ソラリスの青い海

幾時代かがありまして…茶色い戦争がありました…今夜此処でのひと盛り

絵に関する能書き

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遥か頂を望み3

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Ψ 筆者作「城と橋のある街」 M50 油彩(大作ギャラリーより転掲)

 ものごとを習う、学ぶに遅すぎることはないという言葉があるが、それもものによりけり。確かに時間的制約があるものもある。造形世界は、子供の頃からデッサンの一から始めた人でも、その奥義を極めるというのは難しい。多くの先達が自己の未熟に比し、残された時間の少なさ述懐している。しかし、そうであっても、洋画は懐の深い世界でもある。必ずしも美大で学ばなくても、厳格な造形アカデミズムをものにしなくても、下手なら下手なりに活路はある有難い世界が洋画の世界である。
 例えば風景画を描く時、自然はウソがない。それと通い合う、美意識や造形モテベーションにもウソはない。だから下手でもなんでも、「一定の要件により」一生懸命自分の持っているものをぶつければそれなりに真実の作品ができるのである。
 先のルソーもグランマもそうであるし、精神尋常ならぬゴッホも知的障害を抱えた山下清もアル中のユトリロも、みんなそういう絵である。ただ共通していることは、総て「絵画的価値」を具備しているということである。
 どんな世界でもそれなりの価値体系がある。絵画にも絵画的価値というものが厳然としてある。これに背を向けては話にならない。あるいは、描きたいものを描きたいように描け、楽しければ良いといっても、描きたいものを描きたいように描けないのが常であるし、描けなければ楽しくもあるまい。また、少しでも描き進めば、公募展に応募したり展覧会で人目に晒したくなるというのも人情である。この辺に、造形性に真正面から対峙し、相応の修行をしなければならないという必然性がある。
 ウソの無い世界でウソのない自我を求める。このことに専門家もアマトゥール(アマチュア)もビギナーもない。それぞれの立場で絵画的価値を希求する。絵画芸術の意義を理解し、造形の本質と正対する。ウソやハッタリやゴマカシや形やスタイルばかりで塗り固めても意味はないのだ。
 ≪Je pense, donc je suis (われ思う、故にわれあり≫とは、「自我は不安定な危い存在である。しかし、思惟ある時、その「思う」という行為は現実であり事実なのでその限りにおいて自我は存在できる」という趣旨のようだ。この「思う」を「描く」に変えたら、そのまま縷々述べた創造、造形の意義に通ずる。つまり描くことは自己確認なのである。そうであるならその描くという行為がけれんみのない真実でなければならない。
 私は子供の頃より数え半世紀近く絵を描き、アカデミーにも席を置き、内外数万点に及ぶ作品を見てきた。ここでの発言は、少なくてもその私が正直思うところを、その限りの責を以って述べているのである。創造の自由とはものは言いようでどうにでもなるという野放図までも含めるものではない。


☆この作品の舞台となったハイデルベルグでのアンドレリュ―の公演。

http://www.youtube.com/watch?v=IhQC8JK3XQE&NR=1

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遥か頂を望み2

 もちろん趣味・嗜好、資質・才能などの現実の問題もあるし、その意味での、真実との出会いや人生の意義や生きがいは必ずしも芸術を通じなくても得られるのであるが、自己表現、自己啓発など「自己実現」の場としても、絵画などの創造行為がその受け皿としては最適であるということは、多くの人が人生の後半そうしたものに関心を持つようになるという事実が物語っている。
 絵画でいうなら、見る→感じる→イメージする→表現する→創造するなど各プロセスは、ウソやハッタリの入り込む余地のあろうはずがなく、その意味で純粋な自分自身のものである。諸々の事象、自然、生命も、自分自身の感受性、美意識、造形思想、などにより表現、創造モティーフとして選択されれば、より真実であり純粋なのものとして受け止められるである。冒頭のべた三氏もルソーもグランマも、そうしたモティベーションあればこそである。
その「社会的存在」と「原存在」について、後者は「社会性」の規制を受けないので、当然、より純粋で自由な自我ということになる。しかし自我が自由で純粋であろうとするなら、相応の犠牲と不利益を覚悟しなければならない。人生の早い時期からその道を選択した者はなおさらである。
 何故「犠牲」であり「不利益」かというと、芸術が人間社会の、「生産と消費」、「労働と報酬」のメカニズムの外の置かれているいるからである。好きなことやっているのだから生活を保証してやる必要はないというわけである。
 古今東西、数多の芸術家は、それが存在し、その創造物があればこそ、虫や動物と違う≪人間社会≫足りうるにも拘わらず、人間社会に報われることのなく、創造・表現の世界で身を削りながら生き、時にそのメティエに殉じ、そうしながらも、ただ芸術の理想と尊厳のため、諸々の自己実現のため、切磋琢磨の責任だけは果たしてきた…という事実は、数多の先達の軌跡に明らかである。
   ところで先に芸術は「個」の何たるかの問題と述べたが、絵画の場合それを「なりわい」とせんとするなら、どうしても現実の画壇とか市場というものと関わりをもたなければならない。しかしその画壇や市場も一つの「社会」に他ならない。とりわけ本邦のそれは、世界に類をみない、個が集団に劣後すると言う歪んだ構造にある。この辺の経緯は以下の拙文で述べた。
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/61040619.html

