供者はボランタリィであり、そのシステムは参加者全員の共同占有となっている。私的資本がつくり出した支払決済システムの技術を土台に誰もが支払決済システムを容易に使いこなせるようになったことが大きい。」(榎原均「<地域>通貨LETSについて」)
 

[1]ペッグ=peg:釘付け。「1レッツ=100円」というように地域通貨と正規の貨幣の交換を認め交換の比率(レート)を固定すること。
 
 
 
 
 








イメージ 1




草莽崛起(The Rising Multitude)

閉じる コメント(0) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

<生産関係>概念

マルクス派アソシエーション論の基本概念 Vol.8

生産関係とは

人間は、生産過程において物を生産し、それを分配し、消費することによって、生産物すなわち生産や消費の手段・対象としての非有機的身体を生産し、自分自身の肉体(有機的身体)を生産している。そしてさらにこうした一連の活動を行うための人間同士の結び付き(人間関係・社会関係)を生産している。言い換えれば生きて活動して行くために必要な物質的な諸手段を生産することは、それだけのことではなく、結果的に人間自身の肉体や社会関係までも作り出すことになるのである。マルクスは、このような生産物、肉体、社会関係の生産を生活の生産と呼び、生産によって作り出されるとともにその中で生活の生産が行われもする社会関係のことを生産関係と呼んだ。
 

生産関係のタイプの違いは何によって決まるか

生産関係には、大きく分けて次の3タイプがある。人格的依存関係、物象的依存関係、人格的連合(アソシエーション的)関係。これらの違いがどこから生じるのだろうか?この3つの生産関係の相違点は、直接に現場労働を担当する人々(労働する諸個人)が、「どのような資格や権限を持って、どんな態度で生産手段を活用するのか(自分のものとして扱うのか/他人のものとして扱うのか、社会の他のメンバーと相談しあって扱うのか/他人の意見には排除して独自の判断で扱うのか)」、消費手段を「どのような資格や権限で入手し使用するのか(自分のものとして入手・使用するのか/共同体からの分け前として受け取るのか)」といった点の違いから生じている。以下それぞれの生産関係についてみてみよう。
 

生産関係の代表的3タイプ

人格的依存関係;人々は共同体の成員として互いに一体化したもの、人格的な自立性を持たずに互いにもたれあっているものとして振る舞い、生産手段をそのような一心同体的な共同体の所有物として取り扱う。すなわち共同体(の他の成員)と一体化することで生産手段とも「一体化」 している。消費手段も共同所有物からの分け前として共同体またはその長から直接分け与えられる。古くから掟(おきて)やシキタリ、共同体の長の意思に従って生活する。原始共同体では成員間の関係はほぼ対等だったが、共同体が徐々に崩れて行くにしたがって支配隷属関係が発生し、アジア的奴隷制、農奴制、隷農制などの種々の人格的依存関係が生まれた。
 
物象的依存関係;商品生産関係とも言う。商品生産関係自体が、小商品生産関係と資本主義的生産関係という2つのサブ・タイプに分かれる。小商品生産関係と資本主義的生産関係に共通する性格としては、自分の生産手段または所有者から扱いを任された生産手段に対して労働する諸個人が互いに自立した(お節介を焼かない)私的個人として関わるような関係。
 
生産手段の所有者は、生産手段を自分の個人的な持ち物としてつまり、他人にとやかく言われる筋合いなどなく、自分の好き勝手に扱えるものとして扱う。各人はとりあえずは自分の都合を第一に行動する。その結果、無自覚的、無計画的に物と物の関係、物同士の関係が出来上がって行き、各人がこれらの物のうちのどれにどのように関わるかによって人間同士の関係も違ったものになってくる。彼らには物と物の繋がりは、自分が直接扱っている物を中心にしてある程度の範囲まで見えるが、物と物の繋がり(商品・貨幣の交換関係)を通じて纏め上げられている社会的分業の全体(生産関係の全体)を見通せる人はひとりもない。AさんとCさんは直接的な繋がりはなくても、Bさんと彼が扱う生産−生活手段に媒介されて、間接的な繋がりを持っている。しかし、当のAさんとCさんにはそのことが分かっていないということがありうる。そういう意味で商品生産関係では、人間同士の関係は見えにくくなっているということができる。見えにくいのだから、物と物の繋がりを通じて纏め上げられている社会的分業全体を各自が自分の意思でコントロールすることもできない。貨幣や商品のような「物」が、このように人間同士の生産関係の媒介(仲介)をするようになり、その結果、個々人の意思ではなく、商品・貨幣など、「物」の運動がいわば「自動的に」生産関係を変化させるようにみえるとき、これらの「物」を《物象》と呼ぶ。
 
