無題
『青い鳥』・・・五木寛之氏はどう読んだか(2)(4)
五木さんは原作に描かれているスピリチュアルなメッセージには一言半句触れることなく、考察は一挙に最終幕へ飛びます。そこでは夢は終わっています。キジバトが青く変色し、隣の娘さんの病気が治っています。そして、青い鳥はどこかへ飛んで行きます。五木さんは言います。
「これには私も驚きました。」
なぜか?
「本当の幸せに気づいた二人は、その日からつつましい暮らしのなかに生き甲斐を見つけて、ひっそりと小さな幸福を大切に生きていきました、という教訓的な結末を予想していた」
からのようです。
私は物語の結末には何にも驚きません。ああ、うまくまとめたな、と感心するだけです。メーテルリンクは、ずうっとスピリチュアルな世界を語ってきて、どう結末をつけるか、興味深いところでした。
彼はまず、キジバトを青く変身させました。それをもらった娘の病気は治りました。魔法の世界は終わったはずなのに、実は終わっていないんだよ、現実に奇跡はあるんだよ、と言っているかのようです。
これが一つの仕掛けです。
もう一つの仕掛けは、鳥が逃げて行ったということです。チルチルは観客に言います。「もしあなたのそばに青い鳥がいたら返してくださいね」と。観客は、劇場の外で、青い鳥に出会うかもしれないなあと錯覚を起こすかもしれません。
つまり、メーテルリンクは三重の仕掛けを施しているのです。
(イ)劇の中の魔法=夢の世界、(ロ)夢から覚めた劇中の現実世界、そして、(ハ)観客の住む現実世界。
観客は(ハ)から(ロ)を見ながら(イ)の世界に誘われる。そこでたっぷりスピリチュアルな世界に入る。そして、目線は(ロ)に戻ってくるのですが、(イ)との対比で何となく(ロ)が現実のような錯覚を起こす。そこで起こった奇跡が何となく現実にあるかのような気分になる。チルチルの最後の呼びかけで(ハ)までが(ロ)のようになる。
なかなか巧妙です。
私はメーテルリンクの巧妙さに感心するばかりでしたが、五木さんは違います。
「とんでもないドンデン返しが最後に待っていたものだ」
そういう読み方が出来ることにつくづくびっくりさせられます。
五木さんの言わんとするところは、我々がどんなに青い鳥をさがしまわっても、青い鳥はいない、我々には青い鳥のいない虚しい日常だけがある、ということです。そしてそれこそメーテルリンクが言わんとしたところだ、と。
(5)
五木さんは現代日本を深く憂えています。一四年間も連続して、毎年自殺者が3万人を超えている、この日本はおかしいのではないか、と。生きづらい世の中になってきたのではないか、と。
五木さんの憂慮は分かりますが、そのことを言うために『青い鳥』を持ち出すのははなはだずれているのではないでしょうか。この物語はそのように読んではまずいのではないでしょうか。
私はこの物語はスピリチュアルファンタジーの傑作として、まさにそういうものとしてだけ読み取ってほしいと思います。青い鳥のことなどどうでもいいのです。それを探す旅がどうのこうのという詮索もつまらないことです。一番大事なことは、魂の永遠性は本当か、生まれ変わりは本当か、人生計画は本当か、メーテルリンクは本当のことを言ったのか、そこに焦点を当てることです。
五木さんはそんなことにはまるで無頓着です。
五木さんは親鸞を勉強してこられた方のようです。
親鸞を勉強すると唯物論者になるのでしょうか。
違うはずです。
親鸞は六角堂で観音様から夢のお告げを受けたではありませんか。「お前に私が抱かれてしんぜよう。女犯の戒など気にするな」と。親鸞の転機を画した出来事です。霊的世界があるということです。
五木さんは「青い鳥」にこだわります。
「私たちは、いま、幸せの『青い鳥』の飛び去ったあとに、呆然と立ちつくすチルチルとミチルのような状態にあるのではないか。幸せをもたらしてくれる魔法の鳥は、もういない。『青い鳥』の去ったあとの世界に私たちはおかれている。」
希望はないと言いたいのでしょう。
これではちょっとさびしい気がします。
五木さんは大変まじめな方です。現代を憂えています。
郷土の大先達として、誇りに思うところも私には多々あります。
しかし、『青い鳥』を引き合いにだして、もう希望はないのだと暗い弱気を語ることは止めてほしい。
その本にはそんなことは何も書いてない。
霊的真実に気づき、全てに感謝することを知ったら、今すぐ幸せが満ちていることがわかるでしょうと書いてある。そのことを知ったチルチルとミチルは幸せになるに決まっています。その本には真の希望というものが何であるのかがはっきり書いてあるではありませんか。
同じものを読んでも、まるで違った読み取り方が出来るものだということはよくあることですが、それにしても、びっくりですね。
(平成24年5月21日) |
