机上レポ

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 次のページ ]

国道138号(神) 昔話 #3

いつかはこの話題に触れなければならないと思いつつ、大分時間が経ってしまった・・・


明治工業史(土木編)に明治期の国道道路勾配について記述があるのだが、
『此の処に最も急勾配を有するものを記すれば、横浜より横須賀鎮守府に至る路線には2分の1、
又横浜より箱根に至る路線、小田原町より長尾峠に至る路線、
松山より八幡浜に至る路線には共に3分の1、、、云々』
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29310349_0?1332800346
横須賀の2分の1勾配については、氏のレポにある通りだが、ぢゃ3分の1勾配は?
これこそ道路勾配としては異常だろう・・・
「横浜から箱根」は範囲が広すぎるので、よー判らんが「小田原町から長尾峠」は箱根山中なのは間違いない

「来る〜きっと来る〜」ィャ、コレハベツノモノガ、、、と待ち構えていたが、その兆候は無い
それなら自分で解いてみせよう

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/109946/img_109946_29303565_1?1332639899
(流用、クリックでちょいと大きくなります)
しかしながら、最初っから躓いた。3分の1勾配とは、33.3333パーセントである
現在、そんな急勾配が無いのは周知の事実だが、果たしてそんな急勾配の道を造ったであろうか?
私費で開かれた道がベースであるし、通行料を取ってた位だから、人力車が登れなきゃ意味が無い

例え一部でもそんな急坂があれば「名所」になったであろう
また箱根人力車組合が黙って無いだろう (多分そんな組合は無かったろうが)

なぉ、坂を登るのがメインなので、箱根の人力車は2人で曳くのが普通だったそうだ

はっきり言って、3分の1勾配という数字は「ねみみにみみず」だった
調査か記録の間違いではないだろうか・・・ 実は裏付けとなる資料がある

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29310349_1?1332800346
#1でも出た「神奈川県下道路開さくの件」で既存の道路についての記述がある
この中に
『塔ノ沢西方にて約7,80m突間、また大平台西南方にて約3,40m突間の傾斜は約7分の1に達する』
とある。同資料は明治42年であるから、内務省調査とほぼ同時期だ
こちらの方が具体的場所を含んでいるので信頼性が高い

7分の1勾配ならば、14.28パーセントで確かにキツイけど、登れない坂では無い

塔ノ沢西方、大平台南西の地点は、明治20年に富士屋ホテルの山口仙之助氏が開いた区間だ

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29310349_2?1332800346
大正時代の地図から道路線を重ねてみる
当時の地図は精度、、特に道路位置等が正しく無いので、道路曲線が変わったかどうかは判らない
ただ、基本的ルートは同じであるようだ。例えば大平台のヘアピンは当時からある

塔ノ沢(の外れから)西に7〜80m、大平台(の外れから)西南に3〜40mというと、ピンクのマーク当りか

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29310349_3?1332800346
現在の道路勾配を見ても、7分の1勾配は見られない
ちなみにこの区間の平均勾配は6.26パーセントとなっている

勿論、7分の1勾配は、後の改修により緩和されている

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29310349_4?1332800346
まさしくジャストミートな改修記録がある。大正15年12月の土木建築工事画報

大正12年9月1日の関東大震災で、箱根地方は多大な被害を受け、国道も壊滅状態となったが、
その復旧に伴い、勾配等も改良されたのだ

7分の1(14.28パーセント)勾配も、15分の1(6.66パーセント)に緩和されている
(そこまで緩和されてない気もするが)

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29310349_5?1332800346
同記事の写真に左上大平台、左下出山鉄橋付近がある
大平台付近はどんな改良が行われたか不明だが、出山鉄橋の改良は一目だ

此処は箱根登山鉄道の踏切がある平面交差だったのだが、道路側を掘下げて立体交差となった
その分、塔ノ沢からの道路勾配を緩和する事が出来たのである

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29310349_6?1332800346
桁下4.2mであるから、トータルで5m位であろうか、、、
震災前はこの手前までが急坂だったという事になる

