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 私自身は『機動戦士ガンダム』で富野喜幸を知って以降、確か昭和五十五年に入学した中学校でも、
野球部に入部したこともあって、当時のアニメファンらしいアニメの受容をし損なったのでした。で、
Ζが始まったのは私と兄が席巻されたザ・スターリンが解散コンサートをした年であり、
テレビアニメ『タッチ』が始まる年でもあって、久しぶりにアニメを観ようと思いついたのです。

 『だから僕は…』をスニーカー文庫で買った程度の(富野、あるいはガンダム)ファンなので、
私は初代至上主義という観念、思い入れを避けることが出来た格好。考えてみれば「ヤマト2」を、
「もう一つのヤマトシリーズ」として理解し、「完結編」での沖田館長の復活に関する西崎の弁明を、
                                      艦長
素直に認めた次第。とはいえΖは半年で視聴を回避。「言いたいことはわかるけど」と思った筈で。

 だから今になって考えると私自身は『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は期待の程度が鑑賞前から、
乏しかった映画であり。ファンを頼りにした仕掛けで大ヒットを目論んでいたようだけど、
「アムロとシャアの対決」というガンダムシリーズの「残りの話」ではガンダム・フィーバーの再来は、
難しいだろうと想像を。つまり私は公開前からガンダムファンのための映画と想像し。

 だから私は作り手としての富野由悠季のガンダム(という象徴、ブランド、舞台)を使っての、
「最後に言いたいこと」と思えて、例えばハサウェイやクェスの問題を若者論と推察。確か以前、
若者への失望や絶望の表現と解説した覚え。また私自身は、『Ζガンダム』の要素
(地球連邦政府への絶望、忌まわしい記憶をもったアクシズ)を入れたのは、理解できること。
※太字、下記のリンク先から引用

 シャアを悪人にし損なった、というより「純粋な人」と劇中人物に評価させたのは当時の監督の、
思想・思考の体現者だからと考えられ。だからアムロの役割や立場が弱いのですが、本作では、
「連邦は駄目」という認識が両者共有しているのが(作劇での)最大の欠陥と考える。しかも、
Ζで描写されているので本作で物語ることを避けたため、「人類の課題」という問題設定が曖昧に。

 「実は嫉妬による個人同士の愛憎劇でした」というオチは面白いので、シャアとアムロの対立を、
もっと仰々しく物語れば「奇跡」によって地球が救われる結末でも(『風の谷のナウシカ』のように)、
大衆人気を獲得してガンダムシリーズを終えられたと夢想するのですね。ナウシカ公開の当時は、
多少安直と思った筈だけど、「逆襲のシャア」人智を疑った結果と素直に理解でき。
                       の公開当時は

 でもshiwasu5さんも指摘するように以上の事情を勘案しても『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、
「一見さんお断り」の映画。根本の理由として推測できるのはザ・スターリンの遠藤ミチロウと、
確か吉本隆明との対談で話題になったカルチャー(芸術)とサブカルチャー(芸能)の問題で、
考察できるのでは。つまり『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は「芸術作品」だったという意味。

 個人の嗜好が称揚される芸術という分野は(熱狂する)篤志家による市場がある代わりに、
大衆が応援する(できる)仕組みを逸している形。私は確かΖの本放送後、「逆襲のシャア」公開前に、
『だから僕は…』を読んで、ホワイトベースの放浪は富野が入社した虫プロ、中でもアトム班と理解し、
驚いたと記憶。ならばΖのシャアはと、翻って推測したのですね。

 だから「逆襲のシャア」で「難民のための政治」という主張を聞いて、監督の富野由悠季にとって、
アニメ業界とアニメファン、そして富野ファンへの贈り物と推察できるのですよ。つまり篤志家、
固定ファンのために存分に自己主張した「お話」というもの。本作が結果としてファーストに準ずる、
人気の獲得に失敗したことが証拠と、私が理解するところ。


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トラックバック、ありがとうございます。
いろいろと示唆されることがありました。

>つまり私は公開前からガンダムファンのための映画と想像し。

これは手厳しいご指摘ですね。その解釈だと『逆シャア』は映画の皮をかぶったOVAということになりませんか。
富野が「最後に言いたいこと」というのはピンと来ませんでした。“いつもの富野”だと感じたんですね。
ハサウェイやクェスは「(当時の富野なりの)若者論」だというのは面白いです。俺のクェス理解にひとつの道筋がついた感じです。
『逆シャア』が「芸術作品」だというご指摘は富野ファンとしては嬉しい評価です。ちょっとくすぐったいですが。
「難民のための政治」が『逆ャア』のテーマのメタファーだというのは興味深いです。ガンダムやアニメといった固定ファンのための作品で、富野は大衆の方を向いていなかったのではないか、という理解でいいのでしょうか。
「難民のための政治」というのは今となっては重く深刻な問題ですね。スペースコロニーがゲットーのメタファーだとしたら富野の幻視する力というのは侮れません。 削除

2017/1/18(水) 午前 1:33 [ shiwasu5 ] 返信する

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> shiwasu5さん 新しい記事として返答しました。

2017/1/18(水) 午後 11:41 [ 大塩高志 ] 返信する

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