街の中の彫刻 26
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京都の立命館大学にある 「わだつみの像」 です。「街の中の彫刻 24」 で東京の世田谷美術館の前に建つこの像を紹介しました(2月22日)。しかし、立命館大学に建つこの像をどうしても見たいと思っていましたが、4月に京都に行ったときにその願いがかないました。
この像は、大学の国際平和ミュージアムに入って地下の入口に行く階段から見られるように建っています。光線の具合がよくないので写真にはあまりよくありませんが、台石には次のようにありました。
像と共に未来を守れ
未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだえを象徴するのがこの像である。本郷新氏の制作。
なげけるか いかれるか はたもだえるか きけ はてしなきわだつみのこえ
この戦歿学生記念像は広く世にわだつみの像として知られている。
一九五三年一二月八日
立命館大学総長 末川博しるす
作者の彫刻家本郷新は除幕式での挨拶で、「わだつみの声を具象化するには、金ボタンの学生姿でなければならないという考え方にはどうしてもなれず、といってボロボロの軍服を着た死に瀕する兵隊でもものたりない。そんなことから私は一人の美しい肉体をもった青年の裸体の中に、すべてを内包させようという考えに落ちつきました」 と述べています。
大学の正門を入って少し行くとこの大きな碑が建っています。この碑については説明板にある通りです。そしてこの碑の前にある末川記念会館に展示してあったのが下の色紙です。「未来を信じ、未来に向かって進もう」 という青年に対する熱い思いが伝わってきます。
立命館大学は、明治末以降に政治家として大きな存在だった西園寺公望によって明治初年に家塾として創立されたましたが、昭和の戦争の時代に起きた滝川事件(1933年)によって京都大学法学部の教授たちが抗議の辞職をし、末川博(1892〜1977)をはじめその多くが立命館大学に移って大学の中心となり、京都を代表する私学として発展したのでした。
滝川事件(京大事件)とは、法学者滝川幸辰教授の学説が時代にふさわしくないとして時の文部大臣が京都大学の学長に教授を辞めさせるようにせまったところ、大学の自治に反するとして拒否されたために、大臣は教授を休職処分にしました。そのために大学の同僚教授ら多数が辞職した事件です。戦前の、学問・思想の自由、大学の自治の危機をあらわす事件として知られています。
戦後の立命館大学の歴史は、末川博(総長・学長 1945〜69)を中心として世界平和と民主主義の実現、そのための青年の教育を目指すものでした。それは、戦歿学生たちの無念の思いを未来につなげるものだと言えます。
『きけ わだつみのこえ』 出版の収入で東京大学に建てる予定(1950年)だったこの像が、大学の反対で宙に浮いていたときに立命館に建てることを決断したのは末川総長でした(1953年)。しかし、全共闘らの学生運動が盛んだった時に、この像が破壊されるといった不幸な事件がありました(1969年)。
作者の彫刻家本郷新がこの像の再建に応じて出来上ったのが国際平和ミュージアムに今は安住の地を得たこの 「わだつみの像」 なのです(1970年)。
国際平和ミュージアムに入ると一階に大きな部屋があります。そこの大きな壁にあるのが手塚治虫の 「火の鳥」 です。説明板には次のように書いてありました。上の写真が未来、下が過去です。
「過去」 は、戦禍による人類の未曾有の苦しみと悲しみを語り、「未来」 は、平和への希求と実現を呼びかけている。両者の間の空間を 「現在」 とし、常に平和を考えるラウンジとした。
この壁画原作者、故手塚治虫氏は 「火の鳥」 のなかで、宇宙にみなぎる生命とその摂理の中で、精一杯生きていく生きものたちの賛歌をうたいあげた。氏が 「火の鳥」 に込めた恒久平和の願いと、国際平和ミュージアムがめざす平和実現への決意には共通したものがある。
広い館内は、さまざまな物と写真や説明によって、戦争の時代と戦後の平和実現の努力が克明に展示されています。修学旅行生もよく訪ねてくるそうです。しかし、あえて言えば、あまりにも充実しているために見るのが雑になってしまうといった問題があります。
普通の人がこうした展示をじっくり見るのは1時間くらいが限度ではないでしょうか。近ければ何度でも来られますが遠くてはそうもいきません。どうしたらよいのか、難しいですね。それにしても 「わだつみの像」 のある大学にふさわしいすばらしいミュージアムです(1992年開館)。 |
