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 恥ずかしいことに、菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書・第九刷)を今頃になって手に取った。
 わたしは学生時代に、日本政治思想史のゼミに所属していた。教授は丸山真男の弟子である橋川文三である。その影響からだろう、日本会議を思想的な側面に偏って捉えていたようだ。
 日本会議なるものの正体とはどのようなものか、おおよそはつかんでいたつもりだったが、菅野完著『日本会議の研究』を読了して、襟を正したい心境である。
 いや、襟を正すなどというのは格好をつけた自己欺瞞でしかない。正直に告白すると、穴があったら入りたいという心境なのである。
 つまり、羞恥心にさいなまれているということになる。日本会議については過去にブログに書いたが、『日本会議の研究』を読み終わると同時に、削除しなければ……という衝動が突き上げてきた。
 が、書いたものに対する責任はとらなければならない。作家の端くれではあるが、それくらいの覚悟と矜持はあるつもりだ。だから、どうにか削除することだけは思い止まった(笑)。

 菅野完氏(以後、敬称略)はジャーナリストなのだろうか。それとも評論家なのだろうか。あるいはノンフィクション作家なのだろうか。
 一つに絞る必要性はないのだが、わたしは小説を書いている。そして、作家の端くれと自認している。そんなわたしからみると、菅野完の、作家としての鋭く尖った嗅覚と、事実の背後に隠れた真実へと肉薄する眼光に拘ってしまうのである。『日本会議の研究』が、闇の奥深くに隠れてみえない時代の真相を、炙り出すことに成功したのは、菅野完の類い希な作家としての嗅覚と眼光によると確信している。
 単なるジャーナリストであり、また単なる評論家であったとしたら、時代を覆っている闇の真相をこれほどまでに鮮やかに炙り出すことはできなかっただろう。
 わたしが指摘するまでもなく、菅野完自身が自覚している。そして『日本会議の研究』が、日本会議を扱った書物の中で、他の追随を許さないという自負と矜持を、菅野完はもっている。
 その自負と矜持は正当なものである。

 証拠を示そう。
 219頁の図表19で、菅野完自身で立証している。
 わたしの日本会議の理解は、メジャーメディアの報道内容のレベルであり、学生時代に仕入れた天皇制国家の支配原理に追うところが大きい。一神教的国家神道と超国家主義と極右思想の側面からしかみていなかったことになる。上っ面を撫でただけで、日本会議の本質とはかけ離れた、明後日の方向をみていたことになるのだろう。
 菅野完は日本会議を解剖することで満足していない。
 様々な宗教団体と政治団体の寄り合い所帯であり、ごった煮状態である日本会議を、思想的に解剖し、またその政治的目的を解剖しようとしても本質には永久に辿り着くことができないことを、作家としての類い希な嗅覚と眼光が見抜いたのだろう。
 だから、日本会議の源流を求めて更に核心部へと遡っていき、椛島有三グループと、伊藤哲夫グループを炙り出すことができたのだろう。

 これだけでも大したものといえるが、菅野完の作家としての類い希な嗅覚と眼光はこれだけでは満足しないのである。
 塚本幼稚園と繋がる第三のラインを炙り出している。
 菅野完はこのラインが「塚本幼稚園の事例のように、政治の世界だけでなく、市民社会の中にあって、ファナティックな右傾化風潮を醸し出す要素の一つ」(『日本会議の研究』)であることを看破し、このラインに「稲田朋美や百地章など、安倍政権と深いつながりを持つ政治家・学者が参画し」(同上)、桜井誠の存特会、そして西村修平や山本優美子などのレイシストがおり、チャンネル桜があると指摘している。
 重要なのは、この第三のラインを産み落とし、背後で操っているのが、「生長の家原理主義運動」であり、「生長の家原理主義運動」と密接に関わる椛島有三グループと、伊藤哲夫グループなのである。

 わたしは日本は切迫した歴史的分岐点にあると思っている。
 これからの日本の未来を左右してしまうような重要な歴史の岐路に日本人は立たされていると捉えている。
 こういう認識に立ち、強い危機感を持っているわたしであるが、そのわたしからみると『日本会議の研究』は、この歴史的分岐点の意味と本質とを炙り出した記念碑的な傑作だと確信している。
 記念碑的な傑作とまで絶賛しているのには理由がある。
 上述した内容でも傑作であることは間違いないだろうが、菅野完の作家としての希有な嗅覚と眼力は、貪欲であり、凄まじいとしかいえない。
 日本会議の源流にまで辿り着いたのに、その地点で終わりとしないのである。源流の地下から湧き出す水の正体を求めて、地面を掘り進んで行くのだ。そして姿を現したのが、安東巌という化け物なのである。
 この安東巌の姿を闇の中から引っ張り出したことで、日本会議の本質が余すことなく暴露され、日本会議の正体を余すところなく炙り出すことに成功したのだ。だから記念碑だと絶賛するのである。
 何故ならば、敵の本質と正体をつかむことなく、敵を倒すことは不可能だからだ。

 今日は序章である。
 詳しくは次回に書くが、読了した直後の印象を書いておきたい。
 驚くべき「妄執」に魅せられた、驚くべき「単細胞」の勢力だった。が、妄執と単細胞であることが、政治的にはいかに強力であるか、思い知らさせた。妄執だけならこれほどの威力はない。アメーバーのような単細胞であるから、どんな形にもなれ、形があってないのだ。
 組織としては形があって形がなく、妄執というエネルギーで増殖し、しかし、それを操る冷徹でマキャベリスティックな権謀術数のカリスマがいるから恐ろしい。恐ろしさは、決して表に現れずに闇をまとって姿を隠す呪術にも似た手練手管で、裏から政治を操ることだ。
 では、どうして安部晋三を神輿として担ぎ上げているのか。
 この点においても菅野完は的を射ている。
 安部晋三の政治的基盤が脆弱だったからだと看破している。鋭い指摘である。
 わたしはこれに、安部晋三の資質を安東巌は見抜いていたと考えている。安部昭恵も利用するには格好の資質と見抜いたはずだ。

 今回はここまでとし、菅野完『日本会議の研究』を読了した感想を素描するに止めたい。次回を期待してほしい(笑)。


※『里山主義文学』という名のブログに、連載小説『三月十一日の心』を転載しました。読んでいただければ幸いです。

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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 心を落ち着けるために、深呼吸を一つした。
   というハッシュタグを作り、国民の決起をツイッターで訴えていたのだが、惨憺たる結果だった。300人に満たない数だった。
 これまでに何度となく国会議事堂正門前のデモに参加したが、主催者の「総がかり」が会場と時間を変え、それが周知徹底されなかったために、国会議事堂正門前に行ったときの150名に次ぐ悲惨さだ。
 今回は会場が変わったのではない。ツイッターで拡散を協力していただいたりして、森友学園疑獄・徹底糾弾の3・12デモがあることがある程度は広まったと思っている。その上での300人弱なのである。
 デモの人数は驚くほど貧弱なものだったが、国会議事堂正門前の空気は、日本の未来を閉ざす安倍晋三を葬り去ろうという熱気に満ちていた。僅か300名に満たない人たちで作り出した空気である。
 わたしはデモに行ってよかったと思っている。いろいろと考えさせられたデモであり、日本のデモの課題と限界を痛感したからである。そして、何よりも得がたい喜びは大袈裟太郎氏との出逢いである。

 わたしは「里山主義」という思想を掲げる保守主義者であるが、一人の自由人だと思っている。わたしほど組織に縛られることを嫌がる人間は珍しいのかもしれない。だから小学校のときは学校という組織と規則に縛られるのを嫌がり、ずる休みの常習犯だった。いってきまーす、と言って家を出るのだが、途中で帰ってきてしまい野原や山で遊んでいたのである(笑)。今なら誘拐か、などと大騒ぎになるところだが、ずる休みの常習であり、電話がどこの家にもあったわけではないので、大騒ぎにならずにすんでいたのだ。
 そんなわたしであるから、政治的な組織のしがらみとは無縁である。不思議に思うかもしれないが、保守主義の思想を掲げるわたしは、熱烈に日本共産党を支持している。わたしにとっては不思議でもなく、矛盾でもない。保守主義だからこそ、日本共産党を支持しているのだ。党名で判断していないからである。
 しかし当然に、日本共産党が絶対であるのではない。現状では、わたしの思想に一番しっくりとくる政党であり、わたしの理想とする社会へと導くために「戦略的」に日本共産党を支持しているに過ぎない。また、どういうわけか、日本共産党にわたしが心引かれる議員が多いことにもよる。
 ともあれ、わたしは政治的なしがらみからも、党派と組織のしがらみからも自由である。だから、日本共産党だからといって、おかしいと思ったら徹底的に批判することを躊躇うものではない。
 こうしたわたしの立場から、3・12のデモを総括したい。
 今まではぐっと我慢して批判を控えてきたが、日本の未来を見据えたときに、そして日本が歴史的分岐点に立っているという厳粛な事実を踏まえたときに、このままのデモのあり方では道を誤ると直観したので、徹底的に批判し、あるべきデモの姿を考えてみたい。

