THE BIBLE
新しい皮袋また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。(マタイ九章十七節)
すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(ピリピ一章十八節)
先日、東京・中央区銀座にある教文館で開かれたイベント「マンガ・アニメ聖書展in東京」に行ってきました。聖書を題材にした作品を描いているクリスチャンのマンガ家、イラストレーター、劇画家、アニメーター十数人の作家の原画、書籍が展示されるとともに、マンガ家のトークショーや対談、パネルディスカッション、絵描き実演ショー、ドラえもんの映画のテーマソングを歌っている岩渕まことさんのコンサートなどが行われました。
当日は、聖書に関するマンガ、イラスト、劇画を描き、アニメを制作してきたクリスチャン作家二十人あまりが一堂に集い、参加者だけでなく作家同士が交流をもつ機会ともなりました。これだけのクリスチャンのマンガ家、イラストレーター、劇画家、アニメーターが一堂に会した機会は今までになく、本当に画期的なことだったろうと思います。
その中で、マンガ聖書シリーズ(日本聖書協会発行)新約の著者でマンガ家のケリー篠沢さんがパネルディスカッションで語ったコメントがとても印象的だったので、紹介いたします。
こんな証しも聞きました。バングラデシュのある村で、宣教のためにその村の言葉に訳された「マンガ・メサイア」(新約聖書版)を五千部刷って配ったところ、それを子どもたちが家に持ち帰っていきました。その村の人々はイスラム教を信じていたので、親たちは「こんなキリスト教の本を持って来て。ダメでしょ」と子どもたちを叱ったそうです。ところが、中を開いてみるとフルカラーでとてもきれいなので、結局、父親も母親もそれを読んでしまいました。そして、イエス・キリストが救い主であることが分かり、その後、一万人以上の村人たちがキリスト教に改宗し、その村全体がキリスト教の村になったそうです。
マンガ聖書は、聖書を配ってはいけない地域にも行き渡っているそうです。命がけで届けてくださる人がおり、そこで命がけの証がなされている。そんな話を聞くと涙が止まらなくて、私もチャラチャラしないで作品づくりに真剣に取り組まなければいけないと、昨年、心を入れ替えました。
世界二十二か国後に翻訳され、二十八か国の人々に読まれている。しかも、聖書を手にしても読んでもいけない国、町、村の人々にも行き渡り、福音が届けられている…。こういう話を聞くと、本当にマンガというツールは福音を届けるための強力な武器なのだと実感します。しかも、マンガはまさに日本人のお家芸です。これほど精密に繊細にマンガを描ける国民は、世界広しと言えども、日本人しかいないでしょう。日本のマンガはまさにブランドであり、世界中の人々が一目置く日本文化でもあります。その日本発のマンガを使って聖書物語、天路歴程やナルニア物語などのキリスト教文学、日本や世界のキリスト教史などが、日本人クリスチャン作家の手によって世界に届けられるのです。日本人クリスチャンにとって、何と誇らしいことでしょうか? これは、まさに神様が日本人クリスチャンを用いてなそうとしている福音宣教ではないかと思うのです。
しかし、今から約三十年前の日本の教会はどうだったでしょうか? マンガに対する教会の反応は大方、「百害あって一利なし。クリスチャンがマンガなんか読んではいけない」というものではなかったかと思います。
劇作家のまどかまこさんは、当時の雰囲気をこう語っておりました。「イエス様を信じ、マンガで聖書物語を描きたいと思っていたのですが、当時は『マンガでイエス・キリストが描けるのか?」といった考えの人々が多く、『マンガで福音を伝えるのは不謹慎だ』といった時代でした。なので、描きたくても、描く機会がありませんでした」
私も今から三十年前に信仰をもったのですが、当時はマンガで聖書を物語るという発想自体なくて、せいぜい教会学校用の紙芝居程度のものだったのではないかと思います。また、子どもたちは「鉄腕アトム」「オバケのQ太郎」「巨人の星」「宇宙戦艦ヤマト」「ドラえもん」など、まさにマンガ、アニメに囲まれながら育っていたのですが、教会はむしろマンガ、アニメの悪影響を恐れ、なるべく見ないようにしなさいといった指導が主流だったと思います。なので、マンガ聖書が世界中の人々に読まれ、救われる人がいっぱい起きているという状況、クリスチャンのマンガ家たちが数十人もいて一堂に会すなんて状況は、当時では想像もつかなかったことなのです。