 繰り返すが、本邦の画壇や市場の「集団性」、権威主義・ヒエラルキー、因習は世界に類のない歪んだ構図である。それは芸術の世界を名乗りながら、否、芸術の世界であるがゆえに余程通常の人間社会より胡散臭く、鼻持ちならなく「社会性」が強いという印象さえ受ける。事実、団体の傾向や流行りもの、徒弟関係や人脈に沿った「社会性」で出来ている絵もしばしば見受けるのである。
 「年鑑評価型市場体系」で問われるのは、作品の内容そのものではなく、作品の周りに付着した「看板」や「勲章」であり、買う方もその「有難み」を買うのだ。これは芸術の名において悲しむべきことである!
 とするなら、純粋で自由な創造のため、そうした「集団性」に敢えて組しないという生き方もある。これは単に、画家として生きる方法論の選択の問題ではなく、資質の問題であろう。これは言うは易く行うは難し、ただでさえ食えない世界でいっそうの純粋さ自由を求め、その内部の社会性も否定すると言うのだからなおさらである。しかしこれが本来の芸術家の姿であり宿命なのである。
 私は画家に限らず音楽や演劇、他のエンターテイメントに生きる若年に類する多くの人間を知っている。彼らもまた豊かではない。彼らが、その道での成功を望み、目指すのは良いし当然である。しかしそのため、彼らが大切にしているものを安売り、切り売りはしないだろう。それを市民的幸福と交換することになったら最初からそれだけのものであったということに他ならない。彼らはそれが自分の原存在を支え、悔いのない人生となることを知っている。彼らの多くが、いくら貧乏しても、今度生まれる時もまた同じことをしたいと思うだろう。生涯のメティエとはそういうものだ。

 ところで、ネット世界に斯様な御仁がいた。絵描きはプロとアマがいるらしい。この選別自体、当人の絵画芸術に対する認識の低劣さを語るもの。プロ・アマを言うならその作品の中身を問えばよいのであるが、ともかく、そのプロとは、絵で飯を食い、税金を払っているものだそうだ。とするなら、美術史家は美術史に残る画家の納税状況を調べ直し美術史を書き換えなければならないだろう。自らプロを名乗るには「納税証明」が必要なこととなる。
 その御仁は、そろそろ天命を知り、人生だ人間だの意義や本質が見えて来ても良い御年(おんとし)である。そこ期(ご)に至りその程度の卑俗な認識しか持てないことに同情の念禁じえないが、かなりの日本人の品性と本音を吐露しているという意味では正直といってよい。
 昨今、お絵かきソフトとかPCモニターや写真等引き写しのメカニック「造形」やコンピュータグラッフィック、3Dなどの「ビックリ」テクノロジーを絵画芸術と玉石混交させる傾向が一部にあるが、この手練手管や転写作業は、その限りにおいては、「自我」を介さない、絵画の意義を予め喪失したものである。これは、モティーフと通い合う美意識も、感情や造形思想を投影させる余地も、自らの造形感覚で解釈し組み立てる手続きも、素材と関係した真の造形技術も、何も働かない、ただの子供じみた時間つぶし作業であり、もとより絵画ではない。
 この御仁はその信者である。今更腰を落ち着けて造形の基礎に取り組む時間も自信もない。何が何でもそのスローガンを貫き通さなければならない。ところが絵画芸術での立場からはそんなものは認知されるはずがない。ではどうするか?自分を認めない者の存在を「かたり」だ「もどき」だ言って、根こそぎ否定すればよい。そのためこれも先に述べた人間社会と芸術家の「常識的関係」を持ち出してくるのである。先入観や一面的情報のみで、金や地位を人間の価値判断の基準とする、まことに賎しい卑劣な態度である!こういう賎しい人間は他にもウヨウヨいる。
 ともかく、個人が何をやろうと勝手だし、その頑迷さは墓場まで持っていってもらって結構だが、ネット世界に存する、造形をまともに学ぼうとする人を混乱させるデタラメや、絵画芸術や画家全体を卑しめ貶めるものにはそれなりに対処しなければならない。
 (つづく)