物象的依存関係=商品生産関係の第1のサブ・タイプは、小商品生産関係である。その特徴は、労働する諸個人(労働力を支出する当人)が同時に生産手段の所有者でもあるという点にある。彼らは生産手段を自分のものとして扱うことができる。消費手段は自分の生産物を売って得た貨幣で購入する。これとは違って、物象的依存関係=商品生産関係の第2のサブ・タイプである資本主義的生産関係では、生産手段が労働する諸個人から分離され、労働する諸個人はそれを他人のものとして扱わなければならない点に、特徴が認められる。資本主義的生産関係における労働する諸個人は、自分の労働力を商品として売らなくては行けないので、販売した労働力という商品の消費として行われる労働を買い手の意思にそうように進めなければならない。逆に労働力の購入者は労働力と生産手段を他人にとやかく言われる筋合いなどなく、自分の好き勝手に扱えるものとして扱う。このような労働力の買い手と売り手の関係を資本−賃労働関係と呼ぶ。
 
人格的連合(アソシエーション的)関係;資本主義的生産関係に変わる新しい生産関係。自発的な自由な協同労働を基礎にした生産関係で、古い共同体にみられた生産関係の共同性と資本主義が確立した諸個人の自立性とが同時に実現される。もともとアソシエーションとは、何らかの共通の目的のために、人々が自発的に結成する協同組織のことで、アソシエーション自体はサークルや各種の協同組合、ボランティア団体etc.として資本主義社会にも存在する。人格的連合(アソシエーション的)関係とは、生産関係自体が自主的、自発的協同組織のようになっている場合を言う。そこでは、労働する諸個人が、自発的に協力し合う諸個人として、生産手段を協同利用の対象として取り扱う。資本主義社会では、協同組合などアソシエーション的な生産関係がわずかながら存在するが、資本・賃労働関係が支配的であって生産関係全体がアソシエーション化するところまでには至っていない。

 
 
 








イメージ 1




草莽崛起(The Rising Multitude)

 
 
 
 
 
 
 

閉じる コメント(0) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(1) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

マルクス派アソシエーション論の基本概念Vol.7

 

物象化

物象化とは、人間同士の経済的な関係が物と物との関係に置き換えられてしまっている状態である。商品生産関係の中では、個々ばらばらに経済活動の内容を独自の判断で選択している各経済主体同士の、社会としてのまとまりやつながりは、ただ商品と貨幣の運動を通じてしか実現しない。こうした社会では、人々が社会全体、生産関係全体をどうするかを自覚的に決めているわけではなくて、社会の状態や人々の関係の全体は商品や貨幣の運動次第でいわばひとりでに変わってしまう。そのため、急激な景気の悪化や不況の長期化、環境問題など、個々人には予測の難しい経済的な変動が生じることになる。一人一人の人間は、全体としての社会の動きをどうすることもできず、ただこの流れ・変化にうまくのって、失敗しないようにうまく立ち回ることしかできないように見える。商品や貨幣の運動に人間の方が合わせなくてはいけなくなっている。こうした状態を物象化という。
 

物神崇拝

物神崇拝は、物象化の結果生じる人々の意識の状態である。それはどのような意識かというと、商品や貨幣には、様々な経済的な力が「自然的に」備わっていると無意識のうちに信じ込む意識である。貨幣さえあれば何でも買えるという意識や土地の価値は絶対に下がらないといった意識である。商品や貨幣の力は実は人間自身によって人間たちの関係の中で与えられたものでしかない。人間たちの関係が変われば、商品や貨幣はその効力を失うかもしれないということ、商品や貨幣が存在しない経済システムもありうるということが忘れられている。
 
 
 

              草莽崛起(The Rising Multitude)

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

マルクス派アソシエーション論の基本概念Vol.6

ジェンダー
「社会的性」。身体構造などに現れる生物学的な性(セックス)に対して、社会制度・社会慣行や文化・習俗を通じて男女それぞれに割り当てられる「属性」のことである。ジェンダーは、セックスにもとづくものであるとされて、自然的、物質的根拠を持つものと考えられてきた。しかし、生物学的性と性自認のズレ[1]、ジェンダーとしてセックスグループに割り当てられる「特性」と個体差とのズレ[2]が存在することを考えれば、ジェンダーは、自然的、物資的根拠から一義的に導かれるものではないことは、明らかである。
 近代的性別役割分担
いわゆる“家事労働”の主たる担い手を女性とし、職業活動(賃労働、事業経営)の主たる担い手を男性とする社会的慣行のこと。この慣行も、生物学的性差によって説明され、自然的根拠を持つものとされてきた。しかし、この慣行は、私たちの思い込みに反して、近代の産物なのである。
 
