気ままな奈良県民の極楽トンボ的な日々

宇宙戦艦ヤマト2199 【1】 やっと届きました!!

西国の城郭

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中国・四国・九州の城郭です。訪問の機会が少ないのであまりアップはありません。
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豊後府内城跡

霧雨の別府湾SAを出発。

時間はまだ12:30を少し過ぎたところ。

出船時間は18:50なので、全然余裕〜♪

もし豊後竹田城跡へいけなかったら、ここへと思って確認しておいたところへ〜!

大分市内の市街地にある豊後府内城跡です。

大分道を大分ICで下りて、一般道を走って、別府湾SAから30分くらいで到着。

周囲には県庁・市役所があると思えば、一方では雑然とした住宅地があるといった
中途半端な場所にありました。

何でこんなところにあるのかと思えるコイン駐車場にクルマを停め、早速探索です。

江戸期の城。大分市荷揚(にあげ)町にあり、明治以降の地名で大分城ともよばれる。別称を荷揚城、白雉(はくち)城ともいう。1597年(慶長2)豊後臼杵(ぶんごうすき)から転じた福原直高(なおたか)によって築かれ、1601年竹中重利(しげとし)により増築された。竹中氏は1634年(寛永11)改易、かわって日根野吉明(ひねのよしあきら)が入ったが、これも除封され、1658年(万治1)松平(大給(おぎゅう))忠昭(ただあき)が2万2000石で入り、10代相継いで幕末に至った。現在、人質西角櫓(ひとじちにしすみやぐら)と宗門櫓が現存し、大手門が復原された。 

Yahoo!百科事典より



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用水路のような?堀を越え、入城します。

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内堀の向こうに二層櫓が見え、堀には犬走があります。

特に犬走は熊本城にはなかったはず・・・どちらかと言えば藤堂高虎流の築城か?

熊本城の後に、ここだとかなり物足りない感じ。

さらに歩いていくと猫が

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猫の分際で威嚇してきます。気の強そうな猫です。

少し歩くと

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廊下橋にたどり着きます。

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でも復元でこれは何となく寂しい。

本丸へ入ります。

天守台に登ってみます。

イメージ 7


築城当時は四層の天守閣があったらしいですが、よくある話で1743年に火事で焼けてしまい、
その後は再建されることはないまま、現在に至ったようです。

2万石程度の小大名では、城持ちというのも分不相応なので、天守閣が再建されなかったのも仕方ないです。

天守台からの眺めです。

イメージ 8

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平城ですから、周囲が市街地化すると眺めは最悪です。
熊本城とは、全く比較になりません。

その昔は、堀の向こう側に海が広がり、船着場などもあったようですから、
雰囲気もずいぶん違ったのでしょう。

天守台からおりると・・・

某戦国大名の胸像が・・・でも、この人、府内城とは関係ないはずなんですが・・・

本丸内の御殿があったところも殺風景、何もありません砂利の駐車場。

城門があったのでくぐってみました。

イメージ 10


堀端を歩いて駐車場へ戻ります。

向かいは大分県庁?なので、わりときれいにしてあります。

イメージ 11


そして、ちょっとした公園にでると、こんな注意書きが・・・



マナーは守らないといけないですね(笑)

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熊本城天守閣

目玉の本丸御殿を後に、熊本城訪問のクライマックスです。

熊本城 大天守閣・小天守閣

イメージ 1


本丸御殿が公開されてから、天守閣の方は少しばかり陰が薄れましたが、
この天守閣が、鶴屋前の路面電車の走る道から見えると、今も昔も
熊本にやって来た〜♪と。

イメージ 2


入口には蛇の目の加藤家家紋と九曜紋の細川家家紋をあしらった垂れ幕が・・・

入ってみます。

イメージ 3


そこには、一口城主の札に囲まれた中に銅像が?

