今も更地として残る夢野火葬場跡 (神戸市長田区房王寺町)神戸大空襲時、火葬のために犠牲者の遺体が周辺に山積みされた歴史を持つ
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今も更地として残る夢野火葬場跡 (神戸市長田区房王寺町)神戸大空襲時、火葬のために犠牲者の遺体が周辺に山積みされた歴史を持つ
この火葬場には、子供の頃に祖父の死に際し、一度だけ入った記憶がある。
いかにも殺風景な、小さな建物であった。その後、飼っていた犬が死んだ際に、この火葬場で焼却してもらった記憶があるが、このときは同行したかどうか記憶が定かではない。
夢野火葬場跡北側の住宅地
周辺は昭和の色を色濃く残す
それは、住宅地のど真ん中に昭和の火葬場の平均的な姿を晒しており、風向きによっては周囲の町をすっぽり黒煙で包み込んでしまうことがよくあった。そんな日には自動車で前を通る際には、あわてて窓を閉め、運転手が速度を落としよく前を注意しながら走り抜ける間、息を止めてこわごわ横目で見るのである。それは、異様で壮観な光景であった。
こういう場所柄であるためか周辺は、朝鮮人がおおく住んでおり、開発は進まず今なお安アパート街の昭和の面影を色濃く残す地域となっている。
火葬場跡の公園の樹
神戸電鉄長田駅のすぐ東に当たり、正面には西神戸道路(神戸市道夢野白川線)夢野入口へと続く幹線道路が走り交通量は多い。神戸電鉄の車窓からも火葬の煙はよく見えたものである。一帯は、神戸らしい山すその傾斜地にあたり、複雑な路地が入り組み独自の景観をなしている。
火葬場のすぐ脇に焼肉屋があり、確か火葬場がまだ建っていたころから営業していた記憶がある。火葬場の前で火葬の煙を嗅ぎながら焼肉を食うというのも、考えるだに異様な光景ではあるが、その印象は強く残っている。まだ、その場所には焼肉屋だか焼き鳥屋は存在する。もちろん経営者が同じかどうかはしらない。
火葬場の跡は、公民館が建ち公園が造られているが、建物が建っていたと思しきその場所は、駐車場になっているほかは更地も目に付く。南北に縦に長い地形で、火葬場の建っていた場所はこんなにも狭かったのかと感じさせるほどのスペースしかない。この狭小地の対して窯の数もないであろう火葬場で、空襲の死者を焼くのは確かに困難を極めたであろう。
夢野火葬場跡 向こうを横切るのは神戸電鉄
夢野火葬場跡は公園、公民館となっている。
老人が一人、静かに歩いていた
また、現在の神戸市道夢野白川線夢野入口付近は、かつては風葬に地であり、長らく墓地として親しま れてきた場所だ。子供の頃によく聞かされた話だが、そこに一本の木が建っており、開発に際しその木を伐ろうとすると多くの死者が出たため、長らくそのままで残されていたといういわく付の場所である。この話は周辺の住民のほとんどが知っている有名な怪談である。
しかし、その後、西神戸有料道路の建設後に巨大な集合住宅ができ、少し北にはラブホテルである「ホテル夢野」ができ、長らく営業していた。その後、霊障はどうなったのであろうか。霊障にも賞味期間があるのだろうか。そのラブホもいつしか役目を終え、その跡地にはコーナン夢野滝山店が建ったが、程なく閉鎖してしまった。右折入場および右折出場が困難な場所で売り上げが上がらなかったのだろう。この道路は、勾配がきつい上に北から下りて来た車にとっては、出口付近のカーブのため見通しが悪く、信号で必ず停車している車列があり、さらにその手前はしばらく直線で速度が出ることから、急ブレーキと追突の名所であった。
すぐ北には長いトンネルがあるが、このトンネル上の山の東側にはお寺があり、トンネル北側からそまみちをとぼとぼ歩くとほとんど不意に、こんな場所に、と驚くようなところにそれは存在する。一度だけ行ったことはあるのだが、名前は忘れてしまった。石仏が数多く、建ち並び、小さな霊場めぐりのような感じにしつらえられていた。
夢野火葬場跡では、建築工事が行われていた。長らく駐車場となっていた場所?