《こうした関係をひとつの具体例によって描き出してみよう。一八世紀はじめのフランスのセーヌ・マルヌ地方での話である。二人の人物、ヴイルヌワユでブドウ作りをしている農夫のジャン・ブリックと、その妻カトリーヌ・ジラルダンが、【…中略…】夫婦のあいだには実にさまざまなそして補完的な分業形態が繰り広げられた。しかし、それにもかかわらず、家の外での男性の賃労働と家の中での女性の無報酬の家事労働とのあいだの分業、というような分業形態だけは存在することがなかった。》《わずかに得られる手がかりからは、一七世紀以来、女性が商業や手工業の広範な領域から締め出されていくことが読みとれる。女性はこうして、かつての共同「行為」 への参加から排除されていったのである。》(ドゥーデン、ヴェールホーフ『家事労働と資本主義』、岩波現代選書、1986年、P.6〜7、P.39。


[1]いわゆる「性同一性障害」のように生物学的に女性、男性であっても、当人の意識においては逆ということがありうる。
[2]一般的に、男性は「力強く」、女性は「か弱い」とする社会通念があるが、一人一人を見れば、力強い女性も、か弱い男性もいる。
 
From the album "gender studies" (2008)
 

              草莽崛起(The Rising Multitude)
 

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

マルクス派アソシエーション論の基本概念 Vol.5

アソシエーション社会と「社会主義」の関係
 
マルクス以前の様々な社会主義潮流
 
私的労働を否定し、今でも個別の企業のレベルでは行なわれている協同労働による経済運営をより大きな社会集団のレベルで組織していこうとする考え方は、一般に、社会主義、共産主義と呼ばれてきた。両方の呼び方があるのは、この理念の実現の方法、制度設計の細部について諸説があり、そうした相違に従って、当の主義者たちが、自分の思想を共産主義と読んだり、社会主義と呼んだりしてきたからである。
 
2つだけ、例を挙げる。
 
1.トマス・モア、カンパネルラなどのユートピア的社会主義キリスト教的理想に導かれた禁欲的・賢人政治的な共同体国家を理想としている。
 
2.フランスのルイ・ブランやドイツのラッサールなどに見られる国家社会主義国営工場による失業労働者救済、国家の資金で設立される労働者協同組合工場の唱道など、今日の社会民主主義や社会保障制度の元となった考えである。
 
カンパネッラやモアといった資本主義未確立時代の共産主義者の答えは、簡単であった。個々人の私有を認めず、すべてを共同体の所有とすればよいと考えられた。単純に、少し前まで実在していた、あるいはまだ完全に破壊されつくされてはいない伝統的な共同体所有(人格的依存関係)に帰ればよいと考えられたのである。伝統的共同体では、個人は自分が自由な主体であるとはさらさら思っていず、掟や仕来たり、共同体のリーダーにしたがうのが自然で当たり前と感じていた。そのような状態に後戻りすることが、そのままストレートに主張される場合ばかりではなかったが、
 
2の立場も、「社会主義」を自称する場合があり、一般からも社会主義思想の実現、追求とみなされているが、その内容を客観的に分析してみる限り、資本主義の修正にとどまっているといわざるを得ない。実際、私的労働や資本・賃労働関係と両立可能な施策であり、彼らの主張の多くは、今日の資本主義政府によっても採用されていることからも、資本主義に代わる新しい社会の追求という本質は認め難い。
 
 
マルクスの「アソシエーション社会」論
 
生産手段の協同利用に基づく個人的所有の再建を目指す。マルクス自身は、自分の思想については、時期により社会主義と呼んだり、共産主義と呼んだりいろいろであった。それは、周囲の反資本主義的思想潮流との提携の必要、あるいは逆にそれらとの対抗の必要から、そうしてきたものと思われる。
 
しかし、将来社会については、社会主義、共産主義という呼称で呼ぶことは非常に少なく、アソシエーション、協同組合的社会という呼称を多く用いていた。
 
この社会の決定的な特徴は、人格的連合(アソシエーション的)関係という新しい生産関係を基礎とする社会であるという点に求められる。そこでは、自主的自発的協同労働が基本的な労働の在り方となるので、見込労働である私的労働も、資本の自己増殖のために資本の代理人である資本家の意志に従って自分の労働力を消費させられる労働である賃労働もともに消失する。
 