誰?前に来たときにはなかったけど・・・

谷村計介(たにむらけいすけ)は西南戦争で籠城中に鎮台司令官谷干城の命を受け、
城を抜け出し何度も敵に捕まりながらも逃げ出し、官軍本隊に籠城軍の窮状を伝えた
宮崎県出身の陸軍伍長で、後に自ら進んで田原坂戦に加わり戦死しました。
この話は戦前の修身の教科書に載り、広く国民に親しまれました。
戦前は今の行幸橋際に銅像がありましたが、大戦中に金属供出で撤去されてしまいました。
現在の銅像はそれを惜しんだ熊本ライオンズクラブから、平成10年に熊本市に寄贈されたものです。
現在は天守閣の入口で皆様をお待ちしています

熊本城公式HP

僕が以前訪問したときは、まだ昭和だった・・・当然なかったわけで・・・

階段があるので登ります。

イメージ 4


熊本城全体の模型があります。そして、

イメージ 5


天守閣の木組み模型があります。

まずは加藤家時代の資料や展示品が・・・

本来ならば、多分ここにあったであろうあれは・・・

いろいろ資料や展示品を見たけど、ない!!

清正公が朝鮮出兵のおりに退治したという虎の頭蓋骨

以前はあったと思うんだけど・・・

仕方ないので、上にあがって細川家時代や西南戦争時の資料や展示品を見学。

これはあんまり関心がなかった・・・

最上階へ〜♪

イメージ 6


西側には宇土櫓が

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南東?には、鶴屋が見えます。

ここからの眺めは大そうなものです。

清正公や細川家時代は、城下町の向こうに畑や田んぼなんかも見えたのでしょうが、
今は福岡・北九州に次いでの九州第3の都市、政令市入りを目指しているだけあって、
ひたすら街が、はるか遠くまで広がっています。

奈良なんかは、規模が全く違います。

田舎に遊びに来たというよりも、僕のほうが田舎から街に遊びに来たという感じです。

これで、今回の目的の大半を達成?しました。

15時間かけてきた甲斐があったと。

時計をみると16:30。

もう熊本城も閉園の時間が迫っていますし、それにホテルのチェックインの時間が・・・

とりあえず城外へでればいいと思い、天守閣からおり、売店でファイルケースとタオルを買い、
三の丸駐車場を目指したのですが、またまた寄り道を・・・・



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熊本城本丸御殿 後編

若松之間を見て、いよいよ熊本城本丸御殿の目玉とも言える『昭君之間』を目前に・・・

何でやねん? 何でケータイに?


ケータイへ電話してきたのは、やはり会社の某ドライバー氏から。

やっとのことでケータイを開くと、切れてしまった・・・・

何となく気にはなったけど、まずは縁側のほうから『昭君之間』を撮影〜!

イメージ 1

本丸御殿の中でも一番格式の高い部屋で、藩主の居間であり、
対面所(接客の場)としても使用されたと考えられています。
室内は床の間や違い棚、付書院などを持つ書院造りとなっています。
壁や襖などには中国の前漢の時代の話で、匈奴に嫁がされた悲劇の美女、
王昭君の物語が描かれています。

熊本城公式HPより

奥のほうに床の間や書院があって、その壁に金箔が貼られ、
その上に中国風の絵が描かれています。

とにかく豪華絢爛です。

総工費54億円の大半が、この『昭君之間』に注ぎ込まれたとか?

遠くからではわからないので、近寄って見ます。

イメージ 2

イメージ 3


藩主が座る上座はこんな感じです。

見上げると

イメージ 4


天井も素晴らしい!!

でも本来は、この上座には熊本藩主が座るのではなくて、
豊臣秀頼が座ることを想定していたはず?
だからこそ、『昭君之間』が豪華絢爛なのかも?
それに比べると、本丸御殿の他の場所は、思ったより質素なつくりになっていますから。