話を火葬場に戻すと、神戸の湊川あたりの市街地から神戸電鉄沿いの小さな路地道があって、これは細い一方通行の道なんだが、市街から夢野へ至る唯一の主要な道路になっていて、かつては葬連道 (そうれんみち)と呼ばれていた。葬列が焼場まで必ず通る道だからである。狭い道を毎日何台もの霊柩車が黄泉の國への一方通行を繰り返していたのである。夢野火葬場なきあとは、北区の火葬場(神戸市立鵯越斎場)がその機能を果たしているが、この葬連道も今も鵯越斎場へ向かう車が通ることはあるのだろう。ちなみに鵯越斎場は、神戸市立鵯越暮園に隣接する山の上にあるため、その外観を人目に晒す事はない。夢野火葬場のように、衆目に外観を晒す住宅地に建つ火葬場は少なく、貴重なものであった。
夢野火葬場跡の公民館
入居者募集・・・焼場跡地はおいかが?
夢野火葬場跡向かい
公園から道路を見下ろす
火葬場跡地周辺の散策はいかが?
そこには思わぬ発見があるかも・・・・・・・・・・・
Google地図
夢野火葬場につき、書かれたweb記事は非常に少ない。この記事も、すぐに検索上位に来るのだろう。
数少ない夢野火葬場に関するweb記事を紹介しておく。
以下引用
2006年11月17日 (金)神戸の町筋 その5
葬連道 (そうれんみち) というのがある。字が正しいかどうか定かでない。湊川公園より少しばかり山手幹線を西へ行くと、上沢2丁目の交差点がある。ここを起点にして北へ坂道を登り、川崎病院の西側を通る。やがて神戸電鉄のガードをくぐり、菊水町10丁目交差点で平野からやって来た山麓線に合流し、そのまま西進して神戸電鉄長田駅近くまで達する道路を指している。
三宮で飲んだ後、タクシーに乗って北区にある住所を告げ、西神戸有料道路でお願いします、と告げると 「葬連道にしますか?」 と必ず尋ねられる。もっともこの場合は、山手幹線を湊川公園で北折れし、東山のあたりで西折れして神戸電鉄に沿って走り上記路線に合流する。どちらを通っても、最短距離というだけの細い坂道で、分岐が多く判りにくい道だ。
高い高架橋の上に作られた神戸電鉄長田駅の東側、山麓線北側一帯には戦前から夢野墓地と夢野火葬場とがあった。夢野墓地については明治39年9月に制定された 「神戸市共葬墓地取扱手続」 にも記述が見られ、かなり古くからあったことがうかがえる。しかし戦後の宅地化によって、昭和40年代頃に鵯越墓園へ移設された。跡地には高層マンションや鉄筋の市営住宅が建ち並び、往事を偲ぶよすがもなくなった。
夢野火葬場は戦時中の神戸大空襲のあと、火葬のために犠牲者の遺体が周辺に山積みされたという悲しい歴史があった。戦後、周辺に民家が立ち始め、火葬時の煙突から出る煙や灰、臭気などが問題になり、鵯越斎場に移転された。跡地は公園や集会所のようなものになっているようだ。葬儀の後、霊柩車を先頭にした葬列車両が火葬場に向かうのに、この道をよく使ったことから葬連道と呼ばれている。
戦前の一時、上沢通の一本北にある松本通2丁目に住んでいたので、確かに葬列はよく見かけたし、当時から葬連道と認知していた。そのころは自動車というと市バスとタクシーが殆どで、中に景気のよい医師が運転手付きの自家用車に乗って往診していた。トラックも走っていたように思うが、町中での貨物輸送は馬車が中心だった。ちょうど荷車ぐらいの幅で、長さが倍ぐらいの4輪車で台車のようなものだった。
馬車引きは馬力と呼ばれていて、馬車に乗ったり横で手綱を引きながら歩いたりしていた。道角に酒屋があって、馬力が立ち飲みしたビールの残りをビンごと馬の口に入れて飲ませていた。馬が旨そうに飲んでいたのが印象に残っている。馬は非常に敏感な動物だそうで、何かに驚くと突然走り出すことがよくあった。近くの葬連道を、すごいスピードで馬力を乗せた荷車をひっぱたままガラガラと音を立てて走っていくのに出くわしたことがある。後で聞いた話だと、馬力は振り落とされた上、後輪に轢かれて即死したそうだ。当時はこれを暴れ馬と呼んでいたが、珍しいことではなかったようだ。 Google地図
付録:真夜中の火葬場 (夢野火葬場とは何の関係もないが)
このひと、本当に入ってしまっている・・・。
南無阿弥陀仏
このブログを見たあとに、霊障があっても当方は一切関知しません。
【おぉたむすねィくAutumnsnake】廃墟探検部門 火葬場特捜班
編集部 大西輝明、勅使河原賢明、松岡明芳、唐山健志郎、大原佳苗。 |




