ソラリスの青い海

幾時代かがありまして…茶色い戦争がありました…今夜此処でのひと盛り

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2010年2月23日

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佐伯外伝2

 もう一つ、かする程度の縁の話である。
 先の義母の息子、即ち私の義兄は、現在も荏原製作所という会社に勤務している。彼が大学院を出て入社したばかりの時に「酒井億尋」は相談役として在籍していた。
 この酒井は荏原の創業者の妹を娶り、その後社長、会長を歴任、今日のような大企業に育て上げた功労者のようだが彼にはもう一つの顔があった。彼は佐渡ヶ島から上京した当初は画家志望であったが、強度な近視でもあり、幸か不幸か会社の出世コースに乗ったので、実作より周辺のことで本邦美術界に多大に貢献することになる。彼は、ルノワールなどを所持したり大正、昭和期の画家達のパトロン筋であったりした。また梅原龍三郎や安井曽太郎などとも交流があり、安井は家も近所で、荏原の熱海寮で長期滞在し制作したこともある。そういう関係もあるのか、彼はつい最近まであった洋画界の登竜門、「安井賞」を主宰する財団法人安井曽太郎記念会の理事長を務めていた。
 この酒井は「中村屋サロン」で5歳ほど年長の中村彝を知る。家も供に下落合近辺であり頻繁に彝のアトリエに出入りし、彝も相当酒井に助けられたはずである。後年「中村彝会」が彝のアトリエの維持に困難が生じた際、これを買い支え、先に述べた鈴木誠の所有に繋げたのも彼である。 
 酒井は故人となったが、これも80年前の話に温度を感じる。で実はこの酒井億尋は件の佐伯祐三の下落合のアトリエの地主らしいのである。「らしい」というのは、当時の住宅地図と課税台帳とに名義人につき違いがあるということである。前者については「酒井億尋」名義の地番で、隣接する二筆の土地の一筆が確かに佐伯アトリエの場所であるが、後者のでは別名義となっているのである。 ただ、登記簿に「公信力」ないのと同様、課税台帳は所有権の実体を反映するものとは限らないので、地図の実務性の方が信用できそうだ。因みにその土地が名実ともに佐伯家のものとなったのは昭和22年。名義人は「佐伯ヨネ」(米子ではない)となっている。
 因みにこの土地取得の経緯について、落合莞爾氏による例の一連の佐伯関係の著作にも出て来る。それには藤根大庭とか吉薗周蔵とかの、落合氏著作登場人物らが一枚噛んでいるというのだ。このほか佐伯とは直接関係ないが、遠藤繁清という医師も出てくる。彼は「余命一週間」と言われた中村彝を三年も延命させた名医として彝の評伝にでて来る実在した人物である。
 その遠藤医師は、彝と佐伯の共通の友人である曽宮一念の主治医でもあり、曽宮は渡仏する遠藤医師に佐伯を診てくれるようたのんでいる。(実現しなかったようだ)その遠藤医師が登場するのは、吉薗関係文書中で、彝の「主治医」とされた件だが、その文書の信憑性に関し、例の武生市関係側からその時間的齟齬を突かれると、落合氏はそれは繁清の親戚の別の遠藤だと言っている。また氏によると佐伯作品が戦前、件の酒井億尋に渡ったそうである。これは荏原なり酒井家調べれば答えが出ることだろう。
 このように史実を「吉薗資料」と関連させて論じそれにリアリティーを与えると言う落合氏のレトリックは随所で見られるが、証拠、根拠を伴わなければSFならぬHF(ヒストリーフィクッション)ということになってしまうだろう。

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佐伯外伝1

 明治、大正から終戦後ぐらいまでの本邦美術界は未だその世界が小さく、その動向や情報も限られていたので、その間の出来事や、居住地域、人脈にも今日的感覚では驚くような接点が見られるが、ましてやそれが、掠る程度の縁であっても自分の身近にそうしたものを感じると、客観的に評伝でしか知見できなかったものが俄然リアリティーをもって迫ってくるし、遠いと思っていた歴史が意外に近いと感ずるものである。
 佐伯米子は戦後まもなく三岸節子らとともに「女流画家協会」を設立する。この創立メンバーに深沢紅子という画家がいた。現在その出身地盛岡と軽井沢に「深沢紅子野の花美術館」というのがあり、今でも一部に根強いファンがいるようだ。
 彼女は旧姓四戸、1919年盛岡高女を卒業し女子美大日本画科に進み、洋画に転向、1923年同郷の画家深沢省三と結婚する。1936年、安井曽太郎、山下新太郎、有島生馬などとともに二科会を脱退、一水会設立に参画しその後委員として諸々の指導的立場に立つことになり、1993年、夫省三死去の一年後90歳で死去する。紅子のアトリエ跡は拙宅そば、練馬区の石神井川に面した高台の斜面に現存する。
 私の義母の女学校時代の親友と紅子のアトリエの地主が、それぞれの子が通う自由学園を通じて知り合いであり、そういう関係が巡り、紅子と義母も、家も近所ということもあり懇意となった。紅子の一水会出品作で義母がモデルの作品もある。その義母も故人となったが、紅子のアトリエの設計図や「野の花」の画集、省三の挿絵による絵本、省三死去時の紅子名義の、紅子死去時の子息名義の「会葬御礼」のはがきなども残っており、相当の往来を感じさせる。
 一方、その夫深沢省三は長身であることにより「ジラフ」との仇名で呼ばれていたそうだが、彼はかの鈴木三重吉主宰で児童向け雑誌のパイオニアの「赤い鳥」に関係し童話の挿絵画家としても実績ある画家だった。1899盛岡生まれ、実は彼は川端画学校、美校で佐伯祐三と同窓で、一部佐伯評伝中にもその名が出てくるのである。つまり、佐伯米子と深沢紅子は女流画家協会の設立会員で繋がり、佐伯祐三と深沢省三も旧知の間柄であったということになる。
 その佐伯祐三は北野中学時代野球部員であった。その関係から省三に誘われ「赤い鳥」グループの野球部に関係したとの評伝もある。省三自身も野球をしていたので、佐伯の名前は野球雑誌を通じ、川端画学校で一緒になる前から知っていたというのは省三自身の言葉であり、佐伯とキャッチボールをしていたと言う話も残っている。
 この佐伯の野球に関し、彼は、現在の「春夏の甲子園野球」の前身である全国中等学校野球選手権地区予選に出場し、キャプテンにもなり、その名が見える記録も野球博物館に残っているなどかなり本格的なものとする一部評伝では、佐伯の野球は「運動オンチの趣味程度」と記述している阪本勝に対して、他にも事実との齟齬や佐伯関係者の証言をあげ、阪本は本当に佐伯の親友であったのかなど全体に疑問を投げかけているのもある。

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