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29310349_7?1332800346
続いては昭和期の改良。昭和14年12月の土木建築工事画報

基本道路舗装であるが、一部において勾配等も改良されている
最急横断勾配 9.2パーセントとなってる。先出とは別の場所が改良されたのかも知れない

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29310349_8?1332800346
これにより現在の姿にかなり近くなっている

後の改良で、急カーブの緩和などが行われている
谷部が廃止されたりして、直線的に結ぶなどして、勾配的にはキツクなったトコもあるが


以上が箱根国道の「長尾峠ルート」における急勾配改良の歴史である
概ね国道1号であるが、重複区間という事で今件のタイトルに含めた
そもそもの発端が「小田原町から長尾峠」だからね

結論としては、明治工業史(土木編)における箱根地方の「3分の1勾配」は間違いと思われる
どないでしょ?

閉じる コメント(0) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

国道138号(神) 昔話 #3 画像

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

画像

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

真鶴有料道路開通記事

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/109946/img_109946_29199307_1?1329961244
真鶴道路の石碑 で、神奈川県が手掛けてた工事を日本道路公団が引き継いだ・・・という事を書いた
途中で丸投げ、、なんてこたぁ無いだろうが、どの様な分担だったのかちょいと興味があった

別件で、土木学会附属土木図書館のデジタルアーカイブスを見てる時にふと検索してみたら、
意外と簡単に見つかった

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29200884_0?1329997890
土木学会誌/第44巻 第9号/昭和34年〈1959年〉の記事より抜粋。以下同

真鶴有料道路開通の記事である

9月3日に開通式が行われた
昭和27年11月着工、31年3月までに4600mを神奈川県が完成
31年4月より日本道路公団に引き継がれる
公団としては、32年9月26日に着工し、竣工したのは34年8月18日となっている

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29200884_1?1329997890
記事には県、公団の工事区間も図解されていた〈色づけは当方が行った〉

黄区間、湯河原千歳橋から吉浜の外れ辺りまでは、県により既に改良済み
緑区間、吉浜外れから真鶴駅前〜JR真鶴隧道〈当時は国鉄長坂山隧道〉熱海方抗門近くまでを県が工事
紫区間、残り根府川分岐までを公団が工事

湯河原〜真鶴は観光道路以外にも、地元交通の改良という目的があったから
県が先行〜工事の実施を行った訳ね
湯河原〜真鶴間は旧道の拡幅がメインのようだ

断崖絶壁の真鶴〜根府川間は、まったくの新設だし、予算的にも掛かるので、公団が工事を行い、
観光有料道路として開通した・・・

ある意味、理に適ってるなぁ

しかし、こうもあっさり謎が解けるとは、、、何年も調べてて判らん事もあるのに

閉じる コメント(0) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

旧都橋 

イメージ 1


とすったもんだのあった都橋の旧橋だが、データだけは見付けた
昭和3年〈1928年〉神奈川縣発行の「吾等の神奈川縣」に記録が見つかった

これによると当時、県道厚木−御殿場線の都橋は鋼橋で、
橋長 12間00尺〈21.8メートル〉、幅員 18尺〈5.45メートル〉
架橋されたのは大正15年9月とある

追記.その前にも橋があったのは確実、震災で落橋したか?

鋼橋ってどんな姿だったのだろうか・・・
橋の種別は、アーチ橋は鋼拱橋〈樋口橋〉、トラス橋は〜式〜橋〈相模橋、宮城野橋、平山橋〉と
記載されてるので、そういう類の橋梁では無く、例えば橋脚があり複数徑間の単純鋼桁とかが考えられる

