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第一海水浴場から小魚山に向かって坂道を登っていくと、
「康有為旧居跡」という大きな案内板がある。
旧居跡はすぐ見つかる。
小魚山の中腹にあるから、昔はさぞかし見晴らしがよかっただろう。
青島の有名人旧居跡は、小魚山周辺に集中している。
1917年、青島を訪れた康有為は、そのあまりの美しさに魅了され、
1923年、ここに居を構えた。
康有為が戊戌の変法を起こしたのが1898年6月、40歳のとき。
専制君主制から立憲君主制へ、
康有為の説得を受けた光緒帝は、次々と変法の勅令を発した。
しかし、頼みの袁世凱の軍隊は西太后側について攻撃。
戊戌の変法はわずか百日で終わった。
百日天下で終わったとはいえ、
まだ24歳の若き皇帝をひと目で感銘させ、
梁啓超(25歳)、譚嗣同(33歳)などの逸材をひきつけた康有為。
その人物の大きさは、ただ者ではない。
康有為は日本に亡命中、宮崎滔天の計らいで孫文とも会うが、
当時まだ無名の孫文と肌が合うわけはない。
片や皇帝の元側近である。
二人は激論相容れず、別れたまま再び会おうとはしなかった。
改良派と革命派との大同団結を目論んだ滔天の夢はむなしく潰えた。
その後、孫文の武装蜂起も失敗。
極貧の中にあった滔天は、革命家黄興と出会う。
黄興も武装蜂起に失敗して日本に亡命中だった。
滔天は早速、黄興と孫文をひき会わせる。
1911年、孫文と黄興らによる辛亥革命勃発、翌年、中華民国成立。
孫文は臨時大統領に、黄興は陸軍総長になる。
さらに翌年、袁世凱が民国の実権を握る。
滔天は袁世凱の懐柔策を憤然と蹴り、孫文、黄興を支持した。
一方、康有為のもとで戊戌の変法に協力した梁啓超は1913年帰国。
世は改良派の天下となり、梁啓超は政治家として、また教育者として活躍する。
(因みに、梁啓超の旧居跡は天津にある)
弟子だった梁啓超に比べ、康有為の晩年はあまりぱっとしない。
宣統帝の復辟運動に力を注いだりしたが容れられず、
追われるように青島へ戻って生涯を閉じた。
1927年3月。享年70歳。
(2006年3月18日)
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