 デモに行けば一目瞭然であるが、日本のデモの風景は幟と切り離せない。
 幟は組織を表す印なのである。労働組合の幟があるかと思えば、大学の幟があり、市民が設立した会の幟があり、宗教団体の幟がある。中には、二三人で即席に立ち上げた会の幟があるから、すべてを組織を表す印だと断定するつもりはない。が、基本的には幟は組織を表す印なのである。
 3・12のデモでわたしが見つけた幟はたった一本であった。これは何を意味するのか。今日のデモは組織的な動員がなかったということになるのではないだろうか。言い換えれば、何故か組織に無視されたといえる。
 わたしはこのことを問題視しているのではない。どうして組織が無視すると、3・12のような300人に満たない結集数になってしまうかということを問題にしているのである。
 市民連合とは何だったのだろうか。
 自由な市民が主体であり、市民の基本的人権を何よりも重視し、その地点から発想し行動する市民が「自然発生的」に呼びかけ合ってできた組織だと認識している。その意味では、組織であるようであって、組織ではないはずだ。飽くまでも主体は、自由に発想し行動する一人一人の市民だからだ。組織とは、いつかは硬直する。組織の利害で動くようになってしまうからだ。
 市民連合が誕生したのは、日本を再び戦争へと導いていく戦争法案を阻止し、その元凶である安倍政権と極右勢力に乗っ取られた自民党を政権から引きずり下ろす喫緊の必要性があり、そのためには党利党略を優先させて足を引っ張り合ったていた野党を、市民の力で共闘させようという機運が盛り上がったからだろう。そして一進一退を繰り返し、痛みを伴う陣痛の末に、選挙協力という形で具現化することに成功したのだ。
 こうして振り返ると、市民連合とは党派の垣根を乗り越えさせ、既存の組織のしがらみからからも自由になって、新しい視点から政治を発想し、そして自らの自由意志で起ち上がり行動し、その一人一人の行動によってこれまでとは違ったまったく新しい政治の風を生み出そうという潮流であったはずだ。
 そうだとしたら、いかなる党派のしがらみと垣根からも自由であり、いかなる既存の組織の垣根としがらみからも自由でなければならないはずだ。自由な発想で自分自らでものを考え、そして自由に発言し、自分の意志で政治的な行動をとるというのが本来の姿なのではないだろうか。

 わたしは組織を象徴する幟を否定しているのではない。
 3・12のデモでは組織を象徴する幟がたった一本であり、その結果が300人未満の結集数だった事実に隠れた意味を問題にしているのである。
 3・12の森友学園疑獄を徹底糾弾するデモが300人未満に値する政治的な価値と意味しかないのなら別である。こんなブログを書く必要もない。
 しかし、3・12のデモが持つ重大な意味と価値とを分からないとしたら、余程の政治音痴である。
 そういう者が中心になってデモを企画し、デモのあり方を決めてしまっているとしたら、日本の未来にとってこれほどの不幸はなく、また日本の未来を切り開く希望としてのデモにはなり得ないのではないだろうか。
 敵は政治的戦略と世論操作のプロフェッショナルを抱え、公共の電波を独占して国民を洗脳しているのである。
 政治音痴であり、刻々と変化していく政治的情勢を的確に、そして柔軟性をもって読めずに、政治的駆け引きも知らず、したがって政治的リアリズムに無縁の者が、日本の未来を決するデモを組織するなど利敵行為でしかないだろう。批判を恐れずにいえば、そうした中心的役割をしている者は即刻退場すべきだ。
 そういう者に、安倍晋三と安倍晋三を神輿として担いでいる極右勢力を絶対に倒せないからだ。
 わたしが言っているのは、政治的情勢を左右するような東京と大阪などの大規模なデモのことであり、政治的情勢をこちらの有利な方向へと引き寄せようとして意図された世論的示威ともいえるデモのことである。各地で行われている手作りのデモではない。そして、金曜日の夜に途絶えることなく続けられている原発反対などのデモではない。
 3・12のデモには幟はたった一本であり、この重要な政治的情勢と局面において、たった300名弱しか結集しなかった市民を問題にしているのである。そしてその市民は自由な地点から発想し、考え、そして起ち上がり、行動するというあるべき姿ではなく、結局は幟の発想と意志に従い、組織が企画したデモの意味と価値とを鵜呑みにして、当たり前のように参加するという組織的人間でしかないのではないか。
 一人一人の自由な市民の集合体であるはずのデモが、組織と組織が連携し、組織の意志が貫徹した組織のためのデモになっているのではないのか。そして、問題はデモを企画した組織の意志と思惑が色濃く反映されてしまうのではないか。
 3・12のデモでわたしは、日本のデモが抱えた重大な問題に気づかされたのである。
 
 敢えてその組織の名前を挙げる。
 総がかりという組織である。誤解してもらいたくないのは、総がかりという組織に個人的な恨みがあるのではない。三年前から度々デモに行くようになって、そのデモの企画のほとんどが総がかりだったのであり、どうしても総がかりという組織が企画するデモに目が行ってしまうのは致し方ないのである。
 戦争法案反対の大規模デモにおいても、戦略性を巡ってツイッターでも総がかりに批判的な意見がみられた。何故か縄張り意識が高いのである。わたしはそう感じたし、デモの渦中にあってもわたしと同様に感じている人たちを目にし、話もしている。
 デモに参加している一市民としてのわたしたちから見れば、デモを企画し主催した組織などどうでもいいのである。要は、いかに広範に国民を結集させ、結集させたからには、どうしたら政治的な意味と波及効果を最大にできるかが問題なのである。それにはデモに政治的戦略性が求められるだろうし、敵に最大のダメージを与えるための演出も必要となるだろう。
 象徴的なのは、わざわざシールズと時間を区切ってデモを主催したことだ。その意図と思惑を、当時からわたしは問題視していた。わたし一人ではない。時間を区切れば、国会議事堂正門前に結集する群衆は分散する。敵にとってはこれほど好都合なことはない。利敵行為である。
 極めつけは、総がかりの予定した時間が終わると、シールズの主催するデモがあるのに、拡声器で帰ることを促したことだ。その現場に居合わせたわたしは驚いてしまった。何のためのデモなのか、誰のためのデモなのか、その本質を垣間見た気がしたのだ。組織のためのデモなのである。そしてデモのためのデモなのだ。わたしはそう直観したのである。
 真夏である。長時間のデモは身体に響く。ましてや高齢者はそうである。デモの渦中に救急搬送される人も多い。わたしの周辺でも、気分が悪くなって座り込んだり、知り合いに抱えられてデモの群衆の中を覚束ない足取りで帰って行く人たちを何人も目撃している。
 総がかりとシールズが時間を区切ってやることが、そもそもあり得ない発想なのである。デモの主体は市民一人一人であり、国民一人一人だからだ。両方のデモに参加するとなると長時間になる。62歳のわたしでも足がパンパンになるのだ。そうしたことをまったく考慮していないといえないだろうか。デモの私物化である。無理もない、組織のためのデモであり、デモのためのデモだからだ。言葉が悪いかもしれないが、デモが商売なのかと問い質したいくらいだ。また売名行為なのかと問い質したいくらいだ。
 国民を広く結集させ圧倒的なデモを生み出そうとするなら、組織の垣根などあっていいはずはなく、すべてが組織のしがらみと思惑を捨てて連体し、全力を傾注してしか不可能だろう。野党共闘を叫びながら、デモに組織の論理を持ち込むなど本末転倒であり、権力と利害を共有する御用労働組合の連合を批判はできないはずだ。
 総がかりは3・19に大規模なデモを主催し企画している。
 そのデモのテーマは反共謀罪だというのだ。
 わたしは驚きを超えて唖然としている。まったくといっていいほど、政治的情勢と政治的局面を読み間違えているといえる。森友学園疑獄で安倍晋三があっぷあっぷの状態であり、安倍晋三と安倍晋三を神輿として担ぐ極右勢力が致命傷を負って瓦解するかどうかの瀬戸際なのに、それでも共謀罪の反対を掲げるデモだというのだろうか。驚くべき政治音痴であり、政治を戦略性から眺められず、だからこそ政治的リアリズムとは無縁なのだろう。
 デモの目的とは何か、まったく分かっていないのではないかと思わずにはいられない。
 敵にとってこれほど御し易いデモ主催者はいないのではないのだろうか。もっと悪意を込めて言うと利敵行為である。
 共謀罪が日本の未来を閉ざす悪法であり、戦前の歴史をみれば治安維持法が果たした役割がどういうものであったか、日本政治思想史を囓ったわたしであるから心得ているつもりだ。
 共謀罪の成立は絶対に阻止しなくてはならない。が、政治的情勢と局面によってはその共謀罪といえども脇に置かなければならない緊急的な事態もあるのである。
 安倍晋三と極右勢力によって乗っ取られた自民党の最終目的は、共謀罪の成立ではない。共謀罪は飽くまでも目的を達成するための手段なのである。安保法制も同様であり、目的を達成するための手段なのである。
 この事実を見誤ると、永久に安倍晋三と安倍晋三を神輿に担いでいる極右勢力を倒すことはできないだろう。つまり、戦前のファシズム国家体制へと雪崩れていくことを食い止められないのである。
 相手の手段でしかないものを絶つことが、こちらの目的となるという過ちを犯すことになり、これほど政治的愚昧といえるものはないのではないだろうか。
 安倍晋三と極右勢力の最終目的は、塚本幼稚園の国家版であり、戦前のファシズム国家体制なのである。だから、たとえ共謀罪の成立を阻止し得たとしても、第二第三の名前を変えただけの共謀罪という詐欺的な策を弄してくることは論を待たない。
 安倍晋三にとっては最終目的があるので、その目的を達成するために、共謀罪を強引に成立させることが致命傷になるとなれば、あっさりと放棄することもあり得るのである。それが政治的な駆け引きであり、戦略であり、政治的リアリズムなのである。権謀術数と嘘と詐欺と言い訳は安倍政治の十八番だ。そのためにプロフェッショナルが脇を固めているのだ。
 安倍晋三は南スーダンからの自衛隊撤収を電撃的に発表した。
 それも時の人である森友学園の籠池理事長の記者会見にぶつけてきたのである。撤収は五月末であり、理由は首都ジュバでの施設整備が一定の区切りをつけたと判断したからと、安倍晋三は説明している。戦闘が激化し、自衛隊がいつ戦闘に巻き込まれてもおかしくはない、切迫した状況だという事実を打ち消している。
 この安部の決断を、世論の力であり、南スーダンへの自衛隊派遣の反対運動の成果だと手放しで喜んでいいのだろうか。そんな単純な理由でないことは明らかだ。どうして五月末の話をわざわざ籠池理事長の会見にぶつけなければならなかったのか、雄弁に語ってくれている。
 安部は必死なのである。森友学園疑獄からまんまと逃げおうせ生き残れるか、それとも政治生命を完全に絶たれるかの瀬戸際だからだ。政治生命が絶たれたら、安倍晋三と安倍晋三を神輿に担いできた勢力の最終目的を達成する道を絶たれるからだ。
 その目的のためなら、手段としての駆けつけ警護の任務という戦争準備のための新たなステージへと上った南スーダンへの自衛隊派遣もあっさりと引っ込めてしまうのである。
 共謀罪も例外ではない。今月十日の予定だった閣議決定は延期された。
 これを共謀罪の反対運動の盛り上がりと、野党の国会での追及の成果だというに及んでは、開いた口が塞がらない。そして、引き続き共謀罪の反対運動を盛り上げ、共謀罪成立を絶対に阻止しなければ日本の未来はない、と本気でいっているとしたら、お目出度いとしか言いようがないではないか。
 そんなお目出度さでは、安倍晋三と安倍政治を永遠に葬り去ることはできないだろう。一般の国民ならばまだ許せる。これが国民的な大規模デモを主催する者の発言だとしたら、もうお先真っ暗としかいえない。
 こういうお目出度さは伝染するから始末が悪い。当たり前である。国民的デモを主催する責任者が言っているから、影響は計り知れない。
 ツイッターでよく見かける共謀罪反対のツイートがある。一度わたしは批判したことがあるが、悪影響は広範囲に及んでいるようだ。
 どういうツイートかというと、共謀罪を成立させるために、意図的にマスコミが森友学園疑獄を騒ぎ立てているというのである。共謀罪を阻止することが目的になってしまっているのだ。
 安倍晋三と安倍晋三を神輿に担ぐ極右勢力は共謀罪を目的としているのではなく、重要な手段と位置づけているのに、こちらは共謀罪を葬ることを目的としているとしたら、そもそもが政治的戦略など練ることはできないし、それ以前に政治音痴であり、子供が政治に関わっているとしかいえないではないか。政治は子供の玩具ではないのだ。
 安倍晋三の息の根を絶つことこそが、最大の目的でなければならないはずだ。安倍晋三の政治生命を絶つことで、反原発と戦争法制と辺野古新基地建設と共謀罪の問題の活路が見えてくる。安倍晋三を葬り去らなくては、すべての活路はないといえる。何故ならば、安倍晋三と安倍晋三を神輿に担ぐ極右勢力は、戦前回帰を目的とし、ファシズム国家体制を敷くつもりだからだ。
 森友学園疑獄は籠池理事長や安倍昭恵のバラエティ受けするキャラクターがおり、現にテレビのワイドショウで籠池理事長と塚本幼稚園の幼児虐待に等しい軍国教育と躾の映像を流して、面白おかしく騒ぎ立て下卑ているし、格好が悪い。それに比べて共謀罪は思想性があり格調が高く、馬鹿な国民にはこの危険性は分からない。だからデモでその危険性を国民に訴えなければならない、と本気で思っているのではないだろうか(笑)。
 頭が固く、権威的であり、自分を飾り立てる誘惑に弱い人間だと、大いにあり得るから恐ろしいのである。デモに格調と権威を求めるのだ。こうなるともう病気でしかない。
 3・12デモの悲惨さを見下ろして、やっぱり我が組織が主催しないと人は結集しない、という声をあげているとしたら処置なしだろう。