現橋の昭和29年〈1954年〉までこの橋が架かってたかは不明だが、
鋼橋であれば30年架かってても不思議では無い。水害等で損傷しなければ

写真が残っていそうなので、引き続き調査は行っている

同線、籠場橋は現県道72号線川音川に架かる橋〈もち旧橋〉だが、松田町/落合橋ってドコだ?
と新たな謎が豊富に出て来て困っちゃうな

閉じる コメント(0) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

絵葉書 小田原名勝箱根ヲ望ム

ネットで古絵葉書を探してた私は、コレを見つけてそれこそ「ひっくり返った」

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_0?1328387442
「小田原名勝箱根ヲ望ム」

御塔坂の上の山から撮影したと思われる
風祭・入生田方面の風景で、真新しい新道〈現在の国道1号〉が写ってる

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_1?1328387442
地図だとこの辺り。現在とは全然違う

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_2?1328387442
左手早川の旧護岸なども興味をそそられるが、とりあえず注目したのはこの三ヶ所

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_3?1328387442
緑の部分。新道が行き着く先は、旧道と合流し、左側に山崎発電所、、昭和11年建造はまだ無い
国1は再び旧道と分かれて左にカーブするのだが、まだ造られて無い

あんと工事途中!

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_4?1328387442
風祭から箱根湯本まで、内務省直轄で工事が行われたのは昭和六年
昭和六年が工事開始か終了か不明だが、この写真が撮られたのは前後数年という

2012年2月6日補足。
地方新聞の記事見出しより〈日付は新聞記事の載った日〉

着工したのが昭和6年5月28日
内務省直轄工事として、小田原〜湯本間の舗装が完了したのが昭和8年5月24日

昭和5年9月21日の記事では、小田原〜湯本間県道〈もち国道の間違い〉改修は
小田原町風祭地区から着工
〈当時風祭は大窪村。昭和15年に町と合併し、小田原市となる〉

計画どうり進んでいたのなら、写真が撮られたのは昭和6年と見てよいと思う
以上補足

ピンポイントで年代が判る

オチツケ

て事は、この写真に写ってる線路は、昭和10年に直通した鉄道線では無く

軌道線

ウハー

軌道線が写ってる遠景写真など、殆ど無いのだ

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_5?1328387442
続いて赤の部分。新道両サイドは余地では無く道路堤
風祭のこの辺は昔土地が低かったのだ

川沿いには田が広がり、人家は山沿いにある。そんな昔の田園風景である
写真全体に広がる田の畦道が、等高線のようだ

後に新道と同じ高さまで嵩上げする土地改良が行われている
道路を横切る水路は今も流れてる。写真の上辺りが現「かまぼこの里」

小田原電気鉄道は、この写真の十数年前には早川沿いの軌道だった訳で、田にその跡らしきモノは無い
左下隅辺りにあるのがその痕跡か

明治軌道が川沿いに写る場所も特定できそうだ

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_6?1328387442
そしてものの見事に慄かせたのが紫の部分
大正軌道がハッキリ見て取れる

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_7?1328387442
資料調査で出てきた大正軌道〈点線〉はこの程度だったので、実に難儀していた
地形高低差にも合わず、概略図だからしょうがないと諦めかけていたのだ
〈そして概ね間違っている〉

こんなに判る写真が出てくるとは思わなかった。まさに今回のレポの為のようだ

しかもこの区間は・・・

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_8?1328387442
今回の軌道調査を行う以前から、鉄道線脇にある三日月状のトコは疑問に思ってた地形なのだ
登山線の線形改良以前のルートだったんだろうか・・・真っ当なマニア〈?〉なら絶対思う場所

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_9?1328387442
しかし現地は入生田側が高台とも言える地形で、鉄道線は堤で下る高低差がある
どうしてこんな三日月が残っているか不思議だったのだが、モロ軌道線跡だったとは

長年の謎も解消された

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/fe/4e/bazu55555/folder/725107/img_725107_29131611_11?1328387442
まだ解析始めたばかりだが、コレは「至極の一枚」である
小田原電気鉄道の調査も、一気に進んだゾ

閉じる コメント(2) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 次のページ ]


.

BAZU
人気度

ヘルプ

Yahoo Image

  今日 全体
訪問者 8 118228
ブログリンク 0 10
コメント 0 799
トラックバック 0 12
検索 検索
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

開設日: 2008/8/14(木)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.