マルクスの理解では、アソシエーション社会は、資本主義の発展の結果、資本主義社会の内部のその萌芽(胎児)というべき諸要素が形成され、これを開花・発現させることで示現できるものとされている。
 
その要素とは、「協業」(複数の労働者が共通の目的のために協力して労働すること)と、その際に行われる生産手段の共同利用である。この二つの要素は、大工業生産様式において、著しく発達する。資本主義の枠内では、大工業はその持っている力を十分に発揮しきれない、例えば、それは、協業のための共通目的が、資本家によって外から与えられた目的でしかなく、労働者の「やる気」を今以上に引き上げることが難しいという点に現れる。
 
もし、この目的が、労働する諸個人が類的存在としての自己の本質の実現プロセスの一環としてこの協業を自主的自発的に形成実行するための目的として設定されるなら、労働は、「やらなければならないこと」から「やりたいこと」へと一歩接近し、労働者の「やる気」を引き上げるだけでなく、労働の労働者自身の肉体的自然や生態系などの環境的自然により適合なものへと接近していくであろう。
 
いわゆる「現存社会主義」
 
ソ連をはじめとする東欧諸国、中国、北朝鮮、ベトナムなどアジアの一部、そしてアフリカの一部などには、「社会主義」を自称する政権が樹立された。その多くはすでに存在しないがごく一部が今でも存続している。また、これらの国々では、政府関係者は、自分たちの政策がマルクスの理論に基づくものだと主張することが多かった。
 
しかし、彼らの主張をその言葉通りに受け取ることはできない。
 
マルクスが資本主義の内部においてその要素が形成されつつあり、やがてそれが発現するとみていた「アソシエーション社会」を、マルクス自身もごくまれにではあれ、そう呼んだように「社会主義」と呼ぶとすれば、そのようなマルクスの理論に基づく「社会主義」は、上でみたように、私的労働と賃労働に代えて、自主的自発的に組織された協同労働を生産活動の基本に据える社会である。
 
ところが、いわゆる「現存社会主義」の諸国では、そのような自主的自発的協同労働は、行われず、国家官僚がユーザーのニーズをほとんど無視して見込みで策定した計画を、ほとんど強制的に労働者たちが実行させられ、引き換えに賃金を受け取るという労働の在り方が支配的だった。これは、政府、国家によって運営される資本主義的労働である。
 
そもそも、こららの国では、「アソシエーション」に移行するために必要な発達した協業と生産手段の共同利用、すなわち大工業自体が未成熟であり、さらには、小経営などの資本主義以前的な生産様式がまだ主流を占め、資本主義としての基礎、資本・賃労働関係自体も十分には成熟していない状況にあった。要するに、西ヨーロッパなどに遅れて資本主義化をようやく始めたかはじめようとしているところでしかなったのである。
 
そのような地域では、真の「社会主義」、「アソシエーション」の形成など直接には問題にもならない。むしろ、資本主義の発達をまずは実現しなければ、ならなかったはずである。そして、実際、これらの国で興った社会変革の内容は、「社会主義」の看板に反して、資本主義の形成(資本・賃労働関係の大量創出)と資本主義の成熟化(大工業生産様式の普及)という本来長期を要する二段階のプロセスをほぼ同時的に急速に達成しようとするものであったのである。
 
資本主義を乗り越えた社会、資本主義の次に来る社会ではなく、大急ぎで資本主義に向かおうとする社会、それが「現存社会主義」の正体であった。
 
マルクスのアソシエーション論は、社会主義・共産主義と称される思想潮流の一つに他ならないが、個人の自主・自立・自由を否定する人格的依存関係への復古に希望を見ようとする初期の社会主義・共産主義とも、国家による経済管理を社会主義の実現とみる、ラッサール流の改良型資本主義とも、後進国での急速な資本主義形成の手段であった、「現存社会主義」とも根本的に異質なものであった。
 
 
 
 

 

                 草莽崛起(The Rising Multitude)
 
 
 
 
 
 
 

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.

人気度

ヘルプ

Yahoo Image

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
  今日 全体
訪問者 67 54160
ブログリンク 0 37
コメント 0 944
トラックバック 0 144
検索 検索

標準グループ

ケータイで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

URLをケータイに送信
(Yahoo! JAPAN IDでのログインが必要です)

開設日: 2009/12/21(月)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.