 わたしは3・12の森友学園疑獄・徹底糾弾デモの主催者ではない。また呼びかけ人でもない。
 が、わたしは党派と組織の論理としがらみなど蹴飛ばして、自由に発想し、自由に考え、政治的情勢と局面を前提にして、どういう政治的戦略が可能であり、どういう政治的リアリズムに立った政治的行動が必要なのか、追求した中で、3・12のデモの重要性が見え、ここで10万人を結集させれば、安倍晋三は即死だと確信したから、自発的に必死になって3・12のデモの重要性と意味とをツイッターで発信し、また拡散を呼びかけたのである。
 記録の意味を込めて、ツイートを引用しておきたい。わたしは3・12のデモをどう意味づけ、また政治的戦略性をみているか分かると思う。
 デモとは単なる示威でもなく、また国民的世論の可視化だけではない。政治的情勢と局面においてはデモに持たせるべき役割も当然に違ってくる。
 わたしが3・12のデモに求めたものは、国会議事堂正門前を埋め尽くす圧倒的な風景を突きつけることによって、①安倍晋三に恐怖を与えて政権を投げ出させる可能性があること、②安部の独裁組織となった自民党であるが、森友学園疑獄で安部がヘロヘロ状態であり、その上に圧倒的なデモの風景を目にすれば、自民党内部が決定的に動揺を始め、造反に拍車をかけることは必死であること、③ネット世論に急かさせてやっと重い腰を上げたマスコミが連日トップニュースとして扱うようになり、中でも東京新聞と朝日新聞は本丸である安倍晋三に迫る気迫さえみせているが、圧倒的なデモでその方向性をより鮮明にさせて、覚悟の報道へと導く必要性があること、④安倍政権の広報機関であるNHKを代表するマスコミは、すべては籠池理事長への責任に収斂するよな印象操作を行い、国有地の只同然の払い下げへの政治家Xの関与を切り離して隠し、幕引きを企てているのを圧倒的なデモの風景を突きつけることで阻止すること、⑤圧倒的なデモになれば、森友学園疑獄のデモなので当然にマスコミがトップニュースで扱うだろうから、国民の目に焼き付けることができ、一気に安倍政権の支持率を急降下させて、安倍政権の崩壊を決定的にさせる印象を社会的空気として演出できる、⑥野党の国会での追及の強力なバックアップになること、⑦自民党と公明党が拒んでいる参考人招致を圧倒的なデモの圧力で実現すること、という戦略性と政治的リアリズムである。

【必死の拡散希望】やはり、思った通り天王山は3・12国会議事堂正門前での森友学園疑獄・徹底糾弾デモだ! 膠着状態を打開し、参考人招致へと強制的に導き、マスコミが安倍晋三の追及へと雪崩れさせるには、19日では手遅れ!共謀罪の成立阻止のためにも圧倒的

【大拡散希望】  韓国民は金と欲に塗れた汚辱の政治を倒した。安倍政治は金と欲だけではない。塚本幼稚園の軍国教育と躾という名の幼児虐待は、安倍の描く理想の政治を物語っている。北朝鮮と瓜二つの独裁的な恐怖政治だ。後がない!

【大拡散希望】政治的情勢はデモの日程などに合わせてはくれない。森友学園疑獄の情勢は日々刻々と変わっていく。安倍晋三と自民党が火消しに必死だからだ。えげつない幕引きを始めた。情勢は変わった。森友疑獄の徹底糾明へとマスコミに圧力をかけるデモが急務! 

【大拡散】安倍晋三と自民・公明党は籠池の参考人招致を足蹴にした! 時間稼ぎをし、マスコミと国民の熱が冷めるのを待って、森友学園疑獄を闇に葬り去るつもりだ。許してはならない! 圧倒的なデモで、自民・公明党とマスコミに圧力をかける時だ! 後がない! 

【必死の拡散希望】日本国民は、戦前へと回帰するかどうかの歴史的分岐点で、試されているといえる。森友学園疑獄は安倍晋三の戦前回帰の野望を絶つ、千載一遇であり最後の好機! 敵は幕引きを始めた。これを放置したら最後だ。猶予はない! 3・19では遅い。

【必死の拡散希望】歴史的デモになる! 安倍晋三の政治生命を絶ち、安倍政治を日本から永遠に駆逐する千載一遇の好機! 森友学園疑獄・徹底糾弾デモに10万人が結集すれば、安倍晋三と安倍政治は即死するだろう! 日本の未来を切り開く歴史的瞬間に立ち会おう! 

  
【必死の拡散希望】思い出せ! 8・30デモで安倍晋三は震え上がり、この写真を撮らせてしまった警察関係者を怒鳴り散らした。森友疑獄で安部の精神は狂乱状態。10万人デモで安部の精神は間違いなく持たない!  本気で安部の息の根を絶つなら今だ! 結集せよ、

【大拡散希望】日本の未来を切り開くか、閉ざすかの決戦の朝だ! この分岐点で冷めた評論家はいらない。傍観者も、他力本願も論外だ! 希望の未来は自分たち一人一人の手でつかみ取るのだ! 決起せよ! 一週間で情勢はがらりと変わる。3・19では手遅れ! 

政治家の追及をマスコミと検察に期待していても無駄です。国民一人一人がマスコミと検察を動かすしかないのです。圧倒的なデモで圧力をかけるしかありません。圧倒的デモは安倍晋三を震え上がらせ、自民党内部からも造反者が次々とでてくるでしょう。決起しかない! 

【必死の拡散希望】安倍晋三と安倍政治を葬り去るには、他力本願でマスコミと検察に期待しても現状の日本では無駄だ。国民が圧倒的世論を可視化させ、マスコミと検察に圧力をかけ、動かすしかない! 野党を後押しするのも圧倒的世論の可視化だ! 安部を逃がすな! 

いよいよ明日!  日本人は歴史的分岐点に立たされている。ここで決起しなければ、安倍晋三と極右勢力は戦前のファシズム国家体制へと雪崩れていく。傍観は許されない。頼るべき他力はない! 未来を切り開くのは国民一人一人。覚悟の歴史的デモへ結集!

