ここから本文です
私に仏教は必要か・宮沢賢治の仏教を考える
仏教の変遷と作品から見る賢治の仏教 考

書庫全体表示

今現在、原始仏教(初期仏教、釈迦仏教)を実践している人間はいないはずである。

わが修行の道こそがお釈迦様の道(原始仏教・初期仏教)であると主張する教団・指導者が存在するようだが、それらの教団・指導者の間では、お釈迦様が何を指導されたのかということ一つでさえも意見の一致を見ていない。

あるものは「人は『仏』になれる」と主張し、あるものは「人は『阿羅漢』にはなれるが『仏』にはなれない」と主張している。
あるいは、大乗だの、小乗だのと非難しあっている。

仏教の起源を学問として研究している方々の意見も分かれているようである。

当ブログは、こういう問題を大雑把に扱っている。
なぜなら、私にとって大事なことは、仏教指導者の意見が一致することでも、学問的に結論が出ることでもなく、私の苦しみを実際に和らげたり、消滅させてくれることなのである。

2500年前ごろに、お釈迦様が実際に体験し、そのご自分の体験を踏まえて、このようにすればお前たちは苦を消滅させることができるのだよ、と言って指導し、実際に苦を消滅させたような、ご自分の体験を踏まえた修行法を知りたいのである。

スッタニパータ「第三 大いなる章 二, つとめはげむこと」に次のような記述がある。(中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫)

     +++++ ○ +++++

Sn425 ネーランジャラー河の畔ホトリにあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、
Sn426 (悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った、あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。
Sn427 あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をもなすこともできるのだ。
Sn428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。
Sn429 つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」
この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。
Sn430 かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。──
「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、
Sn431 わたしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

Sn441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
Sn442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退シリゾけることなかれ。
Sn443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。
Sn444 みずから思いを制し、よく念オモい(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。
Sn445 かれらは、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂ウレえることのない境地に、かれらは赴くであろう。」

     +++++ ○ +++++

この経の悪魔が言っていることは、悪魔らしくない内容である。
私たちに悪魔が囁く時は、いわゆる悪いこと(悪行)をやれと唆す。

しかし、この悪魔が勧めているのはお釈迦様当時のインドにおける、いわゆる常識的な生き方であって、決して悪事(悪行)をやれとけしかけているのではない。

それは、よりよい来世(輪廻の信仰)を目指すために善業を積む作業である。

CiNiiの論文を読むと、今でもテーラヴァーダ諸国(タイ・ミャンマー・スリランカなど)の在家の人々は、素朴に輪廻を信じ、よりよい来世を願い、本気で功徳を積もうとしているそうだ。

悪魔ナムチが勧めているのは、そういう善いことを行う(功徳を積み、善業を積み上げる)ためには、人として生きていることが最適なのだということである。

「成就できるか否か甚だ難しい修行(つとめはげみ)に身命をすり減らして死んでしまっては、功徳を積めないぞ。」
「積んだ功徳が少なければ、悪所(三悪道)に堕ちかねないぞ。」と脅しているとも考えられる。

スリランカのある村の人たち(在家)のほとんどは、涅槃の成就などは何度も何度も生まれ変わらなければ達成できないと考えているそうだ(その調査によれば、村人たちの多くは、正しい涅槃の知識すら持っていないそうだ)。
 *「シンハラ仏教徒の再生観について」大岩 碩
 *シンハラとは、スリランカ人の民族名で大方が仏教徒。他に、南インド由来のタミル人(ヒンドゥ教徒)という少数民族がいる。

そう勧める悪魔に対してお釈迦様は力強く次のように宣言した。

「Sn431 わたしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。」

「Sn443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。
Sn444 みずから思いを制し、よく念オモい(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。
Sn445 かれらは、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂ウレえることのない境地に、かれらは赴くであろう。」

この文章を読めば、悪魔の軍勢の正体を想像できる。
悪魔の軍勢とは、無明(無知・渇愛・妄想)の譬えである。

また、443の詩句にある「智慧」とは、涅槃を成就する際に獲得する明知であり、私たちの智慧とは全く異なるものだと考えられる。
この智慧を獲得するためにお釈迦様が指導された修行法を実践するのである。

言い換えれば、いくら経典を読んで、哲学しても、思索しても、熟考してもこの智慧(明知)は生じないと考えられる。

只一つの方法は、お釈迦様の修行法なのである。
私の場合は、ルアンポル・ティエン師の瞑想法が最も可能性のある修行法だと思い実践している。

このように、原始仏教(初期仏教)では(私の勉強から推理すると)、出家と在家では、全く異なる道を歩んでいることになる(Sn431)。

お釈迦様の教えが世にでるまでは、「ヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。」とされていたのだ。
これは天の神々の世界を目指す道である。

これに対してお釈迦様は在家の生活一切を放擲し捨てて、出家となり、「(苦行に)つとめはげんだ」のである。
これは解脱・涅槃を目指す道である。

今は、お釈迦様が輪廻の実在を認めたか否かという議論をいまは行わない。

言えることは、お釈迦様が、世間の人たちは輪廻を信じ、少なくとも次の生で三悪道に落ちることは避けようとしていたことを認めていることである。

もう一つ問題になるのが、在家(つまりお釈迦様に帰依した仏教徒)は、どっちの道を歩んだのかということである。

この問題は次回考える。


この記事に

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事