そして何とか写真を撮って、やっぱり気になったので、そそくさと本丸御殿から出ました。

玄関前で電話してみます

『○×だけど、休みの時に申し訳ない・・・ところで・・・・』

内容的にはたいした事ではなかったけど、休みのときは、それも奈良にいないときに
かけてきて欲しくなかった・・・

もう出てしまったので、次はいよいよ天守閣へ〜♪

天守閣での目的は、以前見たあれを、また見たいと思ったのだけど・・・



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熊本城本丸御殿 前編

西大手門・南大手門・くまもと物産市・宇土櫓・数奇屋丸二階御広間・飯田丸五階櫓・不開門を経て、
やっとたどり着きました・・・・

熊本城 本丸御殿

イメージ 1

往時の本丸御殿には、藩主の居間、対面所(接客の場)や台所等の機能が備わっていたが、
今回、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)と大御台所(おおおんだいどころ)を復元した。
建築面積:約2,161平方メートル。建築費:約41億8千万円で復元。
(発掘調査、設計等を含めた総事業費:約54億円)
見所は、障壁画の復元を行った「昭君之間(しょうくんのま)、若松之間(わかまつのま)」や
全国的にも類例の無い地下通路「闇り通路(くらがりつうろ)」、巨大な小屋組みを見ることが
出来る「大御台所」など。

熊本城公式HPより

今回の熊本城訪問の目玉です。

この本丸御殿が、熊本城入城者数を日本一に導いています。

御殿建築としては、特異なものでもあります。

二条城の二の丸御殿、篠山城大書院などと比べるとその違いがわかります。

まず、御殿そのものが石垣上に建てられています。

それは、御殿というよりも大規模な平櫓といった感じ。

それと御殿の下に通路があります。

イメージ 2


『闇り通路』と呼ばれる地下通路で、照明がなければ、ホントに闇です。

そこを抜け、本丸へ入ります。

そこには、おなじみの天守閣が!!

ふと目をそらすと・・・

イメージ 3


忍者がいます。しかし、忍者は観光客と一緒に写真を撮られています。

これでは、面がわれてしまい、本来の役目が果たせなくなるのでは・・・・

イメージ 4


本丸御殿の玄関に到着。

さすがに昨年4月からの一般公開ですから、きれいでです。

靴を袋にいれて御殿内に上がります。

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まずは当時の本丸御殿の全体を復元した模型があります。
どうも築城当時は、他にも連結された御殿もあったようで、
もっと大規模なモノだったみたいです。

さらに進むと

イメージ 6


御台所です。天井が吹き抜けになっていて、囲炉裏やかまどの煙を御殿外へ逃がす構造になっています。

まだまだ進みます。

『若松之間』です。

藩に何かあったときには、ここに藩士たちが召集されたのでしょう。

とにかく奥行きがあります。
末席では、全く藩主の顔は見れなかったでしょう。

若松之間に沿った縁側歩きます。

イメージ 7


イメージ 8


質素な内庭があり、そこからは城下が一望です。

遠くに鶴屋がみえます。

そして、いよいよ本丸御殿の目玉中の目玉にたどり着こうとした時、

ケータイが・・・・

『あ〜♪、よりによって、こんなときに・・・』

去年、松山へ行ったときも、こんなことがあったなぁ〜♪


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熊本城不開門

飯田丸五階櫓を見て、次はいよいよ本丸御殿・天守閣へと思っていたら、
木陰の向こうに何か櫓が見えたので、また寄り道〜♪

近づいてみました。

イメージ 1


不開門

常時は扉を閉ざしていた不開門。現在は伝統工芸館への近道。 
この門は城の鬼門である北東に位置します。
昔の陰陽道ではこの方角は塞いでも、開け放してもいけないとされ、
門は造るが普段は閉ざし、不浄なものを運ぶときだけこの門を開いたと言われています。
現在は入城口として使用しており、伝統工芸館への近道です。
国の重要文化財に指定されています。
 
熊本城公式HPより

熊本城の鬼門である北東に位置する門で、その昔は閉められたままだったようで、
死体を運び出したりするときだけ、開けられたみたいです。

西大手門・南大手門とは、全く違い非常に小さな門ですが、
現存する城門なので、重文の指定をうけています。

くぐるのは縁起が悪いのかも知れませんが、
ここ最近、ずっと縁起の悪いことだらけなので、
今更気にしないでくぐってみました。

イメージ 2


やはりこじんまりした小さな城門ですが、古いので風格が漂っています。

その向こうに城外へでる道もありましたが、下ってしまったら本丸御殿へも
天守閣へもいけなくなるので、またくぐりなおし城内へ〜♪

そして、いよいよ本丸御殿を目指します。

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