【大拡散希望】いよいよ決戦の朝! 政治的情勢は  が天王山であることを証明している。安倍晋三はなりふり構わず、幕引きと火消しに必死だ! 政治的空気と流れを一気に安部を葬り去る方向へと雪崩れさせるか、それとも安部に逃げ切られるか、今日が分岐点だ!

【大拡散希望】いよいよ決戦の朝! 覚悟の朝です! 大きく深呼吸して、朝の空気を体内に吸い込んで、ふっーと思い切り吐き出す。熱く燃え上がった血に染まった空気が外へと吐き出されたとき、新しい時代の空気を作り出す! 安倍晋三を葬り去る意志を抱えた空気! 

【大拡散希望】さあ、出発します。歴史的分岐点で、新しい時代の幕開けを告げるデモにしましょう! 国会議事堂正門前で待っています! 

 以上がツイートした内容である。
 わたしには、森友学園疑獄は安倍晋三と安倍晋三を神輿に担いでいる極右勢力の息の根を絶つ千載一遇のチャンスであり、これを逃しては日本は戦前へと雪崩れていくように回帰していき、それを阻止できなくなるという強い危機感がある。その意味で歴史的分岐点に日本人は立たされていると捉えているのだ。
 わたしは3・11の心が、森友学園疑獄を炙り出してくれたと本気で思っている。3・11の心が、安倍晋三と安倍晋三を神輿に担ぐ極右勢力によって牛耳られていることを悲嘆していると感じている。
 だから、3・11の心と真逆の、沖縄の宝であり、日本の宝である、美しい辺野古の海を破壊し、戦争のための基地としようとしているのである。
 安倍晋三がしていることはこれだけではない。武器輸出三原則の撤廃、原発再稼働、原発輸出、安保法制、戦闘状態の南スーダンへの駆けつけ警護の任務を負った自衛隊の強硬派遣、平成の治安維持法である共謀罪、ナチスの全権委任法に当たる緊急事態条項……、枚挙に暇がない。
 もう一度言うが、これらはすべて手段である。目的ではない。
 安倍晋三と極右勢力が目的とするのは、塚本幼稚園の国家版なのである。
 塚本幼稚園が安倍晋三の思想を可視化させ、安倍晋三が理想とする国家像を具象化してみせてくれているのである。
 このおぞましい国家へと国民を幽閉し、教育勅語で臣民としての心得を徹底的に洗脳され、国家の忠実な下僕へと人格改造しようとしているのが、安倍晋三と極右勢力であり、それこそが目的なのである。
 わたしはこの点についても次のようなツイートしている。

 塚本幼稚園が安部の化けの皮を剥いだ。安部のいう日本精神と伝統と文化は、塚本幼稚園の軍国教育と差別教育と躾の名の幼児虐待であり、安部の国家像は、国家そのものが塚本幼稚園になり、安部が独裁的な権力で、国民に絶対的服従を強いるものだ。国民はおぞましい安部の正体を知った。丸裸の安部は脆い 。

 ここまで書いてくれば、この政治的情勢と局面において、国民を広く巻き込んだデモを企画するとすれば、森友学園疑獄を徹底糾弾し、安倍晋三に総理大臣の辞任を迫るデモ以外にないのである。
 その必要性を安倍晋三が国会での醜悪で支離滅裂な答弁で如実に物語っているではないか。安部は追い込まれているのである。第二次安部政権になって初めてのことだ。なりふり構わずに必死で逃げ切ろうとしているのである。この千載一遇の好機に、的外れなデモを企画し、組織の論理を前面に出して、国民的な結集を求める規模のデモを企画する資格はないといえないだろうか。
 今からでも遅くはない。
 3・19のデモを森友学園疑獄の徹底糾弾と、安倍晋三の即時総理辞職を求めるデモにすべきだ。そして、主催者とかに拘ることなく、全国規模での国民の結集を求めるべきだろう。
 デモの主役は、一人一人の市民であり、国民である。
 強く求めたい!

 今日  で懐かしい歌を聴いた。大袈裟太郎氏の『五月のパリ』の替え歌である、沖縄辺野古新基地反対運動の歌だ! 美しい歌だった! この歌を、安倍晋三と安部政治の息の根を絶つ歌にしたらどうだろうか。沖縄に春を!
 昨日デモから帰ってきて、ツイートしたものである。
 大袈裟太郎氏のスピーチとラップに、わたしは心を揺さぶられた。彼は沖縄の心を生きている。それは間違いない。沖縄で生まれ、沖縄で育ったことのない大袈裟太郎氏が、見事に沖縄の心を体現しているのだ。
 その大袈裟太郎氏が、わたしが学生の頃に歌っていた『美しい五月のパリ』の替え歌を歌っていた。沖縄の心と、沖縄の民衆の願いを無視し、辺野古新基地建設を強行する国家権力への怒りを謳ったものだ。
 わたしはデモに国民的な広がりを作り出そうとするなら、皆で歌える歌があってもいいように思う。
 大袈裟太郎氏の『美しき五月のパリ』の替え歌こそ、それに相応しいのではないだろうか。沖縄の心と、3・11の心を固く結びつけ、沖縄の民衆と、本土の民衆の心を一つに繋げられるからだ。安倍晋三の政治生命を絶たないことには、日本の希望としての未来は永遠に切り開くことはできない。安倍晋三の政治生命を絶つことが、大切な一歩であり、それなくしては新しい未来の扉は開くことができないのだ!
 3・19に一人の自由な市民であり国民として、国会議事堂正門前に立とう!
 決起するのは、今をおいてない!

 加藤登紀子『美しき五月のパリ』

 毎年3・11には、3・11の心についてブログに書いているのだが、孟宗竹の竹藪のジャングルを伐採する肉体労働を三日間行ったり、3・12デモのツイートをしたりして書かず仕舞いである。小池書記局長の希代の質疑術についても書いていない。何よりも、連載している小説『三月十一日の心』が疎かになっていることが問題である。
 なけなしの金をはたいて、2017一太郎プレミアムのソフトを購入したのである。本腰を入れて小説を書くつもりだからだ。方言の変換ができるのも魅力的である。
 3・19以降になってしまうのだろう。
 
※追加
 悲惨な3・12デモの結果が、悪い影響を及ぼし始めたように感じ始めている。警察が用意したカマボコは相当数あった。ある程度の規模になるという予想があったのだろう。しかし、結果は惨憺たるものだったから、世論はそれほど沸騰していない。そう安倍晋三と安倍政権は胸を撫で下ろしたことだろう。先週と比べると、国会答弁をする安部は少し余裕が見られると感じるのは、わたしだけだろうか。
 マスコミに与える悪影響も感じる。世論調査に顕著に表れている。マスコミは洞ヶ峠で昼寝をしながら、さてどうしたものか、様子を窺っていたのだが、デモは300人に足らずこれでは世論は直ぐに冷めると苦笑しているのではないだろうか。その結果が世論調査の数値に現れているように思っている。3・12は市民にとって、政治的情勢を圧倒的に有利にできたのに、そのチャンスをみすみす逃してしまったと、わたしは確信している。

※『里山主義文学』という名のブログに、連載小説『三月十一日の心』を転載しました。読んでいただければ幸いです。

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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 私人である安倍昭惠氏を批判するつもりはない。
 が、内閣総理大臣夫人を名乗る公人としての安倍昭惠氏の行為に対しては別である(以下、敬称略)。
 総理大臣夫人は公人か、私人かという論争があるが、わたしは少なくとも安倍昭恵自身が内閣総理大臣夫人を名乗った時点で、それは紛れもない公人の行為に当たると理解している。
 安倍晋三は政治とは結果だというが、安倍晋三の頭には奇妙にも結果責任という発想がない。そして、その結果にしても客観的な事実に基づいたものではなく、我田引水的な主観的なものであり、果ては統計データの取り方を変えたり、一部だけを取り出したりして都合がいい結果を意図的に作り出している。これは明らかな詐欺である。結果を捏造しているといわれても言い訳はできないだろう。
 結果を捏造しているのだから、安倍晋三が結果に責任を持つはずはないのだ。責任をとらなくていいように捏造しているからだ。父親の安倍晋太郎が安倍晋三を称して言い訳だけは並外れていると言ったそうだが、正しく政治に言い訳を持ち込んだのだ。安倍政治の本質は嘘と詐欺と、そして言い訳なのである。政治から結果責任と政治倫理を排除したといえないだろうか。そうなると抑制が聞かなくなる。やりたい放題なのである。それが明るみに出たのが森友学園疑獄なのである。
 内閣総理大臣夫人として振る舞った安倍昭恵の行為が公人か私人かというのは、「政治的」な結果から判断すべきものだろう。
 塚本幼稚園を何度となく訪問して講演をし、塚本幼稚園の教育理念を絶賛して涙まで流している生々しい映像が世界を駆け巡っている。驚きの目で、世界の報道機関が報道しているのだ。そして、批判的にみている。安倍昭恵が言葉の厳密な意味での私人ならば、映像が世界を駆け巡ることはなかったはずだ。内閣総理大臣夫人であり、あろうことか内閣総理大臣夫人として小学校の名誉校長を引き受け、森友学園のホームページに内閣総理大臣夫人として写真入りで推奨の文章を書いているのだ。
 だから海外の報道機関が問題視し大きく取り上げているのである。これは誰がみても政治的な結果を生み出した行為として捉えるだろう。つまり、本人の意思には関係なく、厳粛な「政治的行為」なのである。
 そして「政治的行為」だから、当然に「政治的結果」が発生し、その「政治的結果」に「政治的責任」を取るのは当たり前なのである。それが政治というものなのだ。
 政治的責任のない政治とは、何をしても許させる政治である。政治的結果に対する真摯で厳粛な政治責任を背負っていない政治家に権力を与えたらどうなるか、やり放題の独裁国家になり、恐怖政治になるだろう。NHKが狂ったように脅威論を煽っている北朝鮮がそうした国家である。そして、安倍晋三こそが、こうした危険極まりない政治家なのである。NHKは内なる北朝鮮である安倍晋三の危険性こそ、国民に広く知らせ警鐘を鳴らすべきだ。