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遥か頂を望み1

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Ψ筆者作 「遥かなる峰」 F30 油彩(「常設ギャラリー」より転掲)
 
 最近身近で三人の画家の経歴を知った。一人は昔私も関係したことがある画廊の経営者だったA氏で、近年市場関係の仕事は辞め画業に専念したそうである。本来は画家志望であり某巨匠にも師事したが「才能が無い」と自覚し、売る方に回った、という本人の言を記憶しているが、やはりその道はあきらめられず実作に戻ったようである。またB氏は美大を中退、長く商業美術に関係していたがこれもやはりタブロー画家として生きるべしとの決意に至ったようである。C氏は油彩ではないが、音楽が趣味であったのでその演者や楽器をモティーフとした独自の創作活動をしている。C氏は近年かなり重篤な病を得たが、その繊細でヴィヴィッドな仕事から、その創作活動が生命活力と密接に関係しているように思える。
 いずれも70歳を超えており、この他にも、その質に差異こそあれ、人生の後半に本格的に絵がライフワークとなった人は多い。この辺でいつも思い出すのは、アンリ・ルソーやグランマ・モーゼスである。 ルソーは長いこと税関の役人をし、本格的に絵に専念したのは50歳ごろ、グランマは絵を始めたのは実に75歳を過ぎてから、初個展が80才という遅さであった。
 もちろん、絵画とは何も若い頃から画家一本を志し専念して来なけならないというわけではないので、人それぞれいろいろな入り方があって良いが、そういう人たちにとっての絵画に何か特別の意義を感じるのである。それは、「終(つい)の棲家」という言葉があるが、「絵画」に「終の精神の棲家」というべき意義のようなものを見出したというようなものであろう。
 そうした、ラジカル(根源的)な自我の存在(これをここでは「原存在」と言う)の在りどころを人生の早いうちに決めていた者を除き、普通は、生活、仕事、家庭など何某かの現実の中での「社会的存在」としての自我を強いられるものである。ところがこの「社会的存在」には限界がある。一つはそれら人間社会には、ウソ、ハッタリ、ゴマカシ、駆け引き、利害関係等不純なものが横溢しているということ。もう一つは、その存在基盤である社会性はいつか必ず奪われていくものであるということである。仕事や社会的立場からはいつかリタイアしなければならず、家族とはいつかは離別する。諸諸の人間関係もどれほどのものが残るだろうか?何よりも自分自身も衰え、消滅していくものなのである。
 つまり、金や社会的地位や家族さえも、あるいは豊かな物質も便利なテクノロジーも、メディアが提供する情報や商業主義文化価値も、いざとなったら全く頼りにも救いもならない。
 行き場のない中高年やうつ病などは昨今の社会的問題となっているが、その中には、前述のような好ましからざるものに翻弄されたり、社会性を剥ぎ取られた際に自分を見失ったりするなどのことが背景にかなりあるはずである。
 まとめると、人間には「原存在」と「社会的存在」の二面的存在があり、後者が失われても確固たる前者があれば自我を見失うということはない、そして、人生の価値とは、この世でいかに多くの純粋さ、真実と出会えるか、いかなる原存在としての自我を確立し、一度きりの人生を悔いのないものとするかにあるのではないかということである。
 (つづく)

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宇和ゴールドわけ有り品

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Ψ筆者作「金色の果実」 F4 油彩

 何度か取り上げたエピソードだが、今や遥か10代の末頃、通い始めた研究所での課外講演会で聞いた某画家の言葉、「りんご一つまともに描けないのに(能書きばかり言って…の趣旨)」という言葉が常に脳裏から離れなかった。他にその道のオーソリティーが同席する中で随分思い切ったこと言うものだなぁと思ったが、それは自分にとって、絵画に取り組む姿勢とか造形の原点とかいうものになったし、そうした原点を忘れない限り、まがりなりにも、絵画芸術の精髄とか、造形の本道のようなものから逸れなくて済むといった確信のようなものを抱かせたのである。
 つまり、造形アカデミズム(写実主義)的立場に立った場合でも、りんご一つ描くのは難しい。その本当の難しさはその立場で描きこまなければ判からない。クールベの描いた「りんごとざくろ」という絵を観た時、それまでの観てきたもの、勿論自分が描いてきた「りんご」が遥かりんごにも至ってないことを思い知らされた。それはまさに生命そのものであった。先ずその傾向の場合、このアカデミックな造形性が甘いのはダメ。
 一方、アカデミズムの厳格さを避けたり、「ごまかしたり」しながらでも、ある種の絵画は成立する。印象派以降の非古典主義系絵画などがそうだ。それらは、古典主義、写実主義のアカデミズムを否定したところから生まれた。そのアカデミズムに飽き足らない新しい造形価値を提示したのである。その新しい価値とはアカデミズムに比肩、あるいは凌駕すると彼らが信じるものであったはずだ。それくらいの意義がなければ否定したことにならないからである。即ちアカデミズム以上の造形価値があるものとは、当然半端なものではないはずである。その造形感覚は相当研ぎ澄まされ、練磨されたものでなければならない。然るに昨今の本邦具象絵画は、形やスタイルばかりを追いかけ、あるいは画壇や市場という現実的事情内に収まりその辺も甘い…件の画家の「りんご一つ…」とはその辺を批判的、象徴的に言ったものであると解釈される。
 さて、自分にとって、あるモティーフが「描けるものなら描いてみろ!」というよのな感じで迫ってきたら「描いたろやんけ!」と返したほうが諸々面倒臭くないと思えるのである。
 