実は、日本や世界のキリスト教の歴史をひも解くと、同じようなことが繰り返されてきたことを知ることができます。
例えば賛美です。ピアノは、今では教会の礼拝の伴奏になくてはならないものですが、もともとピアノは酒場で使われていた楽器であって、かつては教会から「悪魔のボックス」と呼ばれていたものだそうです。また、私たちは今、ジョン・ウェスレーやチャールズ・ウェスレーの賛美を何の抵抗もなく歌っていますが、当時は流行歌に賛美の歌詞をつけたような彼らの賛美を、保守的な教会は「あんなのは賛美でない」と、受け付けなかったと聞いています。
日本はどうでしょうか? 私が救われた当時、「友よ歌おう」というゴスペルフォークが大変流行しておりました。今、五十代のクリスチャンの中には、山内修一氏が作詞・作曲した「友よ歌おう」「忘れないで」「世界ではじめのクリスマス」などを賛美して育ったクリスチャンが結構いるのではないかと思います。しかし、このゴスペルフォークも、バッハなどクラシックに傾倒するクリスチャン、賛美歌・聖歌でなければ賛美ではないという保守的な牧師から「あんなのは賛美ではない」と言われ、相当叩かれたそうです。しかし、山内さんのゴスペルフォークは若者の支持を得、中高生のキャンプでよく歌われました。
その後、ワーシップソングが日本中に広がっていき、新しい礼拝スタイルが確立されていきましたが、これもまた従来の礼拝式にこだわる保守的な教会の牧師から攻撃や非難を受けてきたようです。このように、新しいスタイル、ツールは、市民権を得るまでには、想像を絶するような攻撃を、保守的な人々から受けて来ているのです。
ある牧師は、「聖書の教えはとことん保守的、伝え方はとことん革新的に」と言いました。聖書が教える真理はいつまでも変わりません。しかし、時代は変わっていきます。私がイエス・キリストを信じた頃は、パソコンも携帯もCDもなかった時代です。音楽はラジカセで聞きましたし、カセットテープで録音していました。しかし、今、ラジカセで音楽を聞き、カセットテープに録音するような人は滅多にいません。時代は変わりました。ならば、その時代に合ったツールを使って福音を伝えていかなければなりません。
聖書には、このような御言葉があります。「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます」(マタイ九章十七節)
イエス様が来られる以前は、聖書の中心はモーセの律法でした。しかし、イエスが救い主として来られ、新しい教会の時代が到来したことにより、ユダヤの律法主義という古い皮袋では、福音という新しいぶどう酒を入れることができなくなったのです。だから新しい皮袋が必要となったわけです。今の時代も同じではないでしょうか? 時代の移り変わりによって、その都度、皮袋は新しくして行かなければならないのではないでしょうか?
私たちは時々、すでに時代が大きく変わっているのに、いつまでも古い皮袋にしがみついている場合があるようです。また、「百害あって一利なし」「そんなものでイエス様を伝えるなって不謹慎だ」と言っていたものが、実は新しい時代に効果的な新しい皮袋だったりする場合があるのです。
私は何か新しいツールが生まれてきた時、いつもこう思うようにしています。「イエス様だったら、このツールをどう福音宣教に用いられるだろうか?」と。多くの人は新しいものに対して慎重です。それを良くないもの、避けるべきものと考えがちです。しかし、もしかしたら神様はそれを福音宣教の道具として大いに用いようとしておられるのかもしれないのだ、と。「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます」(ピリピ一章十八節)
さて、今はインターネット時代です。人々の多くはスマートフォンを持ち歩き、移動しながら連絡を取り、仕事をする時代でもあります。最近はフェイスブックという便利なソーシャルネットワークツールもできました。大切なのは、それを神様が福音宣教の道具としていかに用いられるか? ということです。
この新しいぶどう酒、新しい皮袋を福音宣教の道具としていかに用いていくかが、私たちに問われている課題だと思います。
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