 救いようがないのは、政治的責任を背負っていないのは安倍晋三だけではないことだ。安倍内閣が物の見事にそうであり、自民党と公明党と日本維新の党がそうである。
 だから安倍昭恵の行為を私人とし、籠池園長に利用されたと言い訳すれば言い逃れできるという驚くべき論理を振りかざすのである。政治的結果に対する責任意識と、政治倫理の欠如としかいいようがない。こんな論理が通らないことは、世界が示してくれている。一国の総理大臣夫人がカルト紛いの軍国教育と差別教育をしている極右の塚本幼稚園と深い関係があり、その教育理念に賛同していることを問題視し、憂慮しているのだ。日本という国のイメージをこれほど貶めた「政治的結果」はないだろう。当然に、「政治的責任」は免れることはできないのである。責任を取るのは安倍昭恵ではない。承知してやらせていた安倍晋三である。
 政治とは何か。
 政治的結果と政治的責任とは何か。
 政治倫理とは何か。
 こんな初歩的なことも分からずに、政治家を名乗っているとしたら、政治家でなく詐欺師としかいえない。
 またこんな初歩的なことが分からずに、安倍昭恵は私人だから問題ないとか、総理夫人として不注意だったから籠池に騙されたとか、中には籠池に利用された安倍昭恵は可哀想な被害者だと、テレビでコメントし、解説し、評論している者たちは権力の寄生虫としかいえない。
 メディアも同様である。こんな寄生虫を雇って、安倍政権を擁護しているのだから、ジャーナリズムとしての倫理が欠如していると言われても言い訳はできないはずだ。そして、ジャーナリズム自らが、日本の政治に政治責任の不在と、政治倫理の崩壊を呼び寄せているといえるだろう。NHKは公共放送という名でそれを率先して行っているのだから、最早国民の敵であり、日本を駄目にする元凶と言われても返す言葉がないはずだ。こうした国民への裏切りと犯罪行為としかいえない報道をしているNHKに、受信料を強制的に払わされている国民は奴隷としかいえないのではないだろうか。反論があれば、NHKにしていただきたい!

 似たもの夫婦とはよく言ったもので、安倍昭恵と安倍晋三とはそっくりである。
 第二次安倍内閣になって、安倍晋三が懐刀の経産省出身の今井尚哉正未秘書官に依頼し、安倍昭恵に政治家の秘書よりも多い五人の官邸スタッフをつけている。全員が出向で、内訳は経産省から二人、外務省から三人で、通常は経産省の二名が安倍昭恵と行動を共にしている。当然に五人は公務員であり給与は税金から支払われている。総額で2880万円だそうだ。
 だからわたしは、安倍昭恵のすべての行為が公人だと言っているのではない。安倍昭恵が内閣総理大臣夫人としてやった行為は公人でしかないのだ。上述したように政治的影響と政治的結果が、本人の意思には関わらず発生するからである。
 したがって、安倍昭恵は内閣総理大臣夫人としての行為には、そうした政治的影響と政治的結果が発生することを自覚し、当然に政治的責任も発生することを常に意識していなければならないのである。細心の注意が必要なのである。当たり前である。内閣総理大臣夫人として自らが名乗っているからだ。
 こうしたことがあるから、普通は内閣総理大臣夫人は、どこにもしゃしゃり出るということは極力避け、内閣総理大臣夫人という肩書きを伏せることをするのである。自分の些細な行為と不注意が、夫の政治生命を奪うことになるという認識があるからである。
 ところが安倍昭恵は真逆である。どこにでもしゃしゃり出て、そして無邪気にも内閣総理大臣夫人を名乗って振る舞っているのである。脳天気としか言いようがないし、内閣総理大臣夫人の資質に欠けているとしかいえない。
 安倍昭恵が責任意識を持っているならまだ情状の酌量の余地はある。が、内閣総理大臣夫人としての自分の行為が政治的影響と政治的結果を与えるという意識がまったくないのである。
 
「THE HUFFINGTON POST in association with The Asahi Shimbun」が安部昭恵の驚くべき発言を報道している。http://www.huffingtonpost.jp/2017/03/05/akie-abe_n_15164094.html
 元NHK記者の堀潤氏が3月5日の「ワイドショー」(フジテレビ系)で、安倍昭恵から聞いたとして紹介したものだ。
 しかし、この堀潤氏はジャーナリストとしては失格であり、よく恥ずかしくもなくジャーナリストを名乗っていると思うが、さすがは元NHKの記者だけのことはある。面目躍如である。権力の寄生虫の見本だろう。
 当該する箇所を引用する。

「確かに(森友学園理事長の)籠池夫妻には何度も会っているし、名誉校長にもなった。但し、私はそれ以上のことはやってないんです。なので、私も、真実が知りたい」

 これを目にしたときには、呆れかえって声も出なかった。
 これほど巷間に騒動を巻き起こし、全世界の報道機関が注視して大問題となっているのに、その当事者である安倍昭恵は他人事のように森友学園疑獄をみているのである。あろうことか被害者然としているのだ。脳天気であり、無邪気であり、子供じみているとしかいえない。
 自分がした行為が政治的影響を与え、重大な政治的結果をもたらしたという事実認識が、ばっさりと抜け落ちているのだ。この発言からは、自責の念も、反省の色もみえない。
 森友学園疑獄が問題となり、安倍昭恵が塚本幼稚園の教育理念に深く感銘し、森友学園の小学校の名誉校長に就任しているニュースが大きく取り上げられてからも、安倍昭恵はあちらこちらに出かけ、内閣総理大臣夫人として笑顔を振りまいている。
 言いたくはないが、責任感が強い方で、周りに心配りができる細やかな感情の持ち主なら外にはでられないだろう。ましてや、内閣総理大臣夫人としての公務などできるはずはない。信じられないことに、安倍昭恵が関わっているスキーツアーにまで行き、破顔一笑の写真までがツイッターで拡散されている。
 よほどの図太い神経の持ち主であり、ふてぶてしい厚顔無恥でなかったとしたら、どこまでも脳天気で、どこまでも無邪気で、どこまでも子供じみた女性としか、わたしにはみえない。こうした人が、政治に関わり、ましてや権力を与えてはならないのである。危険極まりない。亡国へとつながるだろう。
 こうした人に内閣総理大臣夫人の肩書きを与える危険性はいうまでもない。無自覚で、無邪気で、子供じみた人が権力を手にし、それを玩具にして遊んでいるとしかいえないのではないだろうか。
 
 安倍晋三はどうして五人もの公務員を安倍昭恵につけたのか。
 安倍昭恵の内閣総理大臣夫人しての神出鬼没、八面六臂の活躍を期待したからではないのか。安倍昭恵の政治的な効果を計算していたと、わたしは想像する。
 それはさておいて、安倍昭恵が内閣総理大臣夫人として塚本幼稚園に深く関わり、森友学園の小学校の名誉校長に就任したことによる、政治的影響と政治的結果に対する、夫として容認しできた安倍晋三の政治家としての政治責任は免れないだろう。
 万が一にでも安倍晋三が政治的責任を果たさなかったなら、日本の政治的未来を閉ざし、全世界から、ジャーナリズムの良心と報道倫理が死に絶え、政治倫理が死んだ安部独裁国家だと日本は揶揄されることだろう。
 これほど国会が試されていることはないと断言できる。
 議員一人一人の政治家としての政治的責任と政治的倫理が問われているからだ。
 しかし、安倍晋三と安倍政権と自民党と公明党は、真逆の方向へと突き進んでいる。どうしたら森友学園疑獄から国民を出し抜いて言い逃れできるか、必死になってその方策を練っているのだ。
 そのシナリオの一つなのだろう。
 安倍晋三と親しい報道ステーションの後藤謙次解説者が、興味深い発言をしている。忖度という言葉に、わたしの直観が反応したのだ。
 安倍昭恵が内閣総理大臣夫人して小学校の名誉校長になっている事実を、理財局が「忖度」して不当な価格で国有地を払い下げたのだろうと言うのだ。
 この後藤の発言と、わたしは自民党の下村博文幹事長代行が3月5日に記者団に語ったことが繋がっているような気がしてならないのである。
 下村氏は「学園に利用されたのだろう。明確に拒否すべきだった」とし、名誉校長に就任したことが不適切だったと述べている。
 二人の発言の意図はどこにあるか。
 国民を出し抜き森友学園疑獄から安倍晋三の責任を回避するための巧妙なシナリオが、わたしの脳裏に浮かんできたのである。
 籠池園長に利用されて、安倍昭恵が無理矢理に名誉校長を引き受けさせられ、安倍昭恵の内閣総理大臣夫人という肩書きだけが一人歩きをして、理財局が勝手に忖度して便宜を図ってしまったというシナリオである。
 このシナリオから上述した堀潤氏が紹介した安倍昭恵の言葉をみると、辻褄が合っているのである。

 政治結果とは奇妙なものであり、恐ろしいものである。
 わたしは安倍昭恵の脳天気と無邪気さと無責任さに、国学が果たしたおぞましい政治的結果をみてしまいたくなるのである。
 詳しくは丸山真男の弟子である松本三之介著『国学政治思想の研究』と『天皇制国家と政治思想』(未来社)を読んでいただきたいのだが、簡単に述べると、国学とは文学的主情主義を強調するものであり、政治は御上(武士階級)が独占するものであり、政治に関わりことを元から排除しているのであるが、結果的にみると、文学的主情主義が政治的機械主義になり、現状肯定と権力への服従を産み落としたということになる。
 安倍昭恵が政治的な意図と野心がなく、無邪気で、脳天気で、幼児的であればあるほど、内閣総理大臣夫人としての安倍昭恵は、政治的影響力を増し、悪しき政治的結果を導くという逆説が成り立つのだ。
 政治的責任から自由であり、自分のしていることが与える政治的結果に無頓着であるから、何気兼ねなく、無邪気に、脳天気に、子供じみたことを平気な顔でやれるからだ。こうした者に権力を与えたらどうなるか。またちやほやされ、持ち上げられれば容易に利用されてしまうのである。そして、羞恥心と責任感とを持っている者には絶対にできないことを、平気の平左でやっちゃうのである。やっっちゃった後も、「わたし、なんかしたのー。わたしのせいじゃないでしょおー」と言ってけろりと忘れ、スキーにいってキャッキャッと笑い転げるのである。
 安倍昭恵のことだけをいっているのではない。安倍晋三も同じだ。
 これを亡国と言わずして、何と言えばいいのだろう!