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リアリズム等について3

 勿論一方に、旧来からの「リアリズム絵画」というのは厳然として存在する。これは、絵画芸術である以上上記の「真実」を希求するものであるが、違うのはその真実を現実、事実を通じて抽き出そうとするものである。つまり、目的と手段が現象的には一致するのだ。それは、真実追究の一形式であり、時空を超えて生き続けているものである。それは、印象派前の古典主義系絵画と同様の厳格な造形アカデミズムを基礎とするが、古典主義絵画総てが必ずしもリアリズムではないのでここも混同すべきではない。また、繰り返すがそれは芸術の意義に敵うべきものなので、単なる表面的な「事実」の引き写しとも違う。したがって、「写真の登場によりリアリズムの意義は薄れた」などという見解は、真実と事実を混同した、リアリズムの絵画的意義が判っていない見解であるということになる。写真が登場して役目が終わったのは「お手配の人相描き」ぐらいであろう。

 ところが厄介なことに、この「事実」、「現実」、「真実」、「写実」は、英訳すれば総て「real」、「realism」という言葉になる。したがって、その限りでは芸術は凡そ「リアリズム」で括られることになるが、縷々述べたように日本語での中身の意義の違いは明らかである。したがって「リアリズム絵画」は、「造形理論的」及び「美術史学的」に定義される、≪方法論として事象の形相を崩さずにそのまま描写すること≫とすべきであろう。かつて映画の世界に「イタリアンリアリズム」と呼ばれる「自転車泥棒」、「鉄道員」などのようなるものがあったが、それは時に汚いもの、好ましからざるものもシリアスに直視したが、絵画は切り取られた限定空間であるので、それらも「美」の支配下におかれるものとなる。。
 芸術は自由であるのでリアリズムも自由である。リアリズムは写実主義であるので写実主義、描写主義も自由である。ひとたび描写主義を取るならにそれに徹するのは当たり前。相当の技術的レベルも要求される。それにより本来の「真実」が伝えられ、画家個人の絵画世界が構築されれば良い。リアリズムを主張しながら造形的には半端であるものは古典主義絵画と同様、「オール オア ナッシング」の選別を受ける。

 最後に上記に因み、広くリアリズム、とりわけ風景画に関する根強い偏見、誤解に対して一言。
 それは、リアリズム→描写主義→事実の引き写し→写真などの援用という図式に象徴される。以下は風景画に係る別拙文の援用である。
≪ 自然の美しさ、生命感、大らかさ、重厚さ、瑞々しさ、詩情、静謐さ、寂寥感、冷涼感、荒々しさ、季節感、時間的概念、温度、湿度、生活感、これらに投影される画家の資質や嗜好、思想、情緒性、正に限りないテーマが(風景画には)内在している。リアリズムにあってはこれらの把握のためには、遠近感、広がり、奥行き、森や木立や雲の質感、その重さ軽さ、空の高さ、その透明感、空気感、水の質感、その透明感、光の処理、色彩、壁や石の硬質感等の的確な表現性が求められる。そのための方法論として構成、フォルム、色彩、トーン(調子)、ヴァルール、立体感、量感、質感、マティエールなど(石膏デッサンはこれらの考え方、訓練に係る、基礎中の基礎である)の処理の問題、そのベースとしての「素材論」、その素材をこなすための、あるいは効果的な展開のための「技術論」がある。≫
 風景画やリアリズムを単純に前記図式のような概念で捉えているような御仁は、本腰を入れてそれらにに取り組んだことがないのだろう。それが写真に頼る程度のものではどうにもならないことは経験すればわかる。

  

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