 こうした危険極まりない、安倍晋三と安倍政治の息の根を絶つために、3・12国会議事堂正門前の森友学園疑獄、徹底糾弾デモ(午前11時〜)があるのである。天下分け目の関ヶ原となる。
 皆様、3・12国会議事堂正門前デモに結集しよう!
 参加できない人も、ツイッターやブログで拡散することが立派な参加になるのです!
 安倍政治を許しては日本の末路だ!
 森友学園疑を安倍晋三と安倍政治の墓場にしよう!

 緊急に執筆したので、推敲しておりません。誤字脱字はご容赦ください(笑)


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 わたしは焦燥感にも似た危機感を抱いている。
 その危機感が絶望と綱引きをしている。
 森友学園疑獄は安倍晋三を葬り去れる千載一遇のチャンスである。しかし、このチャンスを逃したら、日本は間違いなく戦前のファシズム国家へといつか来た道を脇目もふらずに突き進むだろう。
 千載一遇のチャンスであり、これしか残されていないチャンスなのである。
 安倍晋三の危険性は直前のブログでヒトラーと比較しながら書いた。安倍晋三の危険性を森友学園疑獄は炙り出してくれたといえる。
 千載一遇のチャンスについてもブログに書いているので、そちらを参照していただきたい。
 わたしは共謀罪が成立したら後がないと肝に銘じている。戦前の治安維持法の再来だからだ。この件についてもブログに書いている。
 しかし、だからといってわたしは共謀罪でデモをやろうとはこれっぽちも考えていない。優れて政治的な問題であり、国民的な関心はなく、だからデモをやったとしても、安倍政権にとっては痛くも痒くもないだろう。8・30規模のデモになるというなら別であるが、共謀罪でそれだけの動員ができるはずはないのである。何故ならば、国民の関心が薄く、マスコミの報道も沸騰とは程遠いからだ。が、共謀罪が成立すれば、もう絶望的な状況になるのは間違いない。
 ではどうするか。
 政治的リアリズムとは、共謀罪を阻止しなければ大変なことになるから、共謀罪反対のデモをしようという単純なものではない。反対を叫ぶのはいい。が、共謀罪反対を前面に掲げて大規模なデモを企画するのは、政治的リアリズムからしたら愚の骨頂であり、利敵行為だと思う。
 この件に関係することもブログに書いているが、批判を覚悟でいうと、デモを浪費するなといいたい。
 わたしは沖縄で連日行われている決死ともいえる辺野古基地建設の抗議集会とデモには常に寄り添っているつもりだ。涙なしには直視しえない献身的な抗議集会でありデモである。それも老人が前面に立って闘っている。わたしは全面的に応援したい。だから、デモに行った時には、少ない金ではあるがカンパもしている。
 全国には様々な集会がありデモがある。胸が熱くなるものばかりだ。わたしの胸に刻まれているのは、戦争法案反対の機運が高まったときに、長野の寒村で電動スクーターに乗った老婆を先頭に行われた数十名のデモであり、ムシロ旗を掲げた農民のデモである。
 わたしはこうしたデモを称賛こそすれ否定はしない。また毎週金曜日に行われている国会議事堂の抗議集会も称賛こそすれ否定はしない。
 わたしがデモの浪費をするなというのは、総がかりとか市民連合とかが企画した中央の大掛かりで組織的なデモのことだ。

 デモのためのデモならやらない方がいい。
 朴槿恵大統領を退陣に追い込んだデモを考えるべきだろう。デモが朴槿恵の息の根を止めたのだ。戦略的に練られ、デモの波及効果と破壊力を計算し尽くした上のことなのだろう。そして演出である。デモとは敵にどう見せるか、どう見せれば効果的に恐怖心を与え、また破壊力を増すか、演出と脚本が必要なのである。ただ宣伝して動員すればいいというものではない。
 今このときは、のっぴきならない歴史的分岐点にある。
 安倍政権を倒すか、それとも破滅へと転がりだすかの瀬戸際なのだ。その認識があるのだろうか。だから共謀罪を阻止するなどというのでは危機感が足りない。共謀罪をどう阻止するのか。共謀罪反対のデモなどでは不可能なのである。それが分からないとしたら、政治的センスがないか、危機感が中途半端かのどちらかだろう。
 共謀罪を絶対阻止するには、安倍政権の心臓を射抜く可能性がある森友学園疑獄デモを打ち、国民的な結集を図り、8・30を凌駕するデモを起こすしかないのである。それも、戦略を練り、敵が恐怖し震え上がるような演出と脚本が必要なのだ。
 デモをみせるのは敵だけではない。マスコミと国民である。だから演出と脚本が必要なのだ。
 夜にやったり、平日にやるのなど何を考えているとしかいいようがない。
 広く国民を巻き込むことはもちろんのこと、政治的無関心層まで惹きつけて動員しようという意図があるとは到底思えないではないか。
 デモに行くのも金がかかる。茨城県から国会議事堂にいくには、往復運賃も結構な金額だ。世の中には、運賃がないから就職活動ができない人までいるのだ。非正規労働者は日当換算であり、平日を休むと死活問題になるのである。そうしたことを真面目に考慮しているのだろうか。
 国会議事堂正門前で行われるデモによく行くが、地下鉄国会議事堂前の駅の改札を降りて、外へと向かう長い階段を手すりにしがみつくようにして一段一段登っていく老夫婦の姿を見たことがあるのだろうか。足が不自由なのにデモに参加する姿に、わたしは胸が熱くなった。体の不自由な人も車椅子でデモに参加してくれている。幼児を抱えた女性までいる。
 こうした人たちにとってデモに行くとは考えているよりも重い行為なのだ。やむにやまれず、行くのである。わたしがデモを浪費するなというのは、こうした人たちを思ってのことだ。
 何回も来られないし、折角来たのに、マスコミにも取り上げられないし、安倍政権へのダメージなど露程もなければ、回を重ねるごとにデモに幻滅したとしても当たり前である。
 安倍政権の息の根を絶つデモ。国民を巻き込んだ組織的なデモを企画するなら、それを常に頭に置いておくべきだろう。
 わたしは8・30のデモの渦中にあったが、高揚感は半端ではなかった。そしてこの8・30のデモが、野党共闘を実現させたといってもいいだろう。しっかりとした成果があり、10万以上の群衆で国会議事堂正門前を埋め尽くしたから歴史的デモとなるのだ。

 一市民が発起人となって全国民を巻き込んだデモは可能なのだろうか。
 森友学園疑獄がまだ国民の関心にはなっておらず、マスコミの報道もほとんどなかったときに、わたしはブログで、圧倒的なネット世論を作り出し、マスコミに圧力をかけ、国民の関心をどこまで呼び起こさせられるか、その可能性に賭けてみようと呼びかけている。そして、実際にわたしは徹底的にツイッターで森友学園疑獄に関するツイートをリツイートし、私自身もツイートしている。
 圧倒的なネット世論はマスコミを動かせたのではないだろうか。
 今度はデモの可能性を探るべきだろう。後がない切羽詰まった局面だからだ。
 ありがたいことに、森友学園デモ実行委員会なるものが狼煙を挙げた。注目すべきことである。わたしは全面的にバックアップしたい。
 連日メディアが森友学園疑獄をトップニュースで扱っている。一週間前には考えられなかった現象である。国民の関心も沸騰している。
 しかし、敵は火消しに躍起である。あの手この手で必死になっている。
 一週間前と今は違うが、一週間後はどうなっているか。何か大きな事件でもあれば、その時点で森友学園疑獄の火が急激に収まってしまうとも限らない。
 安倍晋三はふらふらな状態であり、自民党も揺れている。デモを打つなら今しかないのである。8・30規模のデモが実現すれば、間違いなく安倍晋三の息の根を絶てるだろう。自民党からも造反者が続出するに違いない。何故ならば、8・30規模のデモをマスコミがトップニュースで扱うからだ。
 だから千載一遇のチャンスであり、この今というときに、森友学園疑獄デモをしないでいつするのか、といいたいのである。
 森友学園デモ実行委員会によると、3月12日に国会議事堂でデモを起こし、翌週の3月19日に総がかりと連動するという計画だが、わたしは3月12日を決戦日にすべきだと思う。翌週にどうなっているかわからないからだ。
 それに、もう既成の組織頼みではなく、一市民の発起によるデモがどれほどの可能性があり破壊力があるか、圧倒的なネット世論を巻き起こそうではないか。その時にはマスコミが3月12日に大々的な森友学園疑獄の市民デモがあると報道するだろう。
 そして、安倍晋三と安倍政権と自民党に、現実のデモがある前に、恐怖心を喚起し自己崩壊を誘うのではないだろうか。
 
 明日から、ネットで大々的に3月12日のデモを宣伝するつもりだ!
 そこで読者にお願いなのだが、Twitterで拡散してください!
 お願いいたします。

 昨日Twitterで批判されることを覚悟で、デモに関するツイートをしたのだが、予想通りご批判を受けた。
 最後に、わたしのツイートと、それに対する批判とをそのまま添付しておきたい。

(私)
 森友学園疑獄は天下分け目の関ケ原。短期決戦。ここで安倍晋三の首を取れなければ終わりです。NHKしかみない老人の自民党員まで安倍の嘘に気づき怒っている。マスコミも重い腰を上げ、熱が入りだした。この好機に市民連合は呑気です。共謀罪デモではなく、速攻で森友デモでしょ!
(私)
 いつ安倍政権を倒すのか? 森友学園疑獄への関心が国民的規模で沸騰し、マスコミが騒ぎ出した今だろう! この機会を逃したら、安倍は破滅へ向かって暴走していく。いつまでも国民の関心を惹きつけ、マスコミは騒いでいない。圧倒的な森友学園疑獄デモを打つときだ! 急を要する。何をしてるのだ!
(私)
 デモを浪費するな! 日曜に韓国並みのデモを打つべきだ! 本気で安倍政権を倒す気があるのか? 共謀罪は安倍政権を葬れば回避できる。周到に練られた圧倒的な森友学園疑獄デモが優先であり、急務だ! 敢えて言う、自己満足のデモをやってるときではない! 安倍を倒すか、それとも日本破滅かだ!
(批判)
 前回までの抗議にはいらっしゃるか、またはどういったものだったか確認の上での発言ですか?自己満足の浪費をしているとは思いません。「周到に練られた圧倒的な森友学園疑獄デモ」よいですね。しかし人に望まずご自分主催でなされたらよろしいかと思います。韓国並みのデモ、私も参加したいです。
(私)
 わたしは8・30の渦中にいました。昨年中は毎月の19日の集会にも行っています。ある時は、主催者の連絡ミスで国会議事堂に集まったのは100人未満のこともあった。日本のデモは戦略性が足りません。やればいいのではない。デモは絶好の機会を逃せば、動員もできす、効果も急激に薄れます。
(私)
韓国規模は例えですよ。しかし8・30規模ならあり得るでしょう。それに戦争法案反対よりも国民の関心は高く、マスコミも森友学園疑獄を大々的に扱うようになっている。潮目が変わったのです。だからこそ好機であり、安倍はふらふら状態。8・30を再現すれば自民も持たない。デモは政治的手段です!
(批判)
 ぜひ、あなたが主催して呼び掛けてください。拡散しますから。これだけ強くおっしゃるなら、やりますよね。
(批判)
 お前がやれなんだけど、まあ、そのなんだ、逸る気持ちはわかる。ただ、韓国、どの運動もクラウド、草の根、連帯半端ないよ。Lgbt関連しか主に聞いたり、見たりしてないけど、まじ連帯してる。普段が大事だよね。だから、逸る気持ちだけで言っちゃダメ。
(批判)
 誰に訴えかけてるのですか?
(私)
 連日のようにデモを企画している、総がかりと市民連合です。すべての市民を国会議事堂正門前に結集させるべく、あらゆる組織が団結し圧倒的なデモにしないと、安倍は政権を投げ出さないでしょう。もう安倍はふらふら状態。韓国並みの圧倒的なデモを見ればその時点で終わり。自民から造反者もでます。
(批判)
 考えは分かりますが、やってる方達も忙しい中で考え抜いてやってる訳でして、いきなりあんな言い方されたら怒ると思いますよ。
(私)
 だから、非難を覚悟で言ってるのですよ(笑)。私は国会議事堂前と日比谷公園のデモは度々行っていますが、デモで安倍政権の息の根を絶てたら、そんな素晴らしいことはないじゃないですか。デモは目的でないのです。飽くまでも政治的結果を求める手段です。安倍政権を葬り去れる歴史的デモの好機!

(
Twitterで森友学園デモ実行委員会を発見して)
(私)
私がやりたかったことをやっていただき、貴方さまの勇気と実行力に敬意を捧げます。3月12日(日曜日)に、一市民が上げた声でネットによる拡散で圧倒的な世論形成と市民の決起を成し遂げ、圧倒的なデモで安倍政権の息の根を止めた記念日にしましょう! このデモがある、という事実が安倍を追い込む
(私)
 素晴らしいご提案です。全面的に賛同いたします。やりましょう! 3万人といわず、8・30を凌駕するデモで、安倍晋三の息の根を絶ちましょう。私も同じことを思っていたのですが、貴方のように出来なかった。この提言の画期的なところは一市民の発起ということ。この件で今日ブログを書きます!

 下の画像は、森友学園デモ実行委員会の呼び掛け文です。

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 日本共産党の小池書記局長の参議院予算委員会での質疑は圧巻だった。
 小池書記局長が手にした紙を読み上げた瞬間、しーんと静まり返った委員会室。そこにいた閣僚と与党議員と、そして野党議員までが、「はっ!」と音にならない声を上げたのがわかった。その直後に、喉ぼとけを大きく上下させて唾を飲み込む音までが、わたしには聞こえた。
 では安倍晋三はどうだったか。
 日本共産党の小池書記局長と安倍晋三との質疑応答が炙り出して、わたしに見せてくれた安倍晋三という男についてこれから素描してみたい。
 そして、安倍晋三とのやりとりで小池書記局長が繰り広げてみせてくれた、並外れた議論術を書いてみたい。
 安倍晋三を追い込むには、通常の議論術ではだめである。周到な脚本と戦略がないとならない。そのためには、安倍晋三の人格を前提にしたものでなければならないのであり、その人格を操ることが求められるから難しいのである。
 以前わたしはブログで、志位委員長と安倍晋三との国会での論争を記事にしたことがあるが、用意周到に脚本と戦略が練られ、論争の中で劇仕立てでいいように安倍を操っていく戦略的技術を書いている。
 小池書記局長とその点では共通性がある。
 その上で二人の違いをいえば、志位委員長は切れ味鋭い論理で、じわじわと逃げ道のない袋小路へと追い込んでいく過程を本格的な推理小説仕立てでみせてくれる。
 それに対して小池書記局長は、業と安倍を脇道へと逃がしてやり、しかし投げ縄で安倍を捕らえると、縄を引っ張って引きずってみせてくれるのである。縄とは安倍が思わず滑らした言葉と嘘である。それを投げ縄にして逆手にとるのだ。喜劇仕立てだといえなくもない。観客へのアピールは抜群だろう。
 小池書記局長は論争しながら、常に委員会室の野次や閣僚の身振りや表情、そして委員会室の雰囲気に注意を払っている。そして小池書記局長の凄さは、安倍との論戦の中で常に観客としての国民の目を意識していることである。
 どうすれば、国民の心を揺さぶり、安倍の醜悪さと不誠実さを国民に訴えることができるか、それを意識した上で、言葉は悪いが、論争の中で手綱を緩めたり絞ったりしながら、安倍を操っていくことになる。そのために、用意周到に脚本と戦略が練られているのだ。
 小池書記局長の凄さはこれだけではない。西田敏行もびっくりするほどのアドリブを駆使できることである。そのアドリブの巧みさで観客を魅了し、観ている者をワクワク、ドキドキさせてしまい、知らぬ間に引きずり込まれてしまうのである。
 では安倍晋三の人格についてと、小池書記局長の論争術を具体的に書いていこう。
 
 小池書記局長が手にした紙を読み上げた瞬間の、安倍晋三の凍り付いた表情をテレビが映像として写し出した。
 安倍晋三ほど、ありのままの心中を表情としぐさに出してしまう男は珍しい。政治家としては致命的なのだが、この致命傷を安倍晋三の破壊された人格が助けてくれているのである。
 安倍晋三の人格の本質は虚言と詐欺にある。そこに異常なまでの自己溺愛と顕示欲とがあり、その自己愛と顕示欲はコンプレックスの裏返しなので始末が悪い。自己溺愛と顕示欲の背中にコンプレックスが引っ付いているから、誰かに少しでもけなされたり、からかわれたり、批判されようものなら大変なことになる。安倍のコンプレックスは血がにじんだ傷口のようにちょっとした刺激にも敏感であり、激痛を誘うものだからだ。だから、それを打ち消すために、表面の自己溺愛と顕示欲が暴走を始める。安倍の自己溺愛と顕示欲は、コンプレックスと一体だから、当然に相手との対等な関係でいられるはずはない。コンプレックスだけなら、相手の下に甘んじるが、異常な自己溺愛と顕示欲があるから、相手より自分が上にいないと我慢がならないのである。しかし、根っこにはコンプレックスがあるから、力で相手を抑えつけなくてはならなくなる。安倍の異常な権力欲とはここにその根拠がある。安倍に権力を与えると、独裁的な方向へと向かいたくなるのは容易に想像できるだろう。そして、更にエスカレートすると、恐怖政治の色を帯びてくることになる。
 こう書いてくると、NHKが連日作為的に放送している北朝鮮の裸の王様であり危険極まりない独裁者、金正恩と瓜二つだといえないだろうか。
 第二次安倍政権になって安倍のしたことは周りにイエスマンだけを侍らせて、安倍に敵対するものを悉く切り捨ててきたことだ。手段は択ばなかったはずだ。そして次第に自民党を掌握していって独裁色を強め、安倍に異議を差しはさむことができないような空気を作り上げたのである。安倍の力ではないだろう。安倍の人格の特異さの利用価値を知り尽くした勢力が背後にいるのだろう。
 自民党の独裁者となった安倍は、国家の独裁者へと駆け上ろうとしている。これまで指摘したことを踏まえれば当然の帰結だといえるだろう。戦前の治安維持法の再来である共謀罪(テロ等準備罪)はその仕上げだろう。

 安倍ほど心中が表情としぐさに出てしまい、これだけをみると政治家として致命傷だといったが、安倍の人格の本質に虚言と詐欺があるから、安倍の心を論理的に分析することはできない。
 そもそも一貫性がなく、言葉と言葉に脈絡性がないからだ。安倍にアドリブで論争させれば分かるだろう。一分もしゃべらせれば、論理矛盾のオンパレードなのである。論理的に安倍の言葉を分析し理解しようとする行為は愚かでしかないのだ。元々が、論理的一貫性も脈絡性もないからだ。
 一瞬、一瞬に閃いた自分に有利になり、自分を正当化し、自分を飾ることができそうな言葉をまき散らすだけだからだが、その言葉と言葉を繋いでいるはずの一貫性も脈絡性もないのだから、嘘つきであり、詐欺師とみえるのだ。みえるのではなく、幼児の頃から安倍は嘘と詐欺とを人格として鍛えてきたとしかいえない。父親である安倍晋太郎が安倍を称して、言い訳だけが飛びぬけていた、というようなことを言っていたらしいが、安倍がどういう幼少期を送っていたか想像できるというものである。
 この言い訳を放置した母親の罪は大きいだろう。倫理観の欠如に繋がり、自己溺愛症と顕示欲を助長させただろうからだ。
 したがって、表情としぐさから安倍晋三の心中を読み取ろうとしても無駄なのである。安倍の心の中は支離滅裂であり、一貫性も脈絡性もないからだ。何を考えているか得体がしれないと言われる者がいるが、それは心が抱え込んだ闇の深さと、その闇と格闘しながら生きているからなのだろうが、安倍の心には闇など存在せず、あっけらかんとして薄っぺらである。安倍の心を表現すれば、遊びに飽きて投げ捨てられ、部屋いっぱいに散乱したおもちゃとでもいうべきものだ。
 ヒトラーは自らをファシストへと鍛え上げたが、その意味では、自覚するファシストといえるのだろう。ヒトラーが政治に、嘘と詐欺と支離滅裂と、一貫性と脈絡性の排除を持ち込んだのは、意図的であり戦略性がある。
 安倍晋三は人格がファシストの資質を備えているのである。その意味では、無自覚なファシストだといえるだろう。安倍晋三が政治に、嘘と詐欺と支離滅裂と、一貫性と脈絡性の排除を持ち込んだのは、安倍の人格の必然的な結果なのである。
 ヒトラーに思想があったか。
 ヒトラー独自の思想なのだろうが、やはりニーチェの影響は否定できないだろう。ただ西欧的な精神風土と思想風土とを根源的な所から否定したニーチェを理解していたとはいえないのではないだろうか。ヒトラーがニーチェから借りたのはニヒリズムと絶対的な力への渇望だったのではないだろうか。ともあれ、ヒトラーには、思想があり、ファシズムに不可欠のニヒリズムを自らの生の過程で七転八倒しながら掴み取ったというヒトラーの思想遍歴の歴史があったのである。
 翻って安倍晋三はどうだろうか。
 倫理観は見事といっていいほど欠如しており、その意味ではニヒリズムと言えないこともないが、ヒトラーが七転八倒して掴んだ思想としてのニヒリズムとは無縁である。まったくの無自覚であり、嘘と詐欺を核とした安倍の人格がニヒリズムを作っているのである。
 ヒトラーは何ものをも信じていない。信じるものは力だけである。それを自覚的に、そして思想として勝ち取るとなると、心の均衡は危うくなるのではないだろうか。ヒトラーが狂人といわれる所以である。
 一方の安倍晋三はどこまでもあっけらかんとして能天気である。人格の中にニヒリズムが生きており、そのニヒリズムに無自覚であるから、ニヒリズムと格闘することもなく、その意味では、心はいつも平安である。が、安倍晋三の人格の核には嘘と詐欺があるから一貫性と脈絡性とが破壊されている。支離滅裂を抱えた心なのである。だからヒトラーに通じる狂人性を備えているようにみえるのだ。
 ヒトラーは力以外の何ものも信じなかったが、安倍晋三は岸信介への絶対的な信仰がある。その信仰も自己溺愛と自己顕示欲の変形したものなのだが、岸信介と結び付けて戦前の国家神道とファシズム国家体制とをみているのだろう。岸信介が心に抱えた深い闇とは安倍晋三は無縁な男だから、化け物でしかない岸信介の心など分かるはずはないのである。だから、政治的マキャベリストであり、冷酷なリアリストである岸信介と、戦前の国家神道とファシズム国家体制と結び付けて信仰しているのだろう。お目出度い男であり、幼児的な男である。

 わたしは森友学園疑獄は安倍晋三のおぞましくも醜悪な心を具象化したものとして理解している。安倍夫妻は塚本幼稚園の教育理念を称賛している。
 塚本幼稚園が園児たちに教育勅語をそらんじさせている風景は異様であるが、これが安倍晋三の心の風景であり、同期の桜を歌わせ軍国主義を幼い園児たちの心に植え付けようとしている風景も安倍晋三の心の風景である。そして、運動会で中国と韓国への差別的発言を園児たちに強い、「あべしゅしょう、がんばれー」と叫ばせ、安保法案の可決をよかったねと言うように強要する風景が、安倍晋三の心の風景である。
 これが安倍晋三の思想を具象化したものだ。思想と呼べるしろものではないが、安倍晋三がいう日本的精神と伝統と文化になるのだろう。日本的精神と伝統と文化とは真逆であり、お粗末極まりない。
 おぞましいとしかいえないではないか。また、醜悪だとしかいえないではないか。
 これだけが安倍晋三の心の風景ではない。
 しつけという名のもとに、幼児に食事中にお茶を飲ませなかったり、決められた時間以外にトイレに行かせなかったり、お漏らししたウンチをパンツにくるんで鞄に入れて持ち帰らせたり、いうことをきかない幼児に罰を与えたりする塚本幼稚園の風景が、そのまま安倍晋三の心の風景なのである。
 こちらは、コンプレックスと一体になった自己溺愛と自己顕示欲の発露であり、そしてコンプレックスを打ち消そうとしてしがみついた異常な権力欲の発露である。権力を握れば、やがて恐怖政治へと至る。園児たちが、安倍晋三の心がどれほどおぞましく危険であるか、身をもって教えてくれているのだ。

 もう一つの国有地をタダ同然に森友学園に売却した側面は、安倍晋三という男の驚く限りの倫理観の欠如と、権力を我が物顔で乱用し国家財産までも自分のものと思い込んで恥じない男の、殺伐とし、汚れきった心の風景の具象化である。
 こうした男に権力を持たせるとどうなるか、森友学園疑獄は警鐘を鳴らしているのである。
 第二次安倍内閣になってからの国会を観れば分るだろう。議論にならないのである。安倍晋三は元より大臣の答弁が論理矛盾をきたし、支離滅裂なのである。そればかりか、内閣総辞職に繋がるほどの大臣たちの不祥事と失言がお咎めなしなのである。政治倫理の崩壊といえるだろう。
 また言論統制も目に余るものがある。安倍の息がかかった経営委員を送り込んだNHKは完全な安倍内閣の宣伝広報機関となっている。民放の偏向報道も酷いレベルだ。報道の自由度が世界72位なのであるから、国民の目と耳と口は塞がれてしまったといっていいだろう。
 こんな男を神輿として担いでいる自民党と公明党は、狂っているとしかいえない。担いではいけない危険極まりない男だからだ。無邪気で、無自覚な、先天性ファシストなのである。
 似たもの夫婦とはいうが、安倍昭惠も能天気であり、無邪気である。責任感もまったくなく、倫理観もなく、自分の言動がどういう重大な影響を及ぼすか頓着しないのである。二人とも大人とは到底いえない。そうした二人に権力を与えるとどうなるか。森友学園疑獄が語ってくれている。

 本当は用意周到に練られた戦略的な脚本のあるデモとはどういうものか書くつもりだったのである。それを小池書記局長の質疑を分析する中で明らかにしようとしたのだが、筆が安倍晋三とヒトラーに逸れてしまったのである。デモについては、今日中に書くつもりだ(笑)。
 では、小池書記局長が脚本監督の喜劇仕立ての劇をさらっと語りたい。
 と思ったのだが、一気に書いたので疲れており、思考能力も落ち、Twitterで約束したのでデモについても書かなくてはならないので、中途半端になってしまいそうである。それではわたしが尊敬する小池書記局長に申訳がない。
 よって改めて近日中に必ず、小池書記局長の質疑応答による論争術の凄さと天性の才能について書きたいと思う。わたしは作家なので、どうしても物語としてみてしまいたくなるのである。
 小池書記局長は安倍晋三と二人で論争しているのではない。
 国民という観客に小池書記局長の脚本兼監督の演劇をみせようとしているのである。劇の良し悪しは、観客にどれだけ受けるかにかかっている。
 舞台は参議院予算委員会の議場であり、主役は小池書記局長であり、安倍晋三は脇役である。そして重要なのは、その他大勢の予算委員会の議員たちなのである。
 そうした視点で必ず書くということを約束して、今日は終わりにしたい。
 小池書記局長の質疑。


※『里山主義文学』という名のブログに、連載小説『三月十一日の心』を転載しました。読んでいただければ